Clap
禁城は粛然と夜明けを待っていた。
此処を訪れるのは何年ぶりになろうか。殷と相対する身で登城した己の立場を苦く思う余裕すら今の天化にはなかった。
王宮の荒涼とした様子が白んでいく空の下に広がっていく。かつて振るっていた栄耀栄華は遠い遠い黄昏時に陽と共に沈み、以来、殷は長い夜を過ごしていた。華も賑わいも人の理も、今のこの国にはその残滓すらない。
禁城の広場に立ち尽くす紂王の今の姿が、殷のこれまでの興隆と零落の歩みを物語っていた。疲れと、それ以上の悲しみに暮れて頬は扱け、瞳に灯る光は鈍い。髪も顔も服も真っ白だ。殷を覆っていた闇夜を良しとし、決して夜明けを受け入れなかった紂王が、今正に、白んでいく空にそのまま溶けていなくなってしまいそうだ。
「ひどい怪我だ」
夜を愛した昏君が天化の腹を見て呟いた。覇気のない、病に伏せたかのような細い声だった。
父や聞太師が身を粉にして仕えた王を相手に、天化は膝も折らず、ただ無言でその顔を睨んだ。胸中を巡る想いは複雑だ。代々王家に仕え、王の為に尽くしてきた黄家の生まれでありながら、天化を此処まで奮わせたのは王を討たんとする決意であり、その決意こそ黄家の血が齎したものである。
身の程は知っている。王を討つのは王であるべきだ。けれど理屈も現実も突っ撥ねて、天化は自分が戦う理由の為に太公望の手を払って此処に来た。
自分はもう死ぬ。せめて戦って死にたい。そう告げた時、太公望はひどい顔をしていた。
「泣きそうな顔だ」
誰の事だ、と紂王の言葉に反応しかかって、やめた。
夜は二人に構わず刻々と明けていく。空が完全に白み、陽が顔を出す頃には天化と紂王のどちらかが、あるいは両者が膝を折り、後の時代を見る事なく命を終えるのだろう。
それを悲しみはしない。此処でない何処かでは死ねないと自らの命に見切りをつけ、だからこそ天化は太公望の手を払ったのだから、もう何も嘆きはしないし、この後に訪れるだろう新たな時代の幕開けを見届ける資格もない。ただ此処で死ぬのが天命だと、未だ止まらない己の血潮が告げる。
衰憊し絶望に暮れる国に、まるで朝日のように煌く新時代。自分は必要とされていないのだ。生きたいという意志は、戦って死にたいという死有への願望に摩り替わっている。
「あーたは、まだ生きたいって思ってるさ?」
「……いや。何もかもが、空虚だ」
「……変わったんだな。いや、失くしたのか」
茫洋と、何も捉えない紂王の双眸は、まるで失くした何かを追い求めるような寂寥に満ちていた。武成王も聞太師も、心酔していた妻も、今の紂王の隣にいない。皆去ってしまった。紂王を残して。
「愛しい者の手を取り、ただ在り続ける……。それの何と難しい事か」
うわ言のような紂王の言葉は、最早何にも震わないはずだった天化の心に確かに沁みた。
脳裏に浮かぶのは、伸ばされた手、巻き起こった風に晒された髪、呆然と自分を見る侘しげな双眸。太公望の全てを振り払った。好意も理想も反故にして、道士としてではなくただの戦士として戦場を選び、天化は此処にいる。
本当は難しくなどないのだ。
そう願うのなら、いくらでも、いつまでも、愛しい者の手を取り朝も夜も数えられる。
そうならなかったのは、そうしなかったから。選ばなかったから。
「全部、自分の意思さ」
その人を払い除けた手で、剣を握る。剣の重みと寂々とした空気が今の天化にとっては救いだ。
元より、この血豆が潰れた硬い手に太公望の理想は重過ぎた。彼の細腕を取れば握り潰しそうで、だから手を引く事も引かれる事もなく天化は父の背を追いながら一人で歩み、死地を見出した。独り善がりな生き様を酒の肴に笑う日も来ないだろう。
天化はただ、王の前に立つ。鈍色に光を帯びる剣を手に、腹から矜持という名の血潮を滴らせ、夜と共に終わる為に。
天明に消ゆ
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