春の曇り空の日
わたしという感覚に対する緩やかな至適温度が、肌を労わるように撫ぜる。髪が首筋に遊び、安堵に似た感覚の中空気に満たされた星のプールを泳いでいるよう。視覚は重だるく厚い雲、気圧を以て沸き立つ感覚に蓋をする。
春の曇り空の日。穏やかな雰囲気を湛えたまま、白いだけの空模様が気持ちの浮上に上限を与えてくれる。空が味気なくなった世界に、色褪せないオーシャンブルーが目に染みる。
「藍ちゃーん」
PCと藍ちゃんという熱源を閉じ込めるとあっという間に室温が上がり、窓を開けざるおえなくなる。そのくらいは藍ちゃんにとって予想し得る事態でありわたしが来た時には既に窓は開き、今日の気持ち涼しい風が部屋を踊っていたのだ。
わたしが訪問しても作業をやめない。PCに向かった美しい瞳は、わたしに一瞥も慈悲を与えない。浮上を抑えられた心境はみるみる落ち込んで行き、喪失感に似た侘しさが冷たい。
「藍ちゃん、きすしたい…」
「……」
「藍ちゃーん」
「…コレ終わったらね」
「…まだ?もう終わった?」
「早すぎ。3.24秒で終わるくらいなら、もうすぐ終わるよとか言う筈でしょ」
「…むーん」
喪失感の底に氷が敷き詰められて居るなんて、知らなかった。先程まで窓から踊り入る風に春の優しさを感じていた筈なのに、それは心の隙間を晒すものに変わってしまった。
わたしは綺麗に畳まれて使われた形跡の無い毛布を引っ張り出し、首元まですっぽり包んでもらう。自分の熱で幾らか侘しさの攻撃は止み、そのままとろりと意識が落ちていった。
_________
「…終わったよ」
ソファの上でみのむしみたいにうねうねしているナマエを呼んでも、返事は帰ってこない。うねうねはぴたりと止んで、彼女は動かなくなった。朝から噛り付くように離れなかったPCデスクを離れて、ソファを覗き込む。眠っている。
催促をしてくるから折角作業速度を1.25倍にしてあげたのに、当の彼女は夢の中。ボクとキスをしたかったんじゃないの?ボクには眠って夢を見る事がどんな事か理解できないけど、
「…ボクとのキスより、優先する事?」
ぽつりと口から零れた言葉。いつの間に思考に発言プログラムを実行していたのか自分でもわからなかった。ナマエと居ると、こういう事が良くある。博士に相談しても、曖昧に流されてしまったバグのひとつだ。
「終わったらって話だった、よね?」
返事が帰って来る事は無い。
ボクは、彼女が包まる毛布を少しずり下げる。温められた空気が緩い風に運ばれて、ボクの肌を撫ぜた。温かくて、甘い?
「甘い?空気が?どうして?」
ボクの皮膚センサーは味覚に対応していない筈だ。意味がわからない。
ボクは疑問を棄却して、既存のプログラムを優先する。毛布は柔らかくて、空気は甘い。ボクの中に味わったことのない気持ちが煙のように湧き立つ。その煙が、彼女の肌にも揺蕩ってほしい。ボクが何ひとつ、1へのシフトを実行していないのに思考は止まらない。当然身体も止まらない、ゆっくりと唇を触れさせた。彼女の唇も柔らかくて、温かくて、それでいて甘かった。
離れても、彼女は起きなかった。
瞼の裏は真っ暗な筈なのに、何が楽しくて目を瞑っているの。君のために作業速度を上げたボクは、どうすればいいの。虚しいって、こういうこと?ボクはもう一度、唇を合わせる。今度は彼女の唇を割るような、荒いキス。ボクは虚しいという気持ちの埋め方を知らなかった。
「…んん…ぅ…ん」
苦しいだろう彼女の唇から音が漏れだす。起きてしまえばいい。そう思いながら、できるだけ荒い口付けをした。
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侘しさを紛らわすために、わたしは夢に逃げた。人間に等しく与えられる休息の暗闇は、わたしの侘しさも難なく飲み込んでしまった。それからどれくらい暗闇の抱擁を受けていたのかわからない。
感覚を容赦無く叩きつけるような荒い何かに侵食されて、いる。暗くてどろっとしたものに溺れていた意識が無理矢理浮上させられて、リアルな息苦しさが襲う。苦しい、と認識してわたしは勢いよく目を開けた。真っ暗に慣れた視界に眩しくて、綺麗な…藍ちゃんだ。わたしに信じられないくらい荒いキス、をしている。あわてて、取り敢えず手を毛布から出そうともぞもぞすると、藍ちゃんはわたしが目覚めたと気づいた。動けないように二の腕の辺りを押さえつけられる。
恥ずかしい。唾液を摂取されているような、気持ちになる。藍ちゃん、藍ちゃんだ。だってなんの味もしない。しいて言うなら食感はゴム、のようだ。多分シリコン…なんだと思うけどうまくシリコンの感触を表現できない。普段藍ちゃんとのキスのはじめは、乾いていてうまく滑らないものなのだ。それが…いつからわたしは貪られていた?
徐々に動きが柔和になり、遂にわたしを犯した舌も撤退し、唇は余韻だけ残してゆったりと離れた。唇にだけ集中していた意識が分散していく。窓から音も無く吹き込んだ緩やかな風が藍ちゃんの横髪を揺らし、わたしの左頬だけ悪戯に触れた。くすぐったい。そしてその風は唇を冷やして去っていった。
「…藍、ちゃ」
「ボクは終わったらって言ったよね」
「う、うん」
「だから言ったとおり、終わったからキスしてあげたんだよ」
「あ、うん、えと」
「なに、まだ足りないの」
「ち、違う違う、充分過ぎた、んだけど」
「そ、なら良かったね」
すっと離れていく藍ちゃん。わたしを閉じ込めた腕も頬に遊ぶ髪も、呆気なく離れてしまった。藍ちゃんはキッチンに向かい、冷却シートを額に貼って出てきた。それから、開いた窓際に座り込む。わたしは毛布から出て、ソファに座り直した。身体を攫う空気が涼しい。
「…熱いの?」
「少しね。作業の後だし」
「……ふうん」
作業の後だからだと悪びれもなく宣う唇は、さっきまでわたしを追いかけていたのだ。そんな筈はないでしょう?
わたしは立ち上がる、起立性低血圧が頭をぼうっとさせたが気にせず藍ちゃんの座り込む窓際に歩を進める。窓から直接吹き込む風はわたしの身体も冷やしていった。
「どうしたの」
「…わたしも熱くて」
「……ふうん」
でも心が冷えることは、もう無い。
無言の応酬、すぐ横の窓から同じ風に同じように揺られる髪、唇の間に吹き込む風にすら、藍ちゃんを渡したくはない。
藍ちゃんは動かないまま。わたしは風に吹かれる髪を押さえながらもう一度、攫われた唇を取り戻した。
やっぱり足りなかったんじゃない、そう釣り上がる藍ちゃんの口角すら飲み込んでしまうように食んだ。