アクアリウムの独り言
※現代
「ちょっと、勝手に触んないで」
「あ、ごめん」
この狭い社会科準備室は最早兵ちゃん三ちゃんの領域だった。滅多に使われないこの部屋には、機械の分解や組み立てが趣味な二人のがちゃがちゃした部品がいっぱいだ。どんな役割があるのか想像もできない不思議な形をした金属部品を手にとってみたら、ちょっと怒られた。
「どうしたの?わたしをここに呼び出すなんて珍し」
「今忙しいから」
「………」
呼び出しておいて一体何様なんだ、なんて口が裂けても言えない。だって笹山兵太夫様だもの。
わたしはおとなしく兵ちゃんの手を見つめる事にした。いつも思うけど、一体どんな世界が見えているんだろう。どんな完成図を描いて、そんな流れるみたいに指が踊るんだろう。その背中が、視界から温もりを感じるようにあたたかく見えるのはいつからだっただろう。
「兵ちゃんって不思議」
「…なんで」
「なんでだろ?」
「はあ?」
「なんというかー…」
「……」
「人と違う?」
「全く同じ人なんて居ないよ」
「うーん…」
聡い兵ちゃんなら、きっとわたしが気付かないふりをしてきたこの気持ちをちょっとした切り口から覗いてしまうんだろう。一体どうすれば不透明なまま、置いておく事ができるんだろう。
ただ、その陽だまりみたいな暖かさが心地好くて、何かが切っ掛けで焦がすような熱に変わってしまうのを恐れている臆病なわたし。自然な距離が、上質なクッションのように柔らかいから手放せなくなってしまったなんて、怠惰なわたし。
「うーん、だって」
「僕には、」
「ん?」
「僕にはお前のほうが不思議だ」
「え?」
流れる指が、止まった。
てっきりこっちを振り向くのかと思って身構えてたら、兵ちゃんは少しだけ頭を上げてそのまま続けた。わたしはなんとなく続きが聞きたくない気がした。上質なクッションは忽然と姿を消して、そこは隙間風がのさばる空間が在るだけになってしまった。
「怖がる必要無いのに、なんで気付かないふりなんてしてるのかが」
「っ、」
「僕は不思議だけど」
ああ、今まで丹念に濁してきたのに。誰にも覗かれない筈なのに。まるでまだ透明だった時から見守ってきたような暗喩に、わたしは息を忘れた。
心地好さが消える。胸が騒ぐ。
わたしはこれを恐れていたというのに
「……」
「……」
言葉を忘れた社会科準備室に、春の風が吹いた。一緒に気まずさも流し出してくれればいいのに。
凪いだ薄色の髪に初めて焦がれたのはいつだったっけ。こんな春の薫りがした気がする。勝手に諦めたふりして、澄んだ心の水槽に有りもしない物を何でもかんでも混ぜるようになったのは、いつだったっけ。
「お前が望むなら、もう少しだけ知らないふりしてやってもいいよ」
「…兵ちゃ」
「でも」
追い付かない思考がもどかしい。ぬるま湯でふやけた心は、ただ兵ちゃんの言葉を咀嚼するだけ。
不意に兵ちゃんが座る椅子が鳴るぎしっという音で、心外に身体中が飛び跳ねた。兵ちゃんの視界にわたしが入る、そう思っただけで血液が沸き立つように熱くてくすぐったい。
綺麗な瞳がわたしの後退った足を見たと認識するより速く、兵ちゃんの手がわたしの腕を強く掴んだ。
「やり過ごせるなんて思わない方がいいよ。僕は逃がすつもりなんて毛頭無いから」
既に熱に浮かされた心がぬるま湯にもどかしくなって白旗を掲げる日は近いと、水槽が言う。