厚雲に覆われ低くなった曇天と、棘を含んだように重い空気が天化の肌をなぞる。気持ちが悪い。天化は恐らく苛立っていた。胸の奥底に知らず根付いた不安が喉元までせり上がってくるのを感じとり、嫌悪感に口を結んだ。
滑り込むように駆け、しかし両手はしっかりと突き出して、間髪入れずその腕の中に落ちてきた太公望の身体を抱き締めた。走り出すのがもう少し遅ければ、太公望は桃と同様にその身を打ち付けていただろう。
しかし不安は拭えない。今この場だって、天化が居合わせなければ太公望は地面に叩きつけられ、彼が目を覚ますまでずっと横たわったままだったのだ。打ち所が悪かったら、などと冗談でも思いたくない。
服を掴む両手の震えに気付き、天化は両手を太公望の肩に回した。慄くような震え。自分と同じだ。足音もなく忍び寄ってくる悪魔に怯え、見つかるまいと身を丸めている太公望を隠すように抱き寄せる。
これ以上彼に思いの内を吐露させては、忍び寄る悪魔に聞かれてしまう。天化は言葉を遮るように顔を覗き込み、そっと唇を塞いだ。桃の甘い味がしたが、心はちっとも晴れなかった。
【2】
厚い夜の帳が下りる。
風が吹く度に篝火が尾を引くように揺れるのを眺めながら、天化は煙草の煙を宵の空に吐き出した。
丁度その時、歩哨が目の前を通りかかった。こんな夜も更けた頃に天幕を出て煙草を吹かす天化の姿を見つけ驚いたのだろう。その兵士は少し足早に寄ってきた。
「どうかされましたか?」
「ん? いいや。ちょっと寝付けなくて外に出てただけさ」
警戒の色を強く滲ませた歩哨の声に軽い調子で答える。
短くなっていた煙草を指で弾き、地面に落ちたそれを靴の爪先で踏みつけ火を消した。
変わりない天化の様子に歩哨も納得したか、「失礼しました」と律儀に頭を下げると再び見回りへと戻っていった。それを見送り、天化は二本目の煙草に手を伸ばすかどうか一瞬考えた。
疲労を明日に残すような真似はしないが、それでも早く床につくに越した事はないとは思う。
深く沈んでいく夜の空を見上げ、天化はすっかり冴えてしまっている両目を嗜めるように撫でた。
このままでは試しに寝台に入ったところで到底寝付けそうもなかったが、適当に時間を潰すには夜はあまりに長く、する事もない。
此処にいても仕方がないと、天化はひとまず天幕に足を向けた。
ふと顔を上げると前方に人影が見える。おぼろげなそれが段々と近付き輪郭を露にしていくのを眺め、少ししてからその正体に気付くと天化は思わず大きな声を上げた。
天化の前に現れたのは、此処にはいない筈の太乙真人だった。
「太乙サン! どうして此処に!?」
「やあ、天化くんか。こんな時間にそんな大声出しちゃ駄目だよ」
驚き目を丸くする天化に構わず、太乙は気安い調子で暢気に言った。
此処は周軍の兵営地だ。幾度もナタクを通じて戦いに助力してはいるが、太乙がこんな所に人知れず姿を現すなんて予想も出来ない。
天化が思わず訝しげな目線を向けると、それに嫌な顔をせずに太乙は軽く答えた。
「ちょっと太公望に用があってね。あまり大事にしたくなかったから、こんな夜分にこっそりお邪魔したよ」
「スースに……? 何の用さ?」
「これだよ」
太乙は天化の問いに答えながら、懐から小さな袋を取り出した。それが何なのか天化は分からなかったが、その袋の中から更に取り出された白い錠剤を見て眉根を寄せた。
太公望を訪ねてやって来たというのだから、その薬は恐らく太公望の為のものだろう。
彼が何故そんなものを必要とするのか。
それを考え、天化は思い至った可能性に思わず目を瞠った。やって来たのが太乙である理由は分からないが、天化にとってそれは重要な事ではなかった。
「それ、何の薬さ!?」
