とろける指先
ファラム・オービアスの天気予報は、当たらない。
そう、ブラックホールが近付いてきてからは。前は最新鋭の気象観測技術によって殆どハズレなかったから今でもまだ、天気予報が外れるって事に慣れていない。ブラックホールの引力が介入して、雨雲の軌道が読みにくくなったらしい。それは致し方ないとわかっていても、フォールディングアンブレラを忘れていたことについては完全にわたしの落ち度である。
「調子こいて新しい鞄なんて持ってきたからだ…」
休日のうちに食料品やら何やら買うってだけの用なのに、新しいショルダーバッグなんて引っ張り出してくる必要は無かった。何時もの鞄には入っているのに、鍵と財布だけ詰めて出てきてしまったのだ。ホームセンターから家まで、地味に距離がある。無情にも大粒の雨が、硬い地面を打っていた。
「…新しいやつ、買うか」
バサバサと傘の音を立ててホームセンターへ立ち寄る人 出てくる人、人の行き交う入り口で明らかに傘を忘れた人というのはなかなか哀れだと思う。そして、こんな雨の中傘を買うというのはもう思いっきり忘れた人ですと言ってるようなものだ。憂鬱な気持ちが拭いきれない。わたしは素早く目的の物を購入して、さっさと帰ろうと足早に回れ右をした。
「おい」
「…げ、リュゲル」
「なんだ、お前…さては傘を忘れたんだな?」
「………」
「フッ…備えあれば憂いなしという言葉を知らないのか」
こいつのデリカシーの無さを誰か矯正してやってください。絵の具を水に溶かすように、憂鬱が四肢まで侵すようだった。得意気にフォールディングアンブレラを懐から出す仕草も、じつにイラっとする。
「…うるさいな、鞄新しくしたから仕方ないの」
「それで、どうするんだ?」
「新しいの買う」
「そうか。それがいいだろう」
じゃあな。リュゲルは何故かわざとらしいくらいあっさりと会話を切り上げて帰路についた。雨を掻き分けて、弟の待つ家に帰るのか。ふと、彼の後ろ姿には珍しく買い物袋がぶら下がってる事に気付く。中身は…
「…お菓子ばっかりじゃない」
「うっ…」
「ガンダレスも育ち盛りでしょ?そんなんじゃダメだよ…!」
「う、うるさい!料理なんて出来ると思うか!?」
「まあ二人の性格じゃ無理だね」
「そうだろう!?」
先程と立場が逆転だ。
わたしは傘を忘れたということでリュゲルに鼻で笑われた雪辱を晴らせたのだ。雨、そして傘が無いという事で生じていた憂鬱がゆっくりと消えていくのを感じた。
「王宮で食べてるんじゃないの?」
「…休日まで出るわけではない」
「じゃあリュゲル、こうしよう」
「…なんだよ」
「わたしが二人に、体に良くてボリュームたっぷりのご飯を作ってあげよう!」
「ほ、ほんとか!?」
「その代わり傘に入れて?」
「…なに!?」
彼は兄という立場上、弟の健康も少しは考えているだろう。彼らに料理のスキルが皆無だろうと、外食かお菓子か弁当だなんて生活が良くない事くらいはわかるはずだ。うんうん唸って悩んでいる。
「……仕方がない…ほら」
「わーいありがとう!って、ちょっと!」
「っ、なんだ」
ほら、そう言いながら傘を差し出してくれたのはいい。しかしそのまま柄をわたしに持たせて、一人雨の中に出てしまうではないか!違う違う。わたしは咄嗟にリュゲルの白い腕を掴んだ。
「傘、入れてって言っただけ。二人で入ればいいでしょ?」
「…」
「…なによ、嫌なの?」
「そ、そういうわけではない…!」
「じゃあいいじゃない」
渋る彼の腕を引く、相合い傘を恥ずかしがるなんて可愛いところもあるじゃないの。いたたまれなさそうに、視線を泳がせている。まあ、少しは…距離の近さとか触れる肩だとか緊張もするけれど。この時のわたしにはまだ余裕があった。
「…俺が持つ」
「え?」
「…こういうのは、男が持つものだろう」
男、女、そんなこと持ち出されたら余計に緊張するじゃないか。それどころかリュゲルは柄を握るわたしの手を覆うようにしているから、離す事が出来ない。
白磁の手は、陶器を思わせても全くその通りではなかった。暖かくて、柔らかくて 微かに湿っていたのだ。彼も緊張している。
「離してくれないの?」
「…離してほしいのか」
「…ううん」
ファラム・オービアスは雨。
さあさあと、柔らかい音で雨滴が地を求めている。足取りは酷く緩やかだ。雲はひっそりと滅びの象徴を隠している。
ブラックホールが呼んだ予測不能の雨雲は確かに今わたしを幸せな気持ちにした。滅びをもたらす事にだけ気を取られていたら、きっと逃していたこの出来事をわたしは忘れないでいよう。