はるさめ
※成長
ただ、水の音は清かで柔らかい。
跳ねた水分子の密度は言うまでもなく、頻度因子の高い室内。犇めく見えもしない分子のまとわりつく空気は酷く重くて動きずらい。暗い筈なのに不思議と澄んだ心に、ひたりと歩み寄る温もりの気配を読んだ。
「暇そうだね、暇人」
薄墨の雲り空の奇妙な明るさは、その人の濡れたような黒髪の暗夜を涼しく際立たせた。縁側はむっとした水分子の流れを運び、それは等しくわたしとその人を撫ぜた。
「そっちこそ」
「まさか僕が暇人だと思うの」
「ええ、そうでないなら何故こんなところで油を売っているのかしら」
「なんでだろうね」
ふざけた物言いに、何でもない風にその人を一瞥した。相変わらずの満面の笑みはいっそわざとらしくわたしを捕える。
その人のお顔は毎度寸分の狂いもなく記憶された笑みを浮かべることを仕事としている。薄闇の中、陰を湛えるその笑みのなんとお似合いなことか。
「疲れない?」
「なにが?」
「寸分の狂いもない笑顔」
「癖だもん」
「…そう」
癖と割り切れるほど簡単な仕事ではないのだろうに。
沈黙のない空模様に、耳がそわそわと波立つ。
「名前」
自然と馴染むように置いてあった距離を詰め、その人はすいと空気を闇で切ってわたしの傍まで来た。すぐ傍。
「…――――」
ぐっと、わたしの顔の横に添えられたその人の両指に力が入ると、そこはわたしとその人だけの無音の世界だった。
ゆっくりとその人の表情が崩れる。想像すらしなかったのに、なぜだかしっくりとくるような柔らかな憂い顔は美しく、背に負う曇はより一層深みを寄与した。
読唇させる気などさらさら無いような、普段と変わらない様子で動かされた唇は音もなく語る。
"すきだよ"
「、そんな事知ってる」
耳を塞がれていて音量を増した自分の声が久しぶりに音を認識させる。
愉快そうに肩を揺らすその人はまた口を開いて
"なまいき"
そのままぱくりとわたしの唇を捕えた。