「だからそんな大声を……。まあいいや。これが何の薬かは君にも心当たりがあると思うんだけど」
「じゃあそれ、スースの睡眠障害の……」
「そうだよ。また症状が出たと聞いて届けに来たんだ」
「また? またってどういう事さ……?」
太乙が太公望の病を知っていた事にも薬を用意していた事にもそれぞれ驚いたが、天化の耳により強く残ったのは別の言葉だった。
噛み付かんばかりの天化の勢いを宥めるように太乙は首を緩く振る。
それにどんな意味があるのか、天化は察する気も起こらなかった。
「太公望のあの障害は今に始まった事じゃない。彼が仙人界入りする前……人間だった時から患っていたものだよ」
そうして問いに答えた太乙の言葉を、天化は受け止め損ねた。
言っている意味が分からない。思考が止まり思わず情けない視線を投げて寄越してしまったが、それを受け止めた太乙の双眸は反対に目が覚めるほど真摯だった。
頭の片隅では予想がついていたのかもしれない。
仙人界入りし、不老不死に近い身体を手に入れた仙道が病に罹るのか。
もし身を患う疾患や障害があるのだとしたら、それは人間であった頃から続き尚も癒えていないものなのではないか。
戸惑いを隠せない天化を真っ直ぐに見つめ、太乙は薬を袋に戻すと静かに昔を語り出した。
「私は仙人界入りした頃の太公望をよく知ってるよ。新入りとはいえ師弟の関係でいえば同格にあたるからね。彼の面倒もよく見ていたんだ」
太公望は仙人界入りしてすぐ、病を知らず老いも遅い仙道の身体を手に入れた。
それに伴い人間だった頃の傷や病も癒され、他の仙道と同じく、長い時間を掛けて健やかに修行に明け暮れる道を歩む筈だった。
しかし、心に癒しは届かなかったのだ。
そこに根を張っていた病は太公望が道士となった後も芽を出し、彼が新たな道を歩もうとした先で身を蝕んだ。
「道士が病を患うなんて一大事だからね。雲中子と私で何度も検査をして、その病の事をとにかく調べたんだ」
「薬もその時に?」
「ああ。二人とも医療は専門じゃないけど、何とか調合したよ」
そうして投薬治療を試みて、長い月日をかけて太公望の病を癒したらしい。
幸か不幸か、道士である太公望には十二分な時間があった。
治療を試み、その効果を待つだけの時間が。同時に、それが実るまでひたすら耐え忍ばなければならない時間が。
太公望は時間にして数年、静かに耐えた。それが実ったか病は次第に鳴りを潜めていき、日中に突然意識を失う事もなくなっていった。
しかし完全に癒えるかどうかは分からず、何を果たせば終わりになるのか誰にも分からなかった。症状が現れにくくなっただけで、病の根を完全に引き剥がしたとは言い難い。それでも、もう十分だと太公望が笑って頭を下げたのを切欠に治療は済し崩しに終わった。
そうして太公望は病などなかったかのように修行に専念し出し、一人の道士として力をつけていった。
――太公望が封神計画につくよりも以前、数十年も前の話だ。
「今になってまた症状が出始めるなんて思いもしなかったよ」
「それで、太乙サンはわざわざ薬を届けに此処まで?」
「投薬で効果があったのは確かだからね。もうすぐ戦争が始まるっていうのに、病を抱えていたら不安だろう?」
太乙の直接的で、しかし的を射た言葉に天化は何も返せなかった。
病を患ったまま戦を始める事への不安。それを強く感じているのは他でもない太公望本人だ。
薬を得た事で太公望がその苦悶から救われるのならそれ以上の事はない。天化は縋るように太乙に言った。
「太乙サン、それを早くスースに渡してくれ。今のスースを見てるのは辛いんさ」
「勿論そのつもりだけど……そうだなあ……」
「……どうかしたさ?」
「…………うん。私はもう帰るよ。薬は天化くんが渡しておいてよ」
「は?」
