▼ 第五十夜
深い霧が立ちこめる林道を進む珱のもとに、コウモリが飛んできた。指先に止まったコウモリを数秒見つめると、軽くキスをして空に放った。
地下道をしばらく歩き、見えてきた扉にトランクを持つ手に無意識に力が入る。扉の前で足を止め、そっと扉を開いた。
「おかえり」
壁に寄りかかったまま出迎えた枢に珱は何も返さないが、目を瞬かせて見つめ返した。
「今日から君はここに住むんだから…何も不思議がる事はないでしょう?」
クス、と笑った枢を珱は見つめ返した。
「監視のためでも、約束を守ってくれて嬉しいよ…」
ーーーー「だから、その理由を知りたかったらーーーー僕のところに帰ってきて…」
「君の事だから、綱吉のところにそのままいるかと思っていたけど…」
『…私って、そんなに信用ありませんか…?』
扉を閉めながら珱が訊ねる。
「冗談だよ。珱は絶対帰ってきてくれるって思ってた…番犬としてでも、なんだとしても…」
枢の言葉にほんの少し苦しそうに顔をゆがめて、表情を戻して珱は荷物を持ち直した。
『…これから暫く、お世話になります…』
改めて気まずそうに挨拶をした珱に枢は分からないように笑うと、荷物を受け取った。
「おいで。部屋に案内してあげる…」
『荷物…』
「いいから」
なんだか機嫌が良さそうな枢に、珱はそれ以上何も言えず大人しく後に付いていく。
『…優姫様は…』
「君があの子を敬称で呼ぶなんてね…」
クスリと枢は笑う。
「いいよ、いとこなんだから気軽に呼んで…勿論僕のことも」
『…優姫ちゃんはともかく…枢様は無理です。もうクセなんで』
「そう言うと思ったよ…それで、優姫が?」
『…彼女は、また暫くここに…?』
ほんの少しの間の後、枢は答えた。
「そうだね…」
『…枢様が元老院を潰した事で…逃げ出した元人間の吸血鬼が好き放題ですよ…』
「その様だね」
『…目的は何です?』
訊ねた珱は枢に数秒答えを待ったが、何も答える気のない様子の枢にため息。
『答えたくないのならいいです…でも、私は枢様の番犬だという事を…忘れないで下さいよ…』
意外そうにしていた枢だが、すぐに嬉しそうに瞳を細めていた。
「この部屋を使って」
開けてくれたドアをくぐり、部屋の中へと足を踏み入れ見回した。
「何か必要なものがある場合は、遠慮なく言って…」
『…ありがとうございます』
荷物を受け取りながら礼を言う。そんな珱を見つめていた枢。
「……聞かないの?」
目を瞬かせた珱は瞳を伏せると、意を決したように枢を見つめ返した。
『約束です…枢様が今まで李土を野放しにしていた理由は…なんなんですか?』
「…簡単な事だよ」
珱は歩み寄った枢から差し出された手を取り、誘われるままソファに腰掛けた。真っ直ぐにいつもと変わらぬ、だがどこか寂しげな瞳を枢は向けた。
「李土が、永い眠りについていた……玖蘭の始祖である僕を起こした主だったからさ」
宝石のような瞳を精一杯見開き、珱は枢を見つめ返した。
『……』
鼓動が激しく脈打つ。
呼吸が難しく感じる。
…水の中に、沈んでいくみたいだ。
「珱」
『…はい…』
なんとか返事を返す。
「察しのいい君なら何かしら感づいただろうけど…深くは考えないで。今はまだここまでしか話せないけど、いずれ君にも話すから…」
『……優姫ちゃんは…知っているんですか…?』
「あの子は知らないよ……いつか知ることにはなるだろうけど、それが明日か、ずっと先か…」
『彼女次第…という事ですか…』
「そうだね…」
力が抜けそうな体をなんとか気力だけで支える。ぐらぐら揺れる視界に頭を振ると、枢はふわりと珱の頭を胸に引き寄せた。
「長旅で疲れた?」
『…かもしれません…』
自嘲気味に苦い顔で微かに笑いながら答えた珱を抱き抱えた枢は、ソファから立ち上がるとベッドまで歩きそっと下ろした。
「少し休むといいよ。優姫には僕から言っておくし、互いに挨拶は夕食の時にすればいい」
『……すみません…』
微笑みかけた枢の姿を最後に、珱は一気に襲いかかった睡魔に抗わず深淵に落ちていった。
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