32

甲斐は雨だった。
立ち込める暗雲に煙るような霧雨が、まるで甲斐の・・・そして越後・徳川の大将の不在を嘆いているような。

「じゃあ、俺はもう行くから」
「はい・・・ありがとう、慶ちゃん」

はにかみながら微笑みを浮かべ、加賀へ向かう慶次を見送って依は城の中へと急いだ。



「…御館様・・・申し訳、御座いませぬ・・・明智光秀の奇襲に際し、某、何のお役にも・・・「真田の旦那!」

信玄の褥の傍らで顔を俯けて懺悔し続ける幸村を、佐助が声を掛けて止めた。ずっとこんな調子の様子の彼に、そろそろ我慢も限界だった。そろそろ、立ち上がってもらわなければ困るのだ。もう嘆いていられるだけの時は過ぎた。

「敵はいつも一番大事なものを狙ってくる。これまで俺達武田も、伊達も!そうしてこの戦国を伸し上がってきた。それはお互い様だ・・・分かってるはずだろう?」
「某、戦場以外で敵を討った事は御座らん。ましてや、武器を持たぬ民を巻き込むようなやり方で、」
「だったら怒ってくれ!!そのまま、御館様の枕元で俯いて、織田に潰されるのを待つつもりなのかッ!!そうしていたいのは、旦那だけじゃ無いんだぜ?」
「どうしたらよいのかっ、分からぬ・・・心細い・・・」

くっ、と下を向いたままの幸村は、震える身体を右の手のひらで抑えつけるように強く握った。佐助はそれに瞳を見開いた。こんなにも、幸村は"御館様"という存在に依存している。それを今、まざまざと見せつけられていた。

「・・・怖いのだ、」

この男に、ここまで・・・しかも他人前で言わせてしまうとは。今この場に居るのは、佐助だけではないのに。

「…羨ましい野郎だぜ」

そう言って、側に座していた政宗は腰を上げ、鎧の間から外へ出ると出陣かといきり立つ伊達軍に背を向けて言い放った。

「奥州伊達軍は、本日只今をもって解散するッ!!」
「「「っはあ?」」」

そのまま歩みを進め、躑躅ヶ崎館を後にしようとする政宗に、佐助が声を放る。

「どこへ行く、独眼竜!」
「本能寺に決まってんだろ。今度こそこの俺が直々に、魔王の首取らせてもらう!」

そう言い切った彼に、伊達軍の困惑はむしろ広がる一方で、

「どういう事っスか」
「ちょ、筆頭ォ!!」
「俺達も一緒に…っ」

そうして駆け寄る伊達軍の家臣達に、政宗はあろう事かその腰から刃を引き抜き、刃先を向けた。息を呑むような、緊迫。

「こいつはてめぇ等と楽しむ paty じゃねぇ」
「筆頭ぉ・・・」

頼りない泣きそうな声を溢す家臣達。その刃先と彼らとの間に、庇うように幸村が割り入った。

「政宗殿ッ!!何をするので御座るっ!この者達は、貴殿の為に、貴殿と天下を取るまでは死ねぬと、大仏殿の下敷きになっても気力で生き延びた、得難き家臣達で御座るぞっ」
「はっ!!てんで説得力がねぇなあ。あっさり死んじまった野郎が何を吠えようがよぉ」
「っ!!!」
「コイツもただの、お飾りって訳だ」

政宗の台詞に息を呑む幸村は、首に吊られた六文銭を鷲掴まれて。

「地獄の川の渡り賃・・・初めてアンタに会った時、俺はそう踏んだ。残念ながら見込み違いだったみてぇだなっ」

掴み上げた胸倉を押し返して、唇を噛む幸村を押し返す。背を向けたまま、そのまま政宗はたった一人で躑躅ヶ崎館を出て行った。

「筆頭ォ!!」
「追うんじゃねぇ」
「片倉様・・・」
「政宗様の決められた事だ。織田は、武士の戦とは程遠い、下種な命の取り合いを仕掛けてきやがった。武将達の誇りと尊厳を、悉く踏み躙りやがった彼奴等を、織田信長とその手先共を、もはや一人の武将として許せねぇんだ」
「だっ、だからって一人で・・・」

小十郎が伊達軍の面々を宥める中、顔を下げたままの幸村。

「貴方はどうするのです、幸村」
「・・・姉上ッ!!」

それは、幸村が求めて止まなかった声だった。御館様という大きな大きな道標を見失ってしまった幸村が、たった一つ、手放しで縋れるところ。縋ることを、許されているところ。絶対的な彼の味方である、大切な大切な姉上。雨に降られたのか濡れた髪のままの彼女は、隣に音もなく現れる才蔵に肩から大きな布を被せられながら、戻られたかとフッと笑う小十郎に一つ微笑みを返して、幸村の前に進み出た。

「無論・・・某とて思いは同じ・・・されど、某には、御館様が全てっ!!御館様の居られぬ明日など、某にとっては無意味っ!!もし今お傍を離れ、その間に、万一の事あらば・・・つッ!!」

パチンッと響く乾いた音に、見守っていた一同はその瞳を見開いた。誰もが、一言も発することが出来なかった。だって、それは、ただの一発。だけれど、有り得ぬこと・・・依が、幸村の頬を張ったのだ。彼女は今までにその大切な弟へ見せたことがなかったであろう、小十郎さえ初めて目にしたような鋭い瞳で弟を射抜くと、褥に臥せったままの信玄の傍へと膝をついた。

「甲斐の虎を、見くびってはなりません」
「ッ、!!」
「ご無礼致します、」

そうして小さく呟いてから捲った布団の中で、固く握りしめられた拳を晒す。

「生まれた時からずっとお傍にいるのに、こんな事も分からぬのですか。御館様が、明智光秀如きの不意打ちで身罷る訳の無い事くらい、貴方が一番分かっているでしょう」
「御館、様・・・」

その、固く堅く握られた拳を見つめ、幸村はその瞳を見開いた。そうして一度伏せた瞼をもう一度上げる頃には、その瞳に陰っていた迷いは消えていた。いつもの、綺麗に澄んだ、真っ直ぐな幸村の瞳だった。

「御館様ああぁぁあぁぁッ!!!」

雄叫びを上げる彼の様子に、依も、それから佐助と小十郎も、安心したように微笑んだ。





「瀬戸内の説得は済んだって事でいいの、依様?」
「ええ。既に此方へ向かっている頃合いでしょう」
「政宗様と真田を先鋒に見立て、残った兵達を率いる。越後、徳川、そして今まで織田に滅ぼされてきた国の兵達が、信長公の首を落とさんと集っているからな」

織田信長は本能寺ではなく安土城へ向かったとする報告を持って帰った佐助。政宗に解散を言い渡されて俯く伊達軍も、小十郎率いる連合軍となって再び立ち上がる。先を行く二人の為に、いや、日ノ本の為に。
再び兵をまとめあげ、遂に織田包囲網は完成した。



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