監禁クッキング
はじめこそのんきに構えていたなまえであったが、この夜とうとう限界を迎えた。
「もうむり、死ぬ……」
真夏の地下室は、蒸し鍋だ。とうに空になった水差しをくちの上で振って、なまえはため息をついた。
このまま朝がくるまえに、脱水で死ぬのではないだろうか。汗で濡れて機能しなくなった服を脱ぎ散らかし、コンクリートの床で体温を下げようと試みてはいるが、あまり意味を成していないように思う。
昼はまだいいのだ。どこか出口を開放しているのか、ひゅるりと抜ける風が心地よい。だが夜は駄目だ。まともな風がないから空気は滞り、湿度のせいか体感温度は昼間より高い。
ああ、こんなところで蒸し鶏ならぬ、蒸し人間になってしまうのだろうか……。
ひとを資源扱いするのなら、もう少し大事にして欲しいと思う。あまりの暑さでなまえはもうどうにかなりそうだった。
どこからともなく響いてくる獣――エンヴィーいわく、実験動物の
わかるよ、暑いと苛立つよね。となまえは心中で彼らに同意した。
それにしても、お腹が空いた。
……
暑くて空腹な夜など最悪だ。とても眠れやしない。もう死ぬ。絶対次の瞬間には熱中症で倒れてる。
あの獣たちも同じ気持ちなのだろうか……。
……もし彼らの檻が開いたら、そして、もし彼らもまた腹を空かせていたら、いまのなまえは抵抗も出来ず食われるかも……。
「いやいや」
無心になれと自分に言い聞かせ、何度目ともわからぬ寝返りを打つ。
――すると、背後で突然、ガチャガチャと金属音が響いた。暗闇のなかで錆びたドアが静かに開き、思わず小さな悲鳴をもらす。
「なまえー、起きてる?」
「なんだエンヴィーか……」
ぱっと眩く点灯した照明に目をしばたきつつ、聞き慣れた声にほっと息をついた。
常に裸足で歩くエンヴィーの足音は聞こえずらく、こういう時、非常に心臓に悪い。
光に慣れた視界に、エンヴィーの呆れたような半目が映った。
「その反応、なんか間違ってない?」
「
「はあ? やだよ不味いし」
「なら大丈夫」
怪訝そうにエンヴィーは首をかしげた。一度は味わったことがあるような口振りは気になったが、忘れよう。
人造人間である彼にもこの熱気は堪えるのか、その額には汗がにじんでいる。
「それで、こんな夜中になんの用? 扇風機でもくれるっていうなら大歓迎だけど」
「センプーキ? 食べ物?」
「機械の扇」
「あー、換気扇? それよりさ、なまえって料理できる?」
「は?」
料理?
全く予想していなかった単語に一瞬思考が遅れる。
「まあ、多少は……家庭料理くらいなら?」
「じゃあなんでもいいから作ってくれない? お腹空いちゃってさ、寝付けないんだよ」
意外な言葉になまえは目を丸くした。
「いいけど……」
立ち上がり、一応脱いでいたシャツも着て、促されるまま牢を出た。
「エンヴィーも寝るんだね」
「そりゃ体の構造は人間と一緒だからね。まあ寝なくても活動はできるけど、その分賢者の石で補うことになるし、普段は普通に生活してるよ」
コストパフォーマンスの問題らしい。
なら、この暑さも空腹も寝苦しさも――人間が感じる全てを、彼らも同じように感じているのか。
彼らについて他の人より少しだけ知っているなまえだが、それは初めて知る事実だった。
「グリードは夜中平気で起きてたから、てっきり寝ないのかと思ってた」
「あいつはただ夜型なだけ……ていうか、夜中に会ってたの?」
不用心じゃん、とまるで心配するようなことを言うエンヴィーに変な気持ちになる。
おそらく思ったままを言っただけなのだろうが、悪い気はしない。会話だけ聞けば普通の友達だ。夜中の地下監禁部屋という状況を除けばだが。
「一度だけね。むしゃくしゃして夜中に殴りに行ったことがある」
「なにそれ……」
「夜の訪問は大歓迎、いつでも相手してやるって言ってたから」
「多分そういう意味じゃない」
「グリードにもその時言われた」
修学旅行の夜みたいだ。足元にしか照明のない廊下を歩きながらなまえは思った。
「どこに行くの?」
「研究所のキッチン。ここから一本道だから」
「錬金術師を連れて台所に? エンヴィーこそ不用心だね」
「心配しなくても、錬成陣なんか描けないようにちゃんと見張っとくから」