予想しなかった言葉に天化は間抜けな声を出してしまった。
早く渡してくれと頼んだのに、目の前の太乙はもう帰るなどと言ったのだ。天化が反応出来ずにいる間に薬を入れた袋を天化に押し付け、太乙は立ち去ろうとする。その足は太公望の天幕とは反対方向だ。
本当に帰る気か、と天化は咄嗟に脇を通り過ぎようとしたその腕を掴んで止めた。
それに構わず、太乙は暢気そうに言う。
「ああそうそう、君にはもうちょっと話しておこうか」
「ちょ、あーた一体何を考えて……」
「いいからいいから」
天化の焦った反応を気にも留めず太乙は天化の耳元に顔を近づけた。
それに怪訝そうな顔を露にしていた天化だったが、まるで秘密事を話すかのようにひそひそと告げられた新たな話に一瞬目を見開き、その後は神妙な面持ちで大人しくなった。
気付かぬ内に力が抜け、太乙の腕がするりと逃げていく。それを捕まえる気も起こらず、身を翻すように離れていった太乙を視線だけで追う。
太乙はそんな天化に笑って応え、何処か楽しげに、しかし穏やかな声音で言った。
「不安を抱えている時は何であれ寂しいものだよ。その気持ちを分かってあげられているなら傍にいてやってほしい。薬も太公望も君に託すよ」
唄うように軽く言われたが、その内容は深く重荷だ。
言われた意味も、言った太乙の穏やかな表情の理由も分からず、天化は力なく訊いた。
「どうしてそんな事を俺っちに?」
手中の袋を握り締め、その感触をしかと覚える。この薬が太公望の病を抑え、身を裂くような不安から救い出すのだ。小さき救世主を託され、しかしそれが単にこの薬を手渡すだけに留まらない事を直感で受け取り天化は太乙を見遣った。
何かを察した天化の様子を太乙も感じ取ったらしい。
その口元は嬉しそうに吊り上り、対して僅かに下がった目尻には優しげな色が滲む。
「君以外にいないと思ったからだよ」
回答としては不十分だったし、不親切だった。
しかし太乙はこれで十分だとばかりにはっきりと言い切り、軽く手を振り気安く別れを告げると今度こそ暗闇に溶け立ち去ってしまった。
その場には天化一人が残された。太乙の先の言葉にわけも分からないまま背を強く押され、その手は袋を握り締めている。
夜は深く、しかし明けるのはまだ遠い。
冴えきったまま変化のない両目を一度強く瞬かせ、黙したまま決意した天化は歩き出した。
太公望のいる天幕はすぐそこだ。
【3】
天幕の入り口からは淡い光が漏れていた。
夜は更け皆もとうに寝静まった頃だというのに、この天幕の主はそれも気にせず起きているらしい。
机の上に広げられたいくつもの書簡を何ともなしに想像しながら、天化は天幕の入り口をくぐり中へと入った。
重い幕を押し上げる布擦れの音に気付かなかったのか、手元に視線を落としたままの彼の人に声をかける。
「スース、まだ起きてたんかい」
その声に初めて天化の来訪に気付いたようで、顔を上げた太公望は驚いた表情をしていたものの、すぐに気の抜けた柔い笑みを浮かべた。
「普通は声をかけてから中に入るものだぞ」
口ではそう咎めながらも、安堵に満ちた頼りなさげな声では迫力もない。
きっと眠れなかったのだろう。自分と同じく。
天化は口に出さないままそう察して、曖昧に笑って反応を返すと足早に太公望が座する机へと近付いた。
机を挟んで太公望と対峙してみると、想像した通り、机の上には書簡がいくつも広げられていた。
戦を間近に控えた状況で軍師たる太公望に仕事がないなどとは思わない。
来るべき大戦に向けて太公望がこんな夜分まで仕事をするのは、寧ろ仕方がなくも当たり前であると思うだろう。
しかし天化は、眠って欲しいと切に思った。
