とある捨て駒の幸福

うちの殿様である毛利元就というひとは冷徹無慈悲で知られる戦国の世に名を馳せる智将様である。
その余りの容赦の無さに"詭計智将"なんていう二つ名がついてしまっているような御方で、自軍の兵のことを捨て駒と宣い、安芸の安寧のためなら犠牲は厭わないという考え方をお持ちなのだ。おかげで他国の将からは常に警戒されるし非情扱いされるし、そんな御方の元で働く俺はよくあんなひとの所に勤めてられるよねと同業者に言われてしまったりするのである。まあそんなことをいくら言われても、俺がこのひとのところから別のところへ行くなんてこと、たぶん無いのだけれど。

「やっほー三春ちゃん。その刀おろしてくれないかなーなんて。俺様、書状を届けに来ただけなんだけど」
「ちゃん付けするな。コソコソとせずに初めからきちんと入ってくれば良かっただろう・・・これだから猿は」
「ちょっとー!最後の小声、聞こえてるよー!」
「聞こえるように言っているんだ、この馬鹿猿め」
「ひどい!!!」

今日も今日とてその智将様、うちの大事なお殿様の警護に当たっていると、俺の曲者レーダーに引っかかるコソコソとした気配。主君の居る室の天井裏から一瞬で移動して、その気配の主の息の根を止めんと忍刀で下から斜めに斬り上げたのだが、侵入者が手練れの猿であった為に僅かに避けられて首元に突きつけるだけになってしまった。ちっ、大人しく動かなければここでその首を胴から切り離して一瞬で楽にしてやったものを。
引っ手繰るように佐助から書状を奪い、何も仕掛けがないか危険が無いかを確認する。何にもしないよと後ろで溜息と共に猿が何やら言っているがそんなものを信じる訳がない。

「ひどい!!」

喚く猿の口諸共這い出る闇の婆娑羅で雁字搦めに絡め拘束し、主君の庭の景観を損ねることを考慮して端の方に転がしておく。この庭は日輪を信仰する主君の大切な参拝スペースなのだ。汚い猿を転がして良い場所では無い(だから、三春ちゃんひどい!)。

「・・・」

音もなく廊下に着地をし、コトン、と床をひとつ鳴らす。その小さな音を聞きつけて、主君は此方へ声を掛けた。

「何ぞ」
「・・・甲斐、武田より文が届きました。急ぎご見分を頂きたく」
「入れ」

成る可く主君の視界に入らぬようにと、サッと動いて差し出される手のひらに書状を乗せ直ぐに廊下へと下がる。ふむ、と一つ鼻を鳴らしてパラパラとそれに目を通した主君は、その後すぐに筆を持ち上げた為に文机の上の書きかけの書状と新しい紙を取り替えた。

「・・・三春」
「はい」
「茶を持て」
「御意に」

何やら頭の痛いことでも書かれていたのだろうか。うちの主君は嫌な事があると直ぐに甘味を欲するところがある。用意しろと言われれば持ってくる俺が言うのもなんだが、実父が酒毒にやられたからと禁酒をするのはあっぱれなもののそれに見合うくらいまで甘味を貪っているきらいがある事に本人は気が付いていないのだろうか。日ノ本に響き渡るほどに頭の良いクセにどこか抜けている主君のこと、それが健康を害す可能性を全く考えていないに違いない。





元就は配下を気に掛けるということをしない。全ては安芸のため毛利のため、まわりの全て、延いては己をも捨て駒と扱い、為すべき時に躊躇などしないで済むようにいつもたった独りきりでこの戦国の世の中に立ち続けている。・・・そういう、積もりで立っている。だが、どうにもそれをさせてくれない存在というものが、どういうわけかこの世の中には存在するのである。それが、幼少期から己に仕える付き忍の三春であった。

ふと、鼻を香ばしい香りが掠めて書状から視線を逸らす。文机のすぐ横、小さな台は先まではそこに無かったものである。元就が机に向かっている時に茶を持たせると、三春はいつもその台を用意する。すぐに視界に入る距離と高さでもって音も無く気が付かぬ間に配膳されるそれに元就のストレスは皆無である。三春は自然と、言わずとも、どんなことでも必ず熟してみせる。姿をほとんど見せぬ癖に、存在だけは感じる。それはまるで、日輪に照らされて生まれる影のように、いつも元就の傍に寄り添っているのだ。

「三春」
「は」

書き終えた文を渡す時。この時だけは、一瞬で消えたりすることなく三春は元就の前に姿を現す。普段あまり見る事のないその姿は、他の忍達と同じように少し奇怪な色を持っていた。曇り空のような灰色の髪に、青く見える瞳、白すぎる肌。それは、日輪の下では光に融けて消えてしまいそうな色合いであった。