残念でしたと言わんばかりにエンヴィーは笑った。
台所は錬金術師にとって道具箱のようなものだ。上手くやれば脱出の道具くらい作れるが、この様子ではそんな隙はないだろう。
それより今は大人しくして、今後の油断を誘った方が良いだろう。逃げる素振りを見せなければいつか警戒も薄れるはずだ。
「わあ、広い……! もっと給湯室みたいなの想像してた」
たどり着いたのは大人数での作業を想定された、設備の整った調理場だった。
冷蔵庫も業務用の大きなものがずらり。この時代、冷蔵庫はまだまだ高価だ。それをこんなに置けるのはさすが国家機関といったところか。
エンヴィーはそこからよく冷えた飲料水を取り出し、なまえに投げ渡した。
「なにせ働く人数が多いからね。食材もたんまりあるから、好きに使ってよ」
「明日ここの人達が困るんじゃない?」
「別にいいじゃん」
むしろ困らせられる事を喜ぶようにエンヴィーはにやりと笑い、無遠慮に冷蔵庫をあさり始めた。
……ここの研究員は
とはいえこの冷たさはありがたい。水をひと息に飲み干して、ついでに流しで手と顔を冷やし、なまえも現状を満喫した。
「お、肉あるじゃん。ステーキ作ってよ」
「寝る前に? 体に悪い……いや、賢者の石がなんとかしてくれるのか」
「そうそう。あんたら人間とは出来が違うんだよ」
「いいなあそれ。材料があんなのじゃなければ欲しいんだけどなあ」
「等価交換ってやつだよ。これだけの物を作るにはそれなりの対価がいるのさ」
その気になれば睡眠も食事も必要なく、体の不調までも補ってくれる。医者要らずとはこの事だ。
まるで命の塊。それほど便利な物を手に入れるには確かに、莫大な対価を支払わねばならないのだろう。それは分かる。
「でもさあ、なんかこう、もっとマイルドなもので作れないの? 生命エネルギーなら人間じゃなくても持ってるでしょうに。植物とかさー」
「人間が一番効率が良いんだよ、多分」
使っている本人の割りに、エンヴィーもそれほど詳しくはないようだ。
だらだらとしゃべりながら、調理道具を探して慣れないキッチンを歩き回る。大人数用に仕入れただろう素材はどれも大きく、まずは捌くところから始めなければならない。肉屋の腕の見せ所だ。
「食べ物から摂る方が効率良いよ。エネルギーもある上に美味しい!」
「それ効率とは違う話だよね」
「まあまあ。じゃあ腕によりをかけて、とびっきり美味しい料理を作るからね! そこでどーんと構えて待ってて!」
「わー」
ぱちぱちと気のない拍手が送られる。いいんだ。本気の歓声は料理を食べたときにとっておいてくれれば。
意外すぎる頼みではあったが、まあなまえも腹の虫に睡眠妨害されていたところだったので、渡りに船。
「材料はそろってるみたいだし、お父さん直伝の極上ステーキを作るよ。肉が殺……屠殺したてじゃないのが若干不満だけど」
「言い直した意味ほぼないって気づいてる?」
エンヴィーのツッコミを鼻歌でかき消し、なまえは調理にかかった。
まずは下拵え。丁寧に捌いて筋を取ろう。牛肉2キロ――うん、ちょうど二人分くらいだろう。「量多くない?」と後ろでエンヴィーが言っているが、むしろ控えめだと思う。
「任せてエンヴィー。我がカーティス精肉店の食卓に肉が並ばなかった日はこれまで一度もなく、家でわたしが包丁を取らなかった日もこの2年間一度もない!!」
「意外と短いね」
「まだ16だもん」
14才からは毎日やっているのだ。世間的には長い方だと思う。
「20年後には一流シェフの腕になってるはずだから、乞うご期待!」
「いや何年一緒にいる気だよ」
「オレたちの友情は永遠さ……!」
「一瞬だっただろ。現実見ろよ」
エンヴィーはどうやら演技をやめた時点で友達もやめた気になっているらしい。
なまえだってイイコぶりっ子していたのだから、お互い似たようなものだと思うのだが。
「あんま凝ったコトとかしないでいいからさ、早めに作ってよ」
「手を抜けばすぐ出来るってものじゃないよ。いいから待ってて」
肉の扱いなら齢一桁の頃からやっているのだ。
数百年も生きたというエンヴィーをあっと言わせる、最高のステーキを作ってやる……!