彼が仕事の為に起きていたとは何故か考えられなかった。寝ようにも寝れず、余ってしまったその時間を仕事をする事で潰し、これなら能率が良いからと知らず自分を納得させている。そんな気がした。
「天化?」
目の前にやって来たきり、机の上を眺めたまま大人しくなった天化を見上げ、太公望は窺うように声をかける。
それに応えて天化は目線を上げて太公望を見た。
一体何をしに来たのか、太公望は不思議に思っているだろう。まずは用事を片付けてしまおうと、天化は太乙から受け取った小さな袋を太公望に渡した。
「それ、太乙サンからの届け物」
「太乙がわしに?」
「薬さ」
素っ気ないほど簡潔な答えになってしまった。
太公望の問いを突き放すつもりはなかったのだが、気安く明るく言ってどうしたいという話でもない。
彼は病を持て余し、周囲にも迷惑をかけていると阻喪しているのだ。病の事を進んで話題にする必要など太公望にも天化にもないだろう。
案の定太公望は中身を知ると複雑そうな顔をし、薬については語らなかった。
「……すまぬな。こんな時間だ。あやつが自分で渡せば良いものを」
「俺っちも眠れなくてさ。外にいたら捕まっちまった」
「運のないやつだのぅ」
受け取ったばかりの薬を袋ごと引き出しにしまい、太公望は天化を労いながらも小さく笑った。
太乙からの届け物などなかったかのようだ。天化を見上げながらも太公望の手は放り出したままの書簡に伸び、天化が訪れる前の天幕内に戻ろうとしている。
天化は何か言うよりも先にその手を掴んで止めた。予想しなかった天化の動きに、太公望の元より大きな目が更に大きくなる。
その隙に天化は空いた片手で書簡を机の隅へと払った。大事なものかもしれないので床に落ちないよう、しかしその範囲であれば割と乱雑に、書簡を力任せに片付ける。
何を、と太公望が片方の手で書簡を追いかけようとしたが、それをも制して天化は太公望の肩に手を置き、朝食の献立を語るような軽い口調で言った。
「さ、スース。仕事はおしまいにしてもう寝るさ」
強引に太公望を立たせると、机を挟んでいるというのに天化は器用に身体を追いやり寝台へと足を向けさせる。
体格差や腕力に物を言わせてしまえば軍配は天化に上がる。
なされるがままに寝台へと追いやられた太公望は、もうそれ以上は進めないというところで何とか踏ん張り、肩を掴む天化の両腕に手をやった。
「て、天化! 何をする気だ!」
「何って、さっき言ったさ。さ、布団に入った入った」
「わしにはまだ仕事が……!」
「だから仕事はもうおしまい! もう寝るさ!」
とりつく島もなく天化は太公望の言葉を遮り、腕力に物を言わせてとうとう太公望の身体を押し倒し寝台へと縫いつけた。
息つく暇も与えず、天化はすぐさま掛け布団を勢いよく太公望の身体の上に掛けると、踵を返して手早く天幕内の明かりを消した。
突如として下りた暗闇の中で、立ち上った煙と匂いが行き場をなくして燻んでいる。
驚きを隠せないのは太公望だ。
天化、と焦ったような声を聞いて天化は寝台に近付いた。あまりの事に呆けているであろう太公望の陰が暗闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。
それに手を伸ばし、咄嗟に起こしてしまったらしい上半身をやんわりと布団へと押し戻した。抵抗は弱い。それに笑って、天化は身じろいだ。
「スース、ちょっと詰めて」
「詰め……?」
「俺っちも今日は此処で寝るさ」
天化の突然の案に対してすぐさま上がった反論は、強引に布団の中に潜り込む布擦れの音でかき消した。
小さな声を上げながら抵抗するも太公望の身体は奥へと追いやられ、大きくはない寝台には男二人が何とか収まった。身体を伸ばせない為、いっそと天化は太公望を引き寄せた。自分よりも小さなその身体を抱き締める。
