貴方と途中下車
所狭しと膜張る雲に覆われている筈なのに、空はぱっと明るく思わず少し尻込む。雲は湯葉の如く薄いのかと思い、縋るように薄青い亀裂を雲の斑から探した。要は電車の待ち時間が暇なだけ。
多くの下車客を待って乗り込んだ人は数名だった。これは下りなのだ。ブロック席を悠々と1人で座り、発車を待った。
がたんと揺れてから、電車はゆっくりと走りだした。景色は後ろから前へ流れて行く。後ろ向きに座っていたようだ。
―――
眠っていた。
鈍く微睡む意識の中、わたしはいつの間にか向かいに座っていた乗車客を認識し、夢見心地でその人を見つめた。薄曇りの空がよく合う憂い顔が、本当に綺麗だなと思った。
不意にガタンと揺れた電車に、その綺麗な人の瞳からはらっと涙が落ちた。ゆらゆらと微睡んでいた意識はみるみる覚醒していった。目が覚めるほど、とは良く言ったものだ。涙ってこんなに綺麗なものだったっけ?
「何か…悲しいことでもありましたか?」
「っ、え」
「すみません、ただとても綺麗な涙だったので」
その涙が一体どんな想いの具現体なのか気になって…皆まで言わずにその人はぐしぐしと涙を無造作に拭ってしまった。
勿体ない、という言葉はモラルを考えて飲み込んだ。
「そんなにごしごしすると赤くなっちゃいますよ」
「っ…うっ」
「…無理に止めなくていいんですよ。涙は無駄じゃあありません」
「…っく」
「…手、退けて下さい」
未だぐしぐしを止めないその人の目元がいよいよ赤くなってきたので、わたしは強引にハンカチを押しあてた。広げたハンカチはその人の顔をすっぽり隠してしまい、わたしは残念な気持ちになった。でもこの方が泣きやすいだろう。
その人は、すこし躊躇した後わたしのハンカチを両手で押さえて俯きながら予想通り、堰が外れたように泣き出した。わたしは赤子を見守るような気持ちで、差し出された無防備でふわふわな金髪を撫でた。私ばかりが得をしているようだなと、ふと思った。
―――
暫くして、嗚咽も治まったその人はおずおずと顔を上げた。
ひらりと落とされたハンカチからまた見る事の出来たその人の顔は、やっぱり綺麗だった。
「あ、あの」
「はい」
「すみません、なんだか、あの」
「少しはすっきりしましたか」
「え、あ、はい」
ハンカチを綺麗に畳む姿に頬が緩む。シュテルンビルドにはあまり居ないタイプの人間だ。
畳み終えても、その人は困ったように眉を下げてハンカチを見つめていた。
「あ、の…ハンカチ」
「貴方は、」
「え?」
「何処まで、行く積もりなんですか?この先は酷い田舎で何も在りませんが」
「えっ、と」
一度わたしを捕えた瞳は、心積りが悪そうにまたひらひら泳いだ。その沈むような沈黙は、電車ごと闇に呑まれた。トンネルに入ったのだ。蛍光灯の不健康な光で、その人の儚いような美しさに拍車がかかった。
「もしかして、捨てようとしていましたか」
ぴたりとその人は止まり、落ち着きない動作を一つもしなくなった。それから、植物が枯れてしまうようにみるみるうなだれてしまった。図星のようだった。
他の人がひょいと捨ててしまう事に何かを感じたこと等無かったし、口を挟むのは無粋だとすら思っていた。でもこの人は、違かった。勿体ないと思った。捨てるくらいなら、わたしが欲しい。そう、今まで感じた事の無い気持ちが湧いた。
「ねえ、捨ててしまうくらいならわたしにくれませんか」
「え?」
「わたしも捨てようとして、いつもこの電車に乗りますが、臆病者なのでまたこの電車に乗ってしまうんです」
「貴女も…」
「はい。でも今日貴方に出会って、考えが少し変わりました。」
ぱあっと、電車はトンネルを抜けた。その人の驚愕した大きな瞳は、いつの間にか晴れた空から射し込む緩い太陽光にきらきらと輝いている。アメジストか、綺麗な色
「捨てないでわたしにくれると言うなら、わたしと一緒に生きましょう。誰にも必要とされないなら、わたしが必要としてあげましょう」
「…」
「もし捨てるのなら、わたしもご一緒させて下さい。」
「…」
「今やわたしの命は貴方と共にあります」
すっと、控え目に手のひらを差し出した。話を嚥下したその人はじっとわたしの手のひらを見つめた。
わたしは最早どちらでも良かった。何故ならどちらでもわたしは得をするからだ。残りの時間を綺麗な人と過ごすのか、綺麗な人と心中するかの2択だからだ。
まあもしこの人がわたしの手を振り払って馬鹿馬鹿しいと罵ったのなら、確実に今日の帰りの電車は必要ないだろう。
「僕を必要と、してくれるん、ですか」
「はい。わたしは最早、貴方にならどうされても良いとすら思っていますから」
「あの、そ、それって…!」
「ええ全く、一目惚れなんてわたしらしくもないんですが」
そう言うと、その人は音が聞こえそうなくらいの勢いで顔を真っ赤にさせて、折角綺麗に畳んだハンカチをぎゅうぎゅうと握ってしまった。
トンネルをまた一つ抜けたら、その人はおずおずとまた太陽光に照らされたアメジストの瞳を上げた。そろそろ腕が痛くなってきたけれど、わたしは微笑みながらしっかりと見つめ直した。
アメジストに気をとられていたので、手のひらが暖かい体温に包まれて驚愕した。視線を下げてみれば、ご丁寧に両の手でわたしの手は包まれていた。
「僕もたった今、あ、貴女に、」
「…いいんですか、そんな安請け合いして」
「…え?」
「わたしは非道徳的な理由から、この電車の常連なんですよ。ろくな人間じゃありません」
散々誘導尋問じみた事をしておいて、今更傷つくのに臆病なわたしは、甘い蜜を享受する事を咄嗟に恐れてしまった。受け入れて欲しいのに、拒絶をしている。
滑稽なわたしの不器用な生き方
「…それを言うなら僕も大差ありません…寧ろ貴女はこんな僕のどこが…」
「さあ。でも、惹かれました。」
直球に弱いのか、その人はまた赤くなってしまった。大したこと言ってないと思うけれど。
「と、とにかく、僕は安請け合いしたつもりはありません。…ただ必要としてくれる、貴女を、好き、になりました」
「そうですか」
「っ…だから僕も、僕を必要としてくれる貴女を、必要とします」
ぎゅっと握られた手を、わたしは優しく握り返した。その温もりがとても愛しくて、口元が緩んだ。
「それじゃあ、次の駅で降りましょう」
繋がれたままの手を引いて、私たちはボックス席から立ち上がった。聞き慣れた駅名が響く中、わたしは初めて途中下車をした。
もう、一人でこの電車に乗ることは無いだろう。