傲慢と高嶺の蕾
窓のない地下室に小さなランタンが一つ。これくらいが一番ちょうどいい。暗闇に浮かぶ少女の白い肌にまたひと筋、ゆっくりと赤を刻んで、プライドは微笑んだ。
「――まだ、言う気になりませんか?」
答えはない。ああ、と呼吸を奪っていたことを思い出して、細い首に絡めた影をゆるめた。
「……か、はっ」
肩で息をする彼女が呼吸を整えるまで、プライドは黙って待ってやった。幼い少年をかたどった容れ物の体をかがめて、期待とともに少女を見守る。
だがようやく顔をあげた少女は――ここに連れてきたとき同様、強い意志の灯った瞳でプライドを睨みつけた。そして、
「だから……グリード、に、聞いたんだって」
血のにじんだ唇でそう言った。薄ら笑いなど浮かべて。
全身の皮膚を薄く切り刻まれた少女は、それでもなお主張を変えない。
「嘘が下手ですね」
自身の一部であり本体でもある影がより強く彼女の体を締め付けた。
それをわずかに引くだけで柔らかい肌にすっと赤いラインが描かれて、なかなかに美しいとプライドは思う。
「貴女が知る我々の情報は、二百年前にここを出たグリードの知り得ない範囲にまで及んでいます。――本当は、他にも話した人がいるんでしょう? 教えてくださいよ」
「……っても」
「はい?」
「言っても、信じ、ないよ」
相変わらず爪の甘いエンヴィーが逃してしまった彼女を、再びここへ連れ戻したのはつい三日前のこと。
エンヴィーにこのことは言っていない。言えば仕事を放り投げて彼はここに来るだろう。それを避けるのは、これ以上弟に父への背信行為をさせないためか。それとも――
「……それは、我々の仲間が裏切ったことを、私が信じないという意味ですか? やはり情報を漏らしたのはエンヴィーなのですね?」
「違う」
今度ははっきりと答えた。強い光をたたえる彼女の目に嘘は見当たらない。
エンヴィーが父上を裏切っていないならばそれは良い報せであるはずだが、どうにも面白くない。
プライドは彼女――なまえと会うのは三日前、自身の手で誘拐したときが初めてだが、不思議と彼女のことを気に入っていた。
たおやかで線の細い見目とは裏腹な、その毅然とした強さが誰かに似ているような――
「そう、貴女のその目、誰かに似てますね……誰でしたっけ」
「……なんの、はなし」
「まあいいでしょう。秘密を知る貴女はどのみち、二度とここから逃しません」
そう宣言してみても、やはり彼女の表情は変わらなかった。
前回は偶然入り込んだマスタングによって助けられたというが、今度は不可能だ。ここは大総統邸地下室。入り口を知るのは父上とラース、そして死んだラストだけだ。他の兄弟には特に必要もないので教えていない。
全身を拘束されたままじりじりと動く彼女の狙いに気づいて、ひょいと床に置きっぱなしのランタンを取り上げた。光源に直接押し付けられでもすればさすがに影が霧散してしまう。
目論見が外れたなまえはちっと舌を打った。軍人でもないのに女だてらにその不屈の精神、大した人間だとは思う。
「……そういえば貴女、私の姿を見ても驚きませんでしたね」
「いやいや、めちゃくちゃ驚いたけど? 夜中に目を覚ましたら部屋中びっしり目玉だらけ……なんて、カメラがあったらテレビ局に送ってるわ」
「てれ……なんです?」
「あんたが知らないものだよ」
きゅ、と影による拘束を強める。腹を立てたわけではなかったが、挑発されて大人しくしている道理もない。
「突然の襲撃に驚いたとしても、貴女は私に怯えない。私の姿を見て、疑問を投げかけはしなかったですね。”これはなんだ”――と。もしや、はじめから知っていました?」
「ラスボスとバトった後で今さら四天王にビビれって? もちろんビビってますがそれがなにか?」
プライドの質問を無視して、あくまでふざけた答えを返す。呼吸もずいぶん落ち着いてきてすっかり余裕の態度だ。
しゅるしゅると影を動かして、その一筋をなまえの内ももに滑り込ませた。
「……ちょっと、変なトコ触らないでよ。このマセガキ」
「質問に答えないなら、ここを切ります。まず出血多量で死ぬでしょうね」
人体でも特に太い血管が集まっているそこをなで上げる。なまえの命はすでにプライドの手の中だ。全身に刻まれた傷が、その事実を物語っている。
「……まあわたしの秘密、もう割と色んな人に話しちゃったし、知られてどうこうってものでもないからさ、別に話してもいいんだけどさーあ」
その口ぶりからして、本当にこちらの情報漏洩はないらしい。だがどういう意味だろう。彼女個人の秘密が何故、こちらの秘密の流出に繋がる?
