俺に力を 伊空さんへ
「…虎若くん?……虎若くん!」
「……へっ…あ」
かしゃん
虎若くんの箸が音をたてて落下する。
「…どうしたの、虎若くんらしくないね」
「あはは…なんでもない」
「……なんでもないわけないでしょ。…人の気持ちには敏感なのに、自分の事には疎いのね。最近はいつもぼーっとしてる」
「…え、ぼーっとしてた?俺」
「してました」
まいったなーなんてへらへら笑いながら箸を拾う虎若くん。わたしが大分前から虎若くんの事を気に掛けていたなんて本人は露とも知らないんだろう。
歩いてたら柱にあたるわ、縁側にぼーっと何刻も座っているわと、わたしでなくても皆虎若くんが本調子でない事には気付いていた。
は組の父である庄左ヱ門くん、は組の母である伊助くん、同室の団蔵くん…色んな人が虎若くんを心配して相談に乗ろうとしても、頑なに口を割らかったという話を聞いた。
もしかして、近すぎて相談しずらいのかもしれないと庄左ヱ門くん自身から、できれば相談に乗ってやってくれと頼まれたのだ。
遠いから頼まれた、というのが些か悔しかったが、今まで気になりつつも話しかけられなかった自分自身へ丁度の良いきっかけではあったので話しかけた次第だった。
「ね、少し散歩でもしようよ」
「…え?…いいけど、」
やはり、自分の心を明かすのに賑やかな所は適さない。わたしは散歩を理由に、人気の無い裏庭へ虎若くんを連れ出した。
「…悩んでる事、あるんでしょう?」
「……」
一瞬驚いた虎若くんは、今度はあの歯切れの悪い感じではなく、静かに思案をしているようだった。
言うべきか、言わざるべきか迷っているのだろうか
わたしは静かに彼を待った
「……大したことじゃないんだ」
「……」
「…情けないと思うかもしれない」
「…思わないよ。」
「……」
少し強引だったかもしれない。
思案の表情を少しだけ弛めた虎若くんは少し俯き、ぽつりと呟くように告げた
「…伊賀崎先輩が卒業しただろ」
「…うん」
「生物には一個上が居ないからさ、委員長を俺達から出さなきゃいけないんだ」
「そうだね、」
「…それがさ、俺になったんだよ。」
なんとなく、彼の悩んでいる事がわかったかもしれない。
後輩を引っ張る責任や不安をどう対処すればいいのかが、わからないのだろう。
「わたしは、適任だと思うけどな」
「…俺はそうは思えない」
「なんで?」
「…人の上に立つほどの人間じゃないさ…俺は」
「そんな事ない。虎若くんは、わたしが悩んでた時わたしを助けてくれた、そういう風に人の事に気付けるのって凄いよ。」
「………それは、」
わたしは虎若くんをきっと元気付けられると思ってこう言ったのに、彼は反対にわたしから視線を外して苦い顔をした。
「……名前ちゃんだから、だよ」
「…え?」
「誰の事も見てるわけじゃない。俺は名前ちゃんが好きだから、名前ちゃんを見てる。それだけだ」
自嘲するように笑う彼を、一体どれだけの人が見た事があるのだろう。優しくて包容力のある彼がこんなふうに笑うだなんて、きっと誰も想像がつかない。現にわたしだって今、衝撃を受けたのだから。
しかし彼は自嘲気味の笑みをすぐに神妙な面持ちに変えてわたしを一筋に見つめた。
心臓がどくりと鳴った音が聞こえた
「意気地なしだと、思うかもしれない。」
「……なに?」
「…、もし俺が…生物委員長になる事を承諾したら、」
「……」
「名前ちゃんの気持ち、教えてくれる?」
虎若くんに好きだと言われてからも、わたしは一度も自分の気持ちを伝えていなかった。なんとなく言わなくても彼は言及してこなかったし、今までの緩い関係が心地よかった事もある。
でも、今、彼の表情を見て上手くかわす事ができる人なんて居ないだろう。火縄銃を構えた時のあの真剣な眼差しが、心臓を突き刺したような感覚。
「…虎若くんが生物委員長であろうと、なかろうと…」
逃げられない。逃げられないのだ。ああ、わたしの心よ。彼が待っている。
「わたしはずっと前から、虎若くんが好きです」
彼は生物委員長になる事を承諾したようです。