「・・・なぜ、何も言わぬ」

文を渡さずに、持ち上げた手のひらで三春の頬に触れていた。すぐ傍に傅き瞼を伏せたまま、元就にされるがまま口も開かない三春は本当にどこぞの忍に見習わせたいくらいの無表情さである。

「俺は元就様の物であります故に」
「・・・お前は否やは言わぬのであったな」

では、暫く此処に居ろ。
そう告げて、その身体を背凭れに執務を再開する。僅かな戸惑いと共に背に体温を感じ、心地が良いと思うのはあまり良い傾向とは言えないかもしれないが。

(これは我の物、我の影故、我が在る限り此処へ在る)

駒には裏と表があって、その表が元就だと言うのであれば三春はその裏である。表裏一体、決して別々に分かれることなどない。
己が駒であるという事実は、この背の暖かさを認めてしまっても変わらないだろう。寧ろ、己と一心同体だと、己の裏なのだからと主張してしまった方が余程、余計な虫が付かずに済むやもしれぬ。

「三春」
「・・・御意に」

未だ指示をしていないのに帰ってきた返事に、元就は思わず振り向いた。

「まだ何も言っておらぬ」
「文は猿飛に押し付けます故に、直ぐに戻って参ります。そうしましたら、本日はお傍に」

それで合っているだろうと、瞳を細めるその表情は、この忍が元就にしか見せぬものであって。

「・・・分かっておるのならば、それでよい」

ぽそりと溢した言葉に頷いた忍が、傍から姿を消す。刹那に訪れる肌寒さに、けれど直ぐに戻って来ると知っているから元就はそれを不快に思ったりしなかった。





「猿飛、殿が返書を書いてくださった。有り難く、丁重に信玄公へお届けしろ」

いつの間にやらぐるぐる巻きにした闇を解いて縁側の端に胡座をかいていた猿飛に、先程うちの殿から受け取った書状を差し出す。早くこの男を甲斐へ返して殿の背に戻らなければと急かすように睨むが、お調子者の猿飛は直ぐには出て行かない。いつもの事だが、今日は殊更鬱陶しい。

「毛利の旦那みたいな御人のところで、よくやっていけるよねえ、三春ちゃん。武田にくればいーのに」
「ちゃん付けするな・・・俺はあの方以外の下で働くつもりは無い」

何度も交わすこの会話に、返答は変わらぬのだからいい加減意味を見出せず、イライラが増していく。

「あんな冷たい御仁の何処が良いんだか。いつ斬られるか分からない、そんな中で仕事なんて俺様は嫌だね」

いつもは流してしまう言葉が、今は耳障りで仕方がなくて。

「うちの殿は、元就様は、そのような冷たい人間では無いッ!!この戦世の中で数多もの他人の上に立つ人間として、これ程相応しい方は他には居ないッ!上に立つ者が、下の者を使う事に一々心を痛めていたらキリがない・・・大切な、ここぞという時に使えなければ、意味が無い!それを、彼の方は痛い程分かっておられる…!だからこそ、兵を駒などと呼ぶんだ、そう言いながら、己が内を傷付けて傷付けて、ボロボロになりながらも、安芸の為にと痛みを全て背負っておられる・・・!お前なぞにそれが分かるのか、「三春」
「ッ元就様、」

思わず衝動のまま口が開き、気付けば要らぬことをまくし立てていた。目の前の猿飛は大きく瞳を見開いており、俺の声を聞きつけた殿に止められる。嗚呼、とんだ愚行をお見せしてしまった。

「早う戻れ。我を待たせるでない」
「はっ、申し訳ございません」

そう言ったきり、また直ぐに室に戻ってしまった殿を見て、猿飛は驚愕を続けていた。いつものうちの殿であれば、駒ごときが我の何を知っているのか、等言ってもおかしくない状況だった。けれど、

「・・・先に口走ったことは忘れろ、では書状、頼んだぞ」
「三春ちゃん・・・意外と大事にされてんだ、」
「うるさいッッッ!!早く去ね!!」

呆然と、心底意外そうに口を開いた猿飛を追い出して、俺は殿の前に戻る前にこの顔色を何とかしようと蹲った。思わず喚いたのを聞かれてしまったこと、そして殿の己を見た瞳が優しげであったこと。この二つに、己の内側を意図せず曝け出してしまったような羞恥心に襲われていた。恥ずかしくて堪らない、穴があったら入りたい。なければ己が手ずから掘ってでも、

「三春」

頭の上から、今この時だけは聞きたくない、会いたくない御方の声。

「貴様は、誰の忍か」
「・・・貴方様の、元就様の忍でございます」
「そう、我の草、我の影よ。お前は、我の背にて在れば良い」

それは、うちの殿からの分かりにくい、けれども分かる先の発言への返事であった。



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