プライドは黙って彼女の言葉を待った。
「でもやっぱ、嫌いな奴に言うのはシャクなんだよね。あんた、さっきからエンヴィーを疑ってるでしょ? そんな奴に話すことはない。エンヴィーに訊きなよ」
エンヴィーは彼女の秘密を知っていると? まあエンヴィーは彼女から情報を引き出すために芝居をしていたのだから、それはいい。情報の共有がされなかった理由についてはいずれ本人に問おう。
しかし――
「不思議ですね。エンヴィーに手酷い裏切りを受けたばかりなのでしょう? 何故彼のために怒っているのですか?」
「あんたには分かんないよ、バーカ」
「……なるほど」
まあ、事実だろう。人間の心理など、人造人間であるプライドに解るはずもない。
だが妙に気になるのは――ああ、そうだ。なまえは……彼女に似ている。優しく愚かな、セリムの母親に。
こんなことなら、セリムとして一度会っておけばよかったとわずかに後悔した。
「では、殺すのはやめにします」
「えっ? あ、うん、ありがとう」
予想外の言葉だったらしく、なまえは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
なんとも緊張感のない。敵に拷問を受けている最中だという自覚がないのか。
さて、とプライドは息をついた。
こちらに裏切り者がいないなら、これ以上の拷問は不要だ。彼女個人の秘密とやらが気にならないでもないが、それより。
「なまえ・カーティス。貴女は一生ここから出られません。ですが殺しもしません。その代わり」
「その代わり?」
「自分を裏切った相手を今も大切にする理由――あるいは感情。それを私にも分かるように教えてください。時間は十分にありますから、いつまでかかっても構いません」
十分にとは言っても、父上の計画成就の予定日までおよそ一年弱だから、短い一生ではあるが。
「いや交換条件になってないし、普通に今すぐ出たいん――いっ!?」
「それは却下です。秘密を知る者を逃がすはずがないでしょう」
これまで避けていた顔に傷をつける。悲鳴はあげても、とくに他の場所を傷つける時と反応に変化はない。予想はしていたが、自身の美貌になんの執着もないらしい。
未だ見せない殺意や激情を、どうやったらこの女から引き出せるだろうか。
どうやったら、化け物と知りながらこちらを鋭く睨めつけるその目から、光を奪えるのだろうか。
「話せることがないなら殺してもいいんですがね。少しだけ、貴女に興味がわきました」
不思議だった。セリムの正体を知らずに愛する母親と違い、この女はエンヴィーの正体も目的も知ったうえでまだ――そう、友達といえる関係であろうとしている。
夫人との家族ごっこをそれなりに好ましく、楽しく思っているプライドは、自身の正体を話したいなどと思ったことなど一度もない。あの関係を壊すことはしたくなかった。けれどエンヴィーは――全てをさらけ出し、彼女を心身ともに傷つけておきながら、まだなまえに肯定的な感情を抱かれている。
嫉妬の感情は父上の中に置いてきたもの。今はエンヴィーが持っているもの。だからプライドにそういう感情はないが――。
エンヴィーが持っているものを自分が知らないというのは、少しだけ、矜持が許さない気がした。
「なまえ・カーティス。私は貴女が知りたい。これから毎晩会いに来ますから、どうぞゆっくり、教えてください」
エンヴィーはこのことを知ったら怒るかもしれない。ああそれに、彼女の姉弟弟子だというエルリック兄弟も。
だが関係ない。職務怠慢のエンヴィーに反論の余地はないし、エルリック兄弟がここを嗅ぎつけることもありえない。
終わりがくるその日まで、彼女にはここにいてもらおう。
不可思議なその感情の正体を知れれば――それと同じものを自身に向けさせることも、あるいは可能だろうか。
2020.04.14