「おぬし、何を考えておる……っ」
「んー? スースと一緒に寝たいなーって」
「……たわけが」
「そんな事言うなって。もう布団入っちまったんだし」
へへ、と誤魔化すように笑うと、心が折れたか太公望は溜息を一つつくと急に大人しくなった。
本当に嫌なら打神鞭すら持ち出すような人だ。抵抗しないというだけで彼なりの答えになるし、その胸中も少なからず量れる。
太公望は嫌がってなどいない。寧ろ甘んじているくらいだ。
『太公望のあの病はね、夜と昼にちゃんと睡眠をとる事が大事なんだ。普通にしていても睡魔に襲われる病なのに、それに睡眠不足が加わっては厄介だからね』
天幕を訪ねる前、太乙が天化へと耳打ちしてきた話を思い出す。
『否でも応でも昏睡するという症状を抱えているから、自発的なものであっても睡眠に対して抵抗感を抱いてしまう。それで夜に寝れなくなってしまっては逆効果なんだ』
腕の中に収まった太公望が僅かに身じろいだ。
譲るように腕の力を緩めて隙間を作ると、太公望は顔の向きを変え、それで落ち着いたのか身じろぐのをやめ天化へと擦り寄ってきた。
やはり彼は甘えている。縋るように寄ってきた温もりを嬉しく思う反面で、天化は暗く沈む気持ちを見過ごせない。
――……怖い。怖くて堪らない。わしは眠りたくなどないのだ。
太公望は確かにそう言った。眠るのが怖いのだ。意識を失い、時に軍議を中断させ、時に岩から身を投げ出し、目を覚ました時彼の傍にいるのはいつも不安げな顔をした仲間たちだ。
世界から強制的に弾き出されて、皆の不安を煽る。それをまざまざと感じ取り、どうして心穏やかに眠りに就けるだろうか。
どうすればいい、と途方もなく呟いた天化に、太乙は笑って答えた。
『簡単な事さ。症状は薬で抑えられる。けど抵抗感や恐怖を癒すのは薬じゃない。彼が眠りを恐れず安心して眠れるよう、君が彼を癒してやればいいのさ』
とても抽象的で無責任な答えだった。簡単そうに言ってのけ、君なら大丈夫だと気安い慰めまでついてきた。
太乙は自分に何を望み、期待したのだろう。
天化は何をすべきか思いつきもしなかったが、太乙に「託すよ」と更に背を押され、ともかく動かねばと思うままに此処に来た。
傷を癒す薬や知恵など持ってないし、気の利いた言葉だって何一つ言えない。
だから天化が決めたのは、太公望が眠れない夜を過ごしているなら添い臥しし傍にいようと、それだけだった。
天化の腕の中で、太公望が深く長い息をつく。
「スース、苦しいさ?」
「ん……。大丈夫だ……」
「……スース?」
「…………すまぬ」
太公望の様子が気になり天化は声をかけたが、太公望から返ってきたのはふわふわとした反応とよく分からない謝罪だった。
身じろぎその顔を覗き込もうとすると、ぴったりと胸にしがみつかれて叶わない。
スース、ともう一度声をかけようとしたが、再び聞こえてきた深い吐息と、全身が弛緩する気配とに息を呑む。
暫くしても太公望から何の反応も返ってこないのを確認して、天化は体温が移り温かく馴染んだ身体をそっと抱きなおした。
「怖がらなくても大丈夫さ、スース」
俺っちが傍にいるさ、と続けて呟いた天化の声は、きっと夢に落ちた太公望の耳に届かなかっただろう。
温かく、しかし縋るように胸にしがみつく細い手を包みながら、天化もようやく訪れた浅い眠りの気配に目を閉じた。
【4】
夜明けを告げる鳥の鳴き声を遠くに聞き、太公望はうっすらと目を開けた。
正面から背に至るまで全身が温もりに包まれている。
――これは一体何だろう。
霞掛かった思考と焦点の定まらない視界で何とか状況を整理し、昨夜共に布団に入った人の存在を思い出してふと顔を見上げた。
「……天化」
元より歳の割に童顔である彼は、眠りについていると一層若く見える。
