ホットミルクにたゆたう
※現代、成長
本の中でヒロインは優雅にティータイム。ふっくらとしたブラウニーをそのクランベリーのような唇でふわり。うん、今日は絶対にブラウニーを食べよう。
ろくに読まない本に手を出すといつだってそう。時間も夕飯も全て忘れて空が明るくなる、分かっていたのに。鼻腔を薄く湿ったブランデーが過ぎるような気すらしてくるのだから相当だ。
「え、お前まさか今迄」
「あ、おはよう。そのまさかだよ」
「しんっじられない。肌に悪い」
「ブラウニー食べたいよ兵ちゃん!」
「勝手に作れば」
「…つめたい」
きっちり10時6時で睡眠をとってきた兵ちゃんはわたしをまるで人外を見るような目で見て甘いホットミルクを作りにキッチンに消えた。わたしは兵ちゃんに迷惑をかけないようにリビングで毛布に包まって本を読んでいたのだ。
「続き物だから気になっちゃって」
「だからって徹夜とか馬鹿でしょ」
「…仕方がないじゃない…」
ぶーと膨れてみても彼は不細工、なんて言ってホットミルクとキス。なにそれなにそれ。兵ちゃんとキスするのはホットミルクじゃなくてわたしなのに!
なんだかハイな思考回路は徹夜の副産物だ。ソファーに座り、ああ寒いなんて言って湯気のたつマグカップを大事そうに包む兵ちゃん。一通り心の中で騒ぎ立てたら一気に疲れて、わたしは座っていたソファーにごろりと上半身だけ横になった。兵ちゃんの方に頭を向けて
「…ねえ兵ちゃん、」
「ん?」
「何処かで悲しんでる人が居るのかな」
「……そりゃ、居るんじゃない」
「…わたしはこんなに幸せなのに」
ただ彼が隣に居る、キスの相手がホットミルクだろうと大切に包む相手がマグカップだろうと、でもわたしの隣に居る。
それは紛れもなく、少なくとも本の中の悲しい二人よりも幸福な事なんだ。それはなんだか、後ろめたいようなそんな気がして。テレビも何もついていない静かな空間で、朝日が静かに絨毯に落ちている。
「…」
「人生にだって波はあるだろ。顔と同じで人それぞれ違う波が」
「うん…」
普通に相槌を打ったつもりだったのに、思ったよりも思い詰めた声色になって部屋に溶けた。
それにどんな反応を見せたのか、わたしには兵ちゃんが見えなかったからわからない。だけどゆったりと時を置いて、彼はまた口を開いた
「…お前がそうやって他人のために心を割いたなら、きっとそいつ等にもお前にも幸せは来るんじゃない」
「…そう、かな」
「うん」
またたゆたう様な沈黙がしずむ。
コトっと音がして、兵ちゃんがマグをサイドテーブルに置いたのだとわかった時にはわたしの唇にふわりと熱と甘さが降りた。兵ちゃんの唇とわたしの唇の間の空気が、ホットミルクの優しい薫りで揺らぐ。
「…お前のそういうところ嫌いじゃないよ」
「…ブラウニーは?」
「…好き」
「ふふっ、じゃあ起きたら作るね」
「うん、おやすみ」
頬を滑る温い貴方の指が、わたしの涙を掬いとる感覚を最後に夢に落ちた。