なんてことをしてくれたんだ
※オルフェウス夢企画「Castella」様提出作品



薄闇の清かな空気に、すっと冷えた秋口の肌寒い夜だった。



ばたん、
扉が閉まると、郊外独特の遠い喧騒すらぴたりと止んだ。薄紺の空が少し開いたカーテンから垣間見える。暗い部屋。明度の低い部屋。部屋に居る筈の彼女は多分何処かで眠っているか、買い物だろう。彼女の靴は多すぎてどれか一つが無くてもオレはさっぱり違いに気付けない。

誰も居ないのに足を潜めてしまった時の妙な羞恥心は味わいたくなかったから、特に潜めもせずに部屋に入った。靴音がやけに響く。ふとソファーから覗く足を見つけて、しかし足音を潜めていたところですぐ夕飯で起こすのだと人知れず言い訳をした。彼女は眠っていた。その足が纏う靴が何色なのか、暗い部屋では認識することは出来なかった。



「…名前」



ひくりともしない彼女は変わらず寝息をたてている。
オレが帰るまで絶対起きてるだとか、食事を作ってくれるとか、そういう事を一切しなくて(オレが料理が得意なのはまた別として)、それがオレは好きだった。彼女は粗くて、それでいてすっと柔らかな涼しさを持っていた。

甘い視線と甘い仕草と甘い言葉しか持たない女の子の中で、すっと深い濃いルビーのような彼女はさぞ美しく目を惹いた。



「…名前」



ソファーがぎっと音を出した。彼女に覆いかぶさるようについた両の手のひらに、柔らかな髪を感じる。彼女の髪は甘い。

そうか、オレはギャップに弱いんだと気付いたのはいつだったか。纏う空気が涼やかでも、実際は温かなところとか。苦い言葉すら易く吐き出す唇が実はすごく甘いんだとか…
鼻先が触れない程度に近づくと、温かい息遣いを感じてオレは身震いをした。どんなに突き放されたり尖る言葉を投げられたりしても、オレの目に彼女の肌はシロップのように甘いものに見えていた。実際、温かい甘肌に暖められた甘ったるい空気が鼻腔を擽るのだ。



その首筋に、今まで何度噛り付こうとしたか。その一線がどうしても越えられなくて、オレはいつも寸でのところで怖気付いてしまう。
ぼすん、今日も駄目だ。彼女が首とソファーの間に挟んでいる大きな枕に顔を埋めた。今までの女の子でこんなヘタレはまったく無かった筈なのに、それを少し友人に愚痴ったらそれ初恋なんじゃないのかと言われた。まさか。


ぞわっとした電流が全身に回って不自然に硬直した体。首筋を細腕が巻き付いた。咄嗟に彼女の顔を見ようとしたが、きゅうと絞められた腕に身動きは取れなかった。
耳元に息遣いを感じる。どくどくと心臓が煩くて、こんなことであり得ないくらいに動揺していると悟られてないかが心配だ。
彼女が浅く息を吸う



「意気地なし」



心臓を氷が這った。
彼女の前ではこれ以上へまをしたくなかったオレとしては、かなり痛い一言。
腕が解け、手のひらはオレの頬を包んだ。真っ黒の瞳がオレを見つめる。



「意気地なし」



再び辛い言葉を吐く唇を慌てて塞いだ。慌てたから、少し歯が当たった。情けない。



ああ、あの日グラウンドで君がオレの視界に現われたから、簡単なパスでもふとミスをしたり肝心のミルクの量を間違えたり、キスで歯があたったりする事が増えたんだ。それまで?そんな事一つも無かったさ。どれもオレの得意分野だった筈なんだ。でも彼女が見ているとか思うとたちまち脳が痺れるように緊張する。まったく、オレから料理とサッカーをとったら何が残るんだ。消しカスみたいなただのマルコ、つまらないマルコだろう?



「でもわたしはそんな、料理やサッカーや女で飾られてないそのままのマルコが、好きなの」



多分今オレの顔は真っ赤だろうから、また枕に顔を埋めた。まったくもってお手上げだ。ハンドルは君の手の中。
でも今だけは、君の身体をオレなりに愛させてほしい。芳しい首筋に、今日初めて噛り付いた。



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