迷い子の愛し方




月の綺麗な夜だ。


ぼんやりと淡く光っている、黒漆が揺らぐ海も 空も。能面でなんにもないけど、細過ぎる白磁の四肢が浮かび上がっていた。
明日は晴れるのだろう、空濁しの雲は見当たらないから。わたしと宇宙を妨げるものは何もなかった。手を伸ばしたら、それは宇宙への一歩だった。

それでも明日の天気と、今のわたしほど関係の無いものも無いだろう。わたしに明日は無いのだから。今日の夕で、太陽とはお別れをしてきた。

さようなら

足が波に触れ、わたしは恐れる事なく裂いた。影が既にあんまりにも小さいから、少し焦りながら進んだ。波の音が絶えず満たしているから、愛音はわたしに気が付かなかった。潮水は 腹の上まで迫っている。


「間に合った」
そう呟いて わたしは海月のように、目の前に迫る背中を抱いた。温かかった、愛音の周りだけが。まだ生きていた。


「とめにきたの」


案外柔らかい語調だった。
驚きはしなかったようだ。そっと、愛音に回してあるわたしの手の甲を撫ぜられる。温もりを探しているかのようだった。


「ちがうよ」


わたしは重い水を押し退けて、手を出した。滴り、お馴染みの水音をたてて 濡れた指先は目の前の人の顎に添え、首と肩だけで軽く振り向かせた。そして冷えた爪先にぐいと力を入れる。


抵抗はされなかった、想定していたけれど。潮風に乾いた唇では、リップノイズすら立てられなかった。吸おうとした空気は、二人の唇の皺を滑稽そうに通って行った。


「 いっしょに くる?」

「 そのつもり」


泣くことも諦めたように腫れぼったくなった目尻が、気怠そうに緩んだ。
愛音を後ろから、真っ白い月が照らしていた。影がかかっていても、瞳だけは浮かび上がるように輝いていて宇宙に浮かぶ一等星だった。身体をふわりと回してわたしと面した愛音は、覆いかぶさるようにわたしの背に腕を添えた。
暫くしてから、片方の腕を何やら動かして小さなジッパーつきの袋を海から取り出した。



「こわいから、眠れるようにしたんだ」

「うん」

「きみも、飲みたいでしょ?」

「 うん」



愛音は濡れた手で、袋に沢山入っている白い粒を三つ取り出した。
わたしはそれを見ていたが、愛音はそのまま口に入れ ごりごりと噛み砕いていた。見せられた舌の上にはバラバラになった薬が散り散りに乗っていて、そのまま迫ってきた。
乾いた唇を割って、濡れた舌が差し込まれた。苦いような気がする粉物が唾液と一緒にわたしの口の中を闊歩して、喉の奥へと流されて行った。


「っ、へんな、あじ」

「僕はもう慣れたよ」


どうにも冴えない味が巡っている。
鼻から感じる潮の匂いだけで、感覚はいっぱいなのに。ザン、と遠くで波が鳴る。沖は嘘のように静かで 穏やかにわたしたちを待っていてくれた。


「まだ、時間はあるでしょ」

「夜が暗いうちは」

「さいごにこんな味なのは、いや」


やれやれと、呆れたように薄い笑みを塗って口を貸してくれた。愛音もさいごを、睡眠薬の味で締めたくはなかったみたいだ。
もうなにも焦る事なんて無いから。初めての事なのに、わたしはどうにも落ち着いていた。もう何百回目の口付けを交わしているかのように、穏やかな気持ちになるのだ。同じ筆を仲良く持って、未来を白い絵の具で消している。
稀に波が通ると、二人は一層深く繋がった。


「眠くなったら、眠っていいよ」


温かい胸、さいごはわたしのものだった。すきこそ言えなかったけど、



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