艶やかな黒髪が顔にかかっているのを見て、太公望は鬱陶しげなその前髪を払おうとした。
そこでふと、自分の手が握り締められているのに気付く。この状態でその相手が誰であるか、確かめる必要も疑う余地もない。
一晩中こうしていたのだろうか。抱き締められ、手を取られ。
二人で分かち合った体温はすっかり馴染んでしまい、どちらがより温かいのか、その境目すら失っている。
「……まったく、ここまで密着する必要もないだろうに……」
「んあ……?」
呆れたようにぼやくと、既に眠りが浅くなっていたのか天化がぼんやりと目を開けた。茫洋とした雰囲気で、覚醒していないと手に取るように分かる。
意識を浮上させようと無意識に天化は目を擦ろうとする。重なっていた手がするりと離れていく。
太公望はそれをやんわりと制した。
「寝てて良いぞ。起きるにはまだ早い」
聞こえているのか、天化は薄目で太公望を見遣るばかりだ。
二人の視線は交わっているものの、天化の方は焦点が合っているのか疑わしい。寝ぼけているな、と太公望は苦笑した。
彼のぼんやりとした双眸と弛緩した身体を見るのは珍しい事で、観察するようにじっと見つめてみる。
太公望のそんな視線をどう感じたか、天化は擽ったそうに身じろいだ。
寝返りをうつのかと思い太公望は身を引いた。そうして出来た隙間は、しかし天化の腕が許さずすぐに埋められてしまう。
再び天化の腕の中に閉じ込められ、熱を一層近く感じる。
寝ぼけている割に太公望の身体に回された両腕の力は強く、逃さんとばかりの抱擁に太公望は焦れたような声を上げた。
「天化、わしはもう起きるから離してくれ」
「んー……。まだ早いさ……」
「だからおぬしはまだ寝てて良いと言っておる」
「……だーめ。スースも一緒に寝るさ……」
もごもごとはっきりしない喋り方だったが、太公望の言葉を受け入れる気がないという事はしっかり主張してきた。
しかし太公望には為さねばならない仕事があるのだ。
机の上に乗った書簡は昨晩天化がぐしゃぐしゃにしてしまい、山というよりは押し寄せた波のように机上で散らかっている。
元より朝は早い太公望だが、あの書簡を片付けるとなると尚更早く起床しなければならない。
そうなったのも単に目の前の男のせいなのだが、彼を責める気は毛頭なかった。
昨晩、まるで寝付けず長い夜を一人過ごそうとしていた太公望の元に天化はやって来た。
太乙からのお使いという名目こそあったが、そんな事はお構いなしに天化は太公望に添い臥しし、温もりに安堵した太公望が眠りについても尚その身を抱き締めていた。
太乙から何を入れ知恵されたのだろう。
太公望の病を気にかける天化が、必要以上に思い悩む事などあってはならない。
そうは思うのに、病を理由に太公望に気を遣い、こうして傍にいてくれる天化の優しさに甘えたいと思ってしまうのも事実だった。
「……天化、わしを甘やかさないでくれ……」
懇願するように小さく呟いた。
それは本心であったし、けれど嘘でもある。気を遣わせたくない。甘えたい。自分本位な欲望が背中合わせになって、結局天化に何を望みどう接すればいいのか分からなくなる。
そんな太公望の葛藤など知る由もなく、天化は相変わらずぼんやりとしたまま太公望を見ていた。
「スース……怖いさ……?」
「……? 何を言っておる」
覚えのない問いかけに太公望は訝しげな目で天化を見上げたが、天化の双眸が重たげな瞼を持て余しているのを見て溜息をついた。まだ寝ぼけているようだ。
何を感じ取ったのか、天化は両腕に力を込め太公望をより強く抱き締めた。
「大丈夫さ……。俺っちが傍にいるから……何も怖くない……」
曖昧な発音のせいで天化の言葉はふわふわとしている。
