月にだって手が届く
「…また来たのかい?」
「あー…はい」
少し呆れたような、微妙な反応の博士はもう見慣れるくらい見ているのに…やっぱり慣れてないような居心地の悪さを感じる。
それはわたしの中に巣食う背徳感からなのか、隠し事をしている罪悪感からなのか。
「今日は…次のドラマの打ち合わせかな」
「そうですね。嶺ちゃんと共演みたいでなんか色々言ってましたけどなんだかんだ楽しそうでしたよ」
「うんうん、それは良かった。藍は順調みたいだね」
もうわたしが何も言わなくても、博士はカードキーを渡してくれる。
「…でも僕は…その代わりに君を、」
「わたしは…至って正常ですよ」
「…まあ、程々に」
博士の困った顔に見送られながら、振り切るようにカードキーを通した。
わたしは、藍ちゃんが居ないと熱に浮かされたようになる。所謂、恋煩い。
収録、打ち合わせ、会議…藍という子機はいつも引っ張りだこで部屋に居ない時間の方が多い。わたしは遠い藍ちゃんの事を考えながら家の事、自分の事、そつなくこなしていた。…筈だった。
ある日藍ちゃんの居ない間にラボに呼ばれた。たしか、藍ちゃんに頼まれていた部品だとかを取りに行ったんだったと思う。その時、わたしは失念していた事実を認識したのだ。藍ちゃんは、此処に居る。
囁く稼働音と、薄明かり。夢と夜空を見上げるような、異色感。
所狭しと機体を並べた地下空間の丁度真ん中辺りに、コードを避けて横たわる。わたしに触れる血管の様でカラフルなコードも、黒い機体も。全て紛れもなく藍ちゃんなのだ、
わたしはこうやってマザーコンピューターに囲まれる事で藍ちゃんを感じる事が出来ると気付いてから、頻繁に足を運ぶようになってしまった。これが背徳感と罪悪感を感じる行為だとしても。異常性癖なのかと、どこかで疑っていたとしても…
「っ…!」
足音がした。
扉の開く音はしなかった筈だ。意識が飛んでたから、聞こえなかっただけかもしれない。この部屋に来るなら、研究者か博士だろう。今までわたしが来ている時に博士が入って来た事なんて無かったのに、何かあったのだろうか。
「博士…?どうしたんですか?」
呼びかけには答えず、足音はゆっくりと大きくなる。得体の知れない足音に、後退った。それでも足音が止む事は無くて、どんどん近づいている。真っ暗な空間に、機体に付属された微かな光しか無いため殆ど何も見えない。
コードを引っ張ってしまわないようにもたもたと後退していたら、壁に当たった。後ろを見上げるとまた違うスーパーコンピューターが聳えていた。ここから並びが段違いになって居るようだった。知らなかった。
「…段違いになってたんだ…」
「…そうだよ、知らなかったの?」
「わっ!!あ、あああ、あ」
「何回も此処に来てるのに」
「あ、藍、藍ちゃん!?!」
ごく至近距離で、視界いっぱいの藍ちゃん。無表情だ。
心臓が飛び出るかと思った。それどころか此処に通ってる事がバレていた。腕さえ掴まれてなかったら一時撤退していただろう。穴があったら入りたいくらいだ。
「ど、どうしてここに…」
「君、ここ何処だと思ってるの?ボクのスペアくらいあったっておかしくないし、切り替えさえしちゃえばこっち動かすのなんて造作も無いよ」
「な、なるほど…お仕事終わったんだね…メインは部屋でスリープモード?」
「うん」
「お疲れ様〜じゃあ帰ろうか!わたしお腹空いちゃっ」
「待ちなよ。ボクの話聞いてた?帰るのは君だけだし、聞きたい事もある」
「…そうだよね切り替えるだけだもんね…じゃあ帰るから〜スペア藍ちゃんもまんま藍ちゃんだったね〜藍ちゃんハーレムとかできちゃったりするね!今度してね!」
「そんな事するのゴメンだし、君少し黙って」
「っ…はい」
ぎりぎりと、掴まれている腕に少し強い力をかけられた。
声も表情も真剣さを少しも緩めない藍ちゃんに、わたしは負けた。言い逃れなどしようと思うだけ無駄だった。
「二週間と三日前から、ほぼ二日に一回のペース。滞在は数時間。」
「う、うわあ…最初から気付いて…」
「君はなんで、此処にくるの。何をするわけでも無いのに」
「……」
何をするわけでも無いのに。
そう、何もしていない。ただ居るだけ。でもそれだけでも意味を成す。
「…美風藍って子機は、すごく忙しいトップアイドルでしょ?」
「……」
「でも子機がどんなに忙しくても、此処なら何時でも藍ちゃんに会える」
「……」
「…あ、藍ちゃんの中に居るみたいで、安心とか、感じたり、して」
わたし達を囲む本体の稼働音が呼吸のように耳元で囁く。ここに息づくように確かに生きている。藍ちゃんが。
「…ボクとしては、子機はアウトプットするためにある端末なんだからそこから正規のルートで処理結果とかプロジェクトを受け取ってほしいんだけど」
「そ、うだよね…不正規ルートで勝手な事されるのも、気持ち悪いよね…ごめん」
「別に気持ち悪いとは言ってない。ただ正規ルートで受け取ってほしいってだけ。ボクだって複数の端末を同時に操作出来ないようになってるから何もしてあげられないし」
「…後者が本音?」
「全部本音。…でもまあ」
わたしの腕を掴んでない方の藍ちゃんの手がスッと動いて、わたしの胸元を掬う。視界に微かに淡く光るのは、わたしが去年の誕生日に藍ちゃんから貰ったアメジストのネックレスだった。
「言わないつもりだったんだけど…」
「…?」
「これ、GPS」
「え…」
「だから、君が此処に来るとその信号が送られてくるんだけど」
「つ、筒抜け…」
「ボクもなんだか、変な感じがした。君がボクの…中に居るって、感じ」
「……」
「コレ、なんて言うのかな。安心?」
首を傾げる藍ちゃんに、わたしは堪らずに抱きついた。彼の手のひらは少しだけ戸惑って、わたしの服の端を掴んだ。
「…こういうのはメインの方にしてよ」
「!?藍ちゃんがスペアに嫉妬!あ、じゃあこれなら問題ないね」
「っ…!問題…大有りなんだけど」
すぐ側にある黒い機体に擦り寄るわたし。これならおんなじ藍ちゃんだから問題ないだろう。すると、心なしかスペアの顔が紅潮したと同時にマザーコンピューターの稼働音とファン音が大きくなった気がした。
「ああもう、そろそろ帰ってよ。ボク家に居るんだから」
「うん、そうだね。…あの、藍ちゃん」
「何?まだ何かあるの?」
立ち上がり、恐らくスペアの保管場所に帰ろうとしている藍ちゃんを呼び止める。
わたしも冷たい床から腰を上げて立ち上がった。
「また、来てもいい?」
「…好きにすれば。まあ、程々に」
「ふふ、うん。」