§
――数十分後。
香辛料と肉が焼ける香りが鼻孔をくすぐり、一層の食欲をそそる。
美しい焼き色を確認し、なまえが火を止めてそっとナイフを入れる様子を、エンヴィーもまたじっと見守った。
すうっと抵抗なく刃が埋まり、透明の肉汁が溢れ出す。スライスすることで現れた内側の赤は、火加減が完璧であった事実を示している。
「やっと完成?」
お茶を入れて待っていたエンヴィーは、せっつくように空の皿を差し出した。
なまえはそれを目で制して、小さく切り分けたそれを口に含み――。
「……うん、完璧。慣れないオーブンで火加減は難しかったけど、さすが良いものそろってるね」
「じゃあ」
「あわてないあわてない。仕上げにちょちょいっと盛り付けて、肉汁たっぷりのソースもかけて、と……」
どうせ業務用の食材しかないのだ。気取ったところで大差はない――とエンヴィーは思ったが、なるほど多少はそれらしくなる。
さらに飾り切りした野菜を添えて、なまえは空いている調理台にそれを置いた。
「さあお待ちどうさま! 極上牛ステーキ、召し上がれ!」
「わーい」
待ちくたびれたとばかりにエンヴィーはフォークを取り、ステーキ肉のど真ん中にどんと突き刺した。
ナイフで切り分けることもなくそのままかぶりつき――
「ん、んんっ!? おお……!!」
くちをもごもごさせながら、目を輝かせた。これは、期待以上だ。
「美味しい……! ホントにここの食材だけ使った? 軍の不味い食堂とは大違いじゃん!」
「でしょ、でしょ!? 肉はね、手間をかければかけるほど美味しくなるんだよ! いつか我が家の自家製燻製肉も食べさせてあげたい……!」
「ちょっと量が多いかと思ったけど、これだけ美味しいなら食べ切れそう」
「ならよかった!
「ん……ん?」
意味を理解しかねて、ぱちりと目をまたたく。
いまなにか、おかしなことを言わなかったか?
「メイン……?」
「メインディッシュ」
「これがメインじゃなくて……?」
「それは前菜」
「前菜……いや、菜では、ないよね……」
かろうじて野菜は添えられているが、肉だ。肉料理だ。
首をかしげるエンヴィーに、なまえもまた同じ仕草をした。
「レアは前菜でしょ? ……ミディアムの方がよかった?」
「いや、その基準初めて聞いたけど」
「ちなみにデザートもレアだよ」
「ちょっと待て。まず……これが2キロくらいあるよな。最初に出した肉はこれで全部だよね?」
おそるおそると確認をとるエンヴィーに、なまえはきょとんと目をまたたいた。
「やだな、見てなかったの? メイン用は別に出して、ちゃんといま焼いてるよ。ウェルダンの予定だけど、もうそろそろ……」
ぎい、と金属製のオーブンを開く。
そこに並ぶ、”前菜”とは比べ物にならない肉塊に、エンヴィーはうっと言葉を詰まらせた。
「それ、まさか全部……」
「二人分だよ。少なかったかな」
「冗談……」
「ちなみにデザートはこれから作っ」
「い、いらない! デザートはいい!!」
「そう?」
必死の静止に冷蔵庫を開けかけたなまえは手を止め、じゃあと椅子に腰掛けた。
フォークとナイフを手に取り、花の美貌をほころばせる。
「じゃあメインまでね。ここの人にバレたら大変だから、はやく食べよ」
内緒話をするように可愛く言って、なまえは優雅にカトラリーを操った。
当然のように、完食できないという心配はそこにはない。
エンヴィーは考えた。
……もし完食できなかったら、あるいは食べきる前に研究者の出勤時間が訪れたら、これはゴミ箱に捨てていくことになるのだろうか。すくなくともエンヴィーは持ち帰りたくない。
となると、勝手に備蓄を調理されたことに気づいた誰かが騒ぐかもしれない。万が一ラストやプライドの耳に入ったとしても、せいぜい小言を言われるくらいだろうが……そのとき向けられる呆れた視線を想像すると、それは断固回避したい事態だった。
「どうしたのエンヴィー? 冷めちゃうよ?」
「なまえってさぁ」
「うん?」
いつの間にか”前菜”とやらをたいらげて、メインを切り分けながらなまえは微笑んだ。絶対、区別した意味ないと思う。
これが人間だという事実がエンヴィーには信じられない。いや、性格など見ればまさに人間そのものなのだが、言動が色々おかしい。
「……なんでもない」
「えーなに、気になる〜」
「なんでもないったら。これ、八割はそっちが食べてよ。」
二度と料理など頼むまい。しかしそう思いつつも、舌の上でとろける柔らかい肉はやはり