開けているのがやっととばかりの双眸と不明瞭な喋り方とでは説得力がないのだが、信じて欲しいとばかりに天化は太公望の身体を引き寄せ、その身を護るように抱き締めるから太公望も迷ってしまう。
――甘えても、いいのだろうか。
『辛いだろうね。その恐怖も苦しみも、君にしか分からない』
数十年前、今だ治らぬ病と崑崙山でも闘っていた頃、太乙はやつれてしまった太公望の顔を覗き込みながらそう哀れみを口にした。
『君の病ではレム睡眠への移行が上手く行かないせいで夢見が悪くなる。悪夢や金縛りが当たり前のようになっているんだろう?』
『……別に大した事じゃない。皆に迷惑を掛ける事の方がよっぽど辛い』
『…………そうやって辛くないふりをされる事こそが私達にとっては辛い事なんだよ』
眉尻を下げ、痛ましげに表情を暗くする太乙に太公望は何も言えなかった。
原因や症状の詳細はあまりよく分からないが、夢見が悪く、昏睡の際に幻覚などが伴うのは確かであり常だった。
かつて見た燎原。鼻を突く肉の焦げる臭い。崩れ落ちる村の景色。
一時として忘れた事のないそれらが、まるであの瞬間を繰り返すかのように睡魔と共にやって来る。悪夢。金縛り。幻覚。魔手が突きつけてくる干戈を恐れていないといえば嘘になる。
『私達には君が抱えている恐怖や苦しみの一割も理解出来ないかもしれない。けどそれを理由に何もかもを抱え込まないで欲しいんだ』
太乙は目を伏せ、祈るように言った。
『甘えていいんだよ、太公望』
「スース」
過去の遣り取りを思い返し思考に耽っていた太公望を、天化が微睡みの中から呼んだ。
太公望が天化を見遣り視線が交わると、それを喜ぶように天化は目尻を下げる。
今だ覚醒せずうつらうつらとしながらもその両腕から力が抜ける事はない。惑睡に身を委ねるように天化は太公望に擦り寄り、その顔を寄せる。
互いの吐息が交わり、瞳が近い。
こんなにすぐ傍に天化がいるのだと太公望は改めて思った。
「スース」
「何だ……?」
「俺っちがいるから……大丈夫さ」
「ああ、そうだな……」
「だから……一緒に寝よう……」
ぎゅう、と音がしそうなほどに力を込められ、太公望は痛いと思うよりくすぐったさを覚えた。
もうどれだけ強く抱き締められてもこれ以上は密着出来ず、体温だって分かち合えない。
天化の言う通り、このまま二人で寝直す以外に道はなさそうだ。天化は既に力尽きたかのように眠りに落ちている。
太公望は天化の鎖骨の辺りにそっと顔を埋めた。
骨張ったそこに額を押し付けると、じんわりと熱を感じる。温かい。天化の体温だ。
決して緩む事のない両腕が、全身にすっかり馴染んだ体温が、愛しみに満ちた言葉が、胸の奥底に出来た疵に染み渡って優しい睡気を齎す。
――眠い。
恐れや痛みのない、悪夢や幻覚の気配もない、純粋で安堵に満ちた欲求だった。
太乙から貰った薬は結局まだ飲んでいない。
ならばこの安堵はどこから来るのか、疑問に思う余地もなかった。
「有難う、天化」
太公望は顔を埋めたままこっそり囁いた。
早々と白河夜船の最中にいる天化にその言葉は届かないが、きっと起きていても天化は笑って何事もないように聞き流すだろう。
当たり前だという顔をしながら傍にいて、戸惑う此方を余所に力任せに甘やかしてくる。
ああ。優しい。愛しい。言い知れぬ温かな感情が胸に流れ込み、まるで喉を患ったように息が苦しくなるが、夢のようにとても柔らかな心地だった。
幸せな病もあるのだと、ふと思いついた冗談に堪らず太公望は笑みを零す。
夢見も目覚めも温かで優しい、まるで夢のような朝だった。
ナルコレプシー太公望。天化がいればモウマンタイ。
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