camera

 まくり上げたシャツの袖を指先でいじる。まだ日差しがやわらかい朝は肌寒い。かといってジャケットを着るには暑く、持て余された黒い布は貸し切りのシートの上に怠惰そうに広がった。通勤電車は車内も車窓の景色も人いきれで曇っているが、地元へ帰るこの四両編成は時間が早いのもあってかどちらも広く澄んでいる。止まっては進み、止まっては進みを繰り返す景色に自分の顔が映り込む。眉間に寄った皺、目の下の影、真一文字に結んだ唇がため息を落とした。

 早起きしてふたり車輪を並べ自転車のペダルを踏んだ。朝日が河川に反射してきらきらとまぶしくて俺は目を細めた。俺が笑ったのかと思ったらしく横で息を切らすハイジは破顔する。それを見て俺も口角を上げた。首から下げた自慢のカメラを掲げるハイジはそのあと盛大に転ぶ。十歳くらいのころの俺とハイジ。どこにいったのか覚えてはいない。でも、そのときの朝靄のかかった青い空気やハイジの表情、きらきらと光る水面が窓に映る疲れた自分の顔に重なった。
 イヤホンから流れる音楽にききなれた駅名が重なる。立ち上がるついでに足元に荷物を忘れていないか確認する。そこで慌ててでてきたため、財布と携帯電話に鍵なんかの必要最低限のものだけしか持たず三時間以上を移動してきたことに気づく。ドアが自動で開かないことにクエスチョンマークをだす頭に一足早く動いた体。ドア横のボタンを押すと、冷たい風が吹き込んできた。
 見慣れたホームに降り立ち、いつのまにかICカードに対応していた改札を通り、歩く。数件店舗が並んだだけの商店街。テンションの高いおじさんのいる自転車置き場。家へ向かう最後の曲道に立つ掲示板には、手作り感の溢れる祭りの案内に場違いにさえ感じられる凝ったデザインの写真展の案内。その横の電信柱には葬儀の案内看板が立っている。毛筆で黒々と書かれた苗字は自分のよく知った名前で今更ながら心臓がギュッと絞られるように痛んだ。


△▽△


 アオヤは雑巾絞りがものすごくうまかった。うまいというのはなんだか変だけれど、クラスの中でアオヤの雑巾絞りが一番に痛かった。なにかしらの罰ゲームでアオヤに腕を差し出す。その段階でもうすでに頭の中は痛いきもちでいっぱいで顔は引きつった。アオヤの大きな両の手が上腕を掴む。手首のスナップを効かせて雑巾を絞るようにねじられたらもう皮膚が破れるのじゃないかと思うほどの激痛が走った。いっしゅんで手を離したアオヤは得意げに笑い、つぎはこれで対決しようと提案してくるのだ。オレはその顔を何度もカメラに収めた。
 小学生から中学の三年間、遊び倒したアオヤとオレの勝率は五分五分だった。なんでもはじめからそれなりにこなすアオヤと掴むのに時間がかかるオレ。背が高く優等生面したアオヤとない身長を補うために髪を立てたオレ。ちいさいころからつるんでなかったら、友だちにすらならなかっただろうふたりは案の定高校進学を機に徐々に疎遠になり、オレが大学進学を口実に地元をでてからは一度も会うことはなかった。それでもなんだかんだと連絡だけは取り合った。
 アオヤはオレにとって夢なんてものを語れる唯一の友だちだった。パソコンの画面越しにそのことを本人に面と向かって言ったこともある。眉を寄せて唇をすこし尖らせたそのときのアオヤの顔には、そんなことを言ってどうせ口だけだろうと、わかりやすく書いてあって、思わず笑ってしまったからアイツはきっと冗談かなにかだと思っているのだろう。それでもアオヤはこしょこしょ話をするような音量でオレに夢を語り、やりたいことがなくなったとため息のような声を聞かせてくれた。歳をとって気づいたけれど、オレはいまいちひとに気を遣うのがうまくない。子どものころなら、根拠もなくだいじょうぶうまくいくと言えていたのかもしれない。でもすこし前のオレは、気の利いたことのひとつも言えなかった。独りよがりな考えだけれど、自分の夢を叶えて、それでなにかを伝えられたらとおもっていた。
 写真だけで食えるようになって、個展を地元でも開くことが夢だった。奇跡的に前半が叶って数年、準備を続けてきた。子どものころから撮りだめていた写真からも選んで、表情をメインテーマに構成する。そこにはもちろんはじめての被写体であるアオヤの写真もたくさんあった。それどころか会場にはいってすぐにドーンとでっかくアオヤの予定だったので、恋人になぜ自分じゃないのかと詰められた。でも、変える気はなかった。個展で写真を使いたいという依頼と地元でのプレリリースの招待状を送ったけれど無事に届いただろうか。訃報のほうが早くついてしまっていたらショックだな。速達にすればよかった。


△▽△


 実家に寄って会場まではタクシーにでも乗れたらなと考えていた。でも、田舎ではタクシーひとつ捕まえるのも面倒で、とぼとぼ歩いていくことにした。都会は目まぐるしく景色を変えるけれど、ここは十年経とうがあまり変わらない。歩いて、走って、キックボードで、自転車で何度も往復した道を基本的に下を向いて、たまに空をみあげて行く。じんわりと夜がやってきて、またすこし肌寒くなる。まだ本調子でない虫やカエルの声がイヤホンの隙間から聞こえた。薄暗い街灯に何度もぶつかる蛾。その下に落ちているなにかしらの甲虫。踏まないように時折飛び跳ねる。立ち止まる。
 すっかり暗くなったころにようやく会場についた。馬鹿みたいに時間がかかったことに驚いて、早く出てよかったと息をつく。ぼんやりと光をはらんだ入り口まで数十メートルというところでまた足が止まる。ぼーっと突っ立っていれば肩を叩かれた。振り返れば見慣れないスーツ姿の友人。ずいぶん老けたなと思っていたら、やっと帰ってきたかと肩に腕を回される。そのまま引きずられるようなきもちで、実際はきちんと自分の足で光の中に入っていった。

 葬儀が終わり、それでもひとと別れ難かった俺は誘われるままにちいさな居酒屋に向かう。なんでもないような昔話を肴にすすむ酒は苦かった。眉を顰める俺に、目を潤ませる友人、カラアゲを咀嚼しながらぼっと遠くを見つめるクラスのマドンナ。普段とは比べものにならないくらい酒は周り、店から引きずりだされるころには体だけ半分寝てしまったかのようだった。
 同乗するかと誘われたタクシーを断り来た道をふらふらと歩く。歩いて、走って、キックボードで、自転車で何度も往復した道を上ばかり見て歩いていたはずが、気づけば行きしなの電車で窓に映して見た河原の遊歩道にいた。
 水の流れる音と虫の声、遠くに始発列車が線路を滑る音がする。月と星の光に満ちていた景色が、地平のほうから白んでいく。川面が輝いて、魚かなにかがちいさく跳ねる。不意に冷たい風が正面から体に当たる。アルコールで火照っていた体はとうに冷え切っていて、いまさら気づいたようにくしゃみが出た。その音にあわせてカシャリと聞き覚えのある音がした。音と風の行く先を体全体で追いかける。朝日がまぶしくて目を細めたら、ずっと眼孔の中に溜まっていた涙が零れた。


△▽△


 ふと気がついたら、ぐちゃぐちゃになった自分が足元に転がっていたので最初はすごく驚いた。驚く以外ができなかった。オレが驚いている間にも時間は流れ、オレそのものも流れていった。病院で、実家で、泣くひとの顔を見てなんともいえないきもちになって、準備中の個展会場に流れ着いてやっと後悔というかどうしようもないきもちになった。体が震えた。震えを抑えるために指を握りこんでも感覚がなく呆然とした。
 でもある程度の時間が過ぎると悲しいきもちは腹から落ちていって、自分の間の悪さに笑えてきた。そんなときにアオヤをみつけた。よくふたりで走った河川敷。個展会場入り口ののでっかい写真はここで笑っていたアオヤの写真だ。葬儀帰りなのだろうブラックスーツを着たアオヤはまたすこし身長が伸びたようでうらやましくおもった。その長身の上に乗せた顔はあのときと違ってなんともいえない表情をしていて、胸がむず痒くなった。何とも言えない顔で、ときどき立ち止まりながらだらだらと歩く。
 アオヤの前に立ち、いつのまにか手に持っていたカメラのファインダーを覗く。シャッターを切る。現像されることのないフィルムの巻き取り音がジィーっと響いた。

 
BGM: 灰色と青 by Kenshi Yonezu

prev | list | next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -