「猿飛くん、猿飛くん。ちょいとお待ちよ」
そういって呼び止められて、来い来いと近くまで呼び寄せられては、手のひらの上に鮮やかな色がころりところがった。
「・・・なあに、これ」
「飴玉だが」
「また!!!俺様、もうお子さまじゃないんですけど!」
「いいじゃないか、減るもんでもなしに」
いいからとっておけと、朗らかに笑むそのひとを、文句を言いつつもけれど佐助は嫌いではなかった。
・
この男、武田信玄の末の弟にして一条の姓を名乗る武田二十四将のひとりで、半分しか血の繋がりはないものの、信玄から厚い信頼を寄せられており、今川亡き後の駿河は田中城の城代を務めている。
「おやおや、真田の忍くんじゃないか」
佐助がまだ若かった時分。幼い弁丸の手が漸く離れて他の真田忍に任せられるようになった頃、佐助は信玄の命にて各地へ走ることが多くなっていた。
「・・・」
「いいからとっておけ」
用事の終わった己の手のひらに飴玉をのせる男に、何なのだこれはと佐助は理解できずに、言葉も見つからず黙ってそれを見つめていた。けれど男はそんな佐助の様子に嫌な顔ひとつせず、そっと手のひらを握らせたものだった。
「忍が他人に貰ったものを、食べるわけがないのに」
行く度に毎回続くそれに、佐助は一度だけそう言ったことがある。けれど男は、その表情を崩すことなくまた飴玉を差し出すのだ。
「美味いのになあ」
自分も目の前でそれを口の中に放り込み、舌で転がし残念そうにしながらも、佐助に幼子の褒美のように渡すことを止めはしなかった。それが、こんなに経ったいまでも変わらず続いている。
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「おや、幸村くんに猿飛くん」
ある時、そのひとが躑躅ヶ崎館に訪れた。幸村はそのあまり会うことのない御仁にその瞳を輝かせる。
「三春殿!!いらしていたのでござるな!」
嬉しそうに駆け寄っていく幸村を横目に、その男の柔らかい笑みを盗み見る。誰にも等しく優しいそのひとの信玄とはまた別の懐の深さに、人懐っこい虎若子が懐かぬ筈がない。
「幸村くんにはこれをあげよう」
それがやはり嬉しいのだろう。何故このひとはいつもこうなのかと思わぬでもないが、幸村の頭を撫で撫でとしてはどこから取り出したのか大福をひとつ与えた。その様子に佐助は静観を辞めて慌てて声を上げる。
「ああっ!やめてよ旦那の甘味量管理してるのに!!」
「ははは、偶には良いじゃないか」
「んみでふぉはふー!」
「そうかそうか、美味いか」
貰った側からもふもふと食す己が主に呆れればいいのか、どこからでも誰にでも菓子を渡すこの男に呆れればいいのか。佐助が溜息を吐き出せば、その手のひらはこちらの頭にまで伸びてくるのだから全く、困ったものなのはこの男のほうなのだろう。
「よしよし、猿飛くんにはこれをあげようね」
そしてこの困ったひとは、いつもの飴玉を寄越すのだ。
「飴でござるか?」
「そうだよ。綺麗だろう」
ころりと、つい条件反射で出してしまった佐助の手のひらの上で転がるそれは、今日は夕焼けを閉じ込めたような橙色であった。この間は水に藍を垂らしたような青色、その前は萌えでたばかりの新芽に降りた朝露のような薄黄緑色。一体なにで色をつけているのか、その時その時で色が違い、佐助は全く同じ色を見た事がない。ひとの手で作られるものに同じ色など無いのだと、その男は以前そんな風に言っていた。
「食べぬのか?」
ぼんやりと手のひらを眺めていた佐助の顔をにゅっと覗き込むように、幸村が顔を出す。如実に分かるさらなる甘味を欲しがる顔色に、佐助は咄嗟に手のひらを丸めてその煌めきを隠した。
「これは駄目っ!」
「む、」
慌てたように口を突く言葉に、気恥ずかしくなって、あっと思わず男の方を盗み見る。するとこれまで見たことのないような、甘く柔らかな眼差しが佐助だけを真っ直ぐと捉えていた。
「そうか、そうか。・・・ほら、幸村くんにはもうひとつこれをあげるから」
予期せぬその表情に、佐助は言葉を失くす。何だ、それは、と。あまりに甘いその視線に、思考が停止して、立ち尽くすしか出来ない。不満げな声を漏らす幸村の言葉も、今の佐助には入ってこなかった。そんなふうに固まってしまった佐助をよそに、幸村がもうひとつふたつと大福を貰い、満足そうにしていたことを知る者は男の他にいなかった。彼の早食いに、余所見は厳禁なのである。
・
甘味おじさんとなっていたかの男、三春は珍しくもその日、真田幸村が居城、上田を訪れていた。兄であり主君である信玄が、ついでだから幸村にこれを届けてほしいと三春を使ったのである。別にそれに文句は無いものの、どうやら腹に一物抱えているのが常のあの兄上、幸村を跡目にと考えた際にどうやら三春を後見につけようと思い付いたらしいのだ。武田の血を正しく引く者の一人である三春を丸め込んでしまえば、直接の血の繋がりのない幸村を後継にしやすいと考えたようである。だから今のうちから繋がりをと考えて何かと画策しているようだ。まあ、あれもそれも別に構わないのだが、なんならはっきり言って欲しいのが使われる側の思うところではある。
「うーん?」
上田に近づけば早いうちに橙頭の忍が出迎えに来るかと思っていた三春は、城の眼前まで来ても未だその姿の見えないことに首を傾けた。実はこの男、あの猿飛佐助を殊更気に入っていては可愛くて可愛くて仕方がなかったりする。生意気な口を聞きながら心根は馬鹿ほど優しく、冷徹になり切れないのに忍としての矜持は素晴らしいほどに高く、己で己の首を締めてしまっているその様など愛らしく見えてしょうがないのだが、それを他人に理解された事はなく、理解されようとも思わない。あの忍の愛いところは己だけが知っていれば良い。
「幸村くん」
「三春殿!よくぞいらっしゃいました」
中へと入れば奥へ案内され、幸村の居る室へと通されるがやはりあの忍の姿は側に無い。二言三言話し、用事を済ませた三春はその旨を幸村に尋ねると。
「実は佐助は珍しくも体調を崩しておりまして」
「ほう」
あの忍らしからぬくせに誰よりも忍らしい忍が、珍しいこともあるものであると聞いてみると、どうやら忍務にて負った怪我から毒が入り込み、体力が落ちていたところに重い風邪にかかり中々つらい様子だそうで。
「よろしければ、三春殿も見舞ってやってくださいませぬか」
「そうだね、是非」
そう言って、はじめて踏み入れたるは忍屋敷。幸村に案内されるまま進むそこは、奥まっていて薄暗かったが、けれど流石は真田と言うべきか。むしろ落ち着くくらいの灯りに、室は整えられて存外居心地は良さそうであった。
「ここでござる」
そうして、猿飛佐助個人の領域に、彼ははじめて足を踏み入れた。
・
風邪というか、疲労というか、毒というか。あの、風の悪魔にやられた傷から、よくないものが入り込んでは、更には風邪まで引くという踏んだり蹴ったりで、ただただ身が重い佐助は唸りながら身体を休めるしかできない。
「佐助、入るぞ」
来るなと言っても聞かない主人の声に朧な意識を持ち上げると、そこには此処へあってはならぬひとが居た。
「ちょっ・・・な、なんで三春殿がいるのさ!!」
「お前を見舞ってくださるとおっしゃったのでな!」
悪気の一滴も無い笑みを浮かべた幸村は、そのまま後は頼むなどと言い置いて室を出て行ってしまう。残された佐助は何この状況と頭を抱えるしか出来ない。幸村は置いておいてもなんでこのひとまでこんなところに居るのかと、武士の来るところなどではないのに。すると、そんなふうに悩める佐助の額にひたりと冷たい手のひらが当てられた。
「驚かせてしまってすまなかった。お前はゆっくりしていればいいよ」
その柔らかい表情に、言いたい文句も全てどこかに飛び去ってしまう。このひとと居ると、佐助は途端に口数が減ってしまうのは、何でか少し、緊張してしまうからなのだと思う。それが何故かなんて、ぼんやりと考えてはみても、いつもより鈍い頭は何も答えを出してはくれなかった。
「手、きもちい」
「うん」
その冷たいけれど優しい手のひらが、離れていかなければ良いななんて。浮かんだのはそれだけ。微睡んだような、ふわふわとした意識の中、そのひとの温もりだけがただ心地良くて。
「あれ・・・猿飛くん、これ、」
「あ、」
傍に座っている男が、徐に視界に入ったらしい透明の瓶を指差した。それは忍の身には似つかわしくないような高級なもので、なかなか手に入りにくい、ガラス製の瓶だった。それは佐助が少ない給金を貯めて貯めて、やっと購入した宝物入れで。中にはきらきらと煌めく色とりどりの飴玉が詰まっていた。
「食べるの、勿体なくて」
幼い頃から貰い続けてきた、そのきれいな飴玉は。つくるひとの意向なのか、くれる人物の婆娑羅の影響か、いつまで経っても溶けたりしなかったので。最初は、他人から貰ったものなど食べぬと、けれど何故か捨てられなくて、いつの間にやら沢山溜まってしまったそれを、器に入れていたのだが。やはりその煌めきには、相応の容れ物が必要だとあるとき思い立った。その頃には、その飴玉に込められるのが、それをくれる男の優しさだけだということを理解出来るようになっていたので、それを瓶詰めいっぱいに詰め込んで
眺めるのが佐助の気に入りになっていた。
「少し食べたりするんだけど。なんとなく、いっぱいにしておかないと、おちつかなくて・・・」
食べると減ってしまうのだけれど、でも、そのひとの優しさを食べるというのもどこか心地良い。だから、ほんとうに疲れた時や、暫く会えない時に食べるようにしていた。会いたくなるなんて、そんなのを考えるのはおかしいのだけれど。
「まだ、いる?」
「・・・ああ、居るよ」
そんなことを、ぽつぽつと呟いている間、そのひとは一言も声を出さなかった。不安になって、声を掛ける。すると柔らかい返事と共に、髪を優しく梳かれる感触がした。そのままウトウトと眠りに落ちてしまったから、傍に居た男の手のひらが先程より熱くなっていたなんて、佐助はちっとも知らないのだった。
・
はてさて、すっかり調子を取り戻して、いつものようにお仕事に励む佐助は駿河にひらりと訪れた。けれどそのひとに信玄からの文を届けるときの、いつものやり取りが、どこかぎこちない。
「三春殿、どうしたの?何か変ですよ」
「・・・いや、」
少し男の頬が染まっている気がしないでもなくて、もしかして己の風邪でもうつしたのかと、その額に己の額を押し当てる。少し熱い気もするが、何てことはない程度だと、思えたところで、佐助の視界がひっくり返った。
「は、?」
「・・・お前はほんとに、無自覚なんだね」
何が起こったのやら分からず間の抜けた声を出すと、男はにこりと効果音のつきそうな笑みで佐助の上にまたがり床に押し倒していた。
「なに、どうした、んっ」
次の佐助の問い掛けは、男の口の中に呑み込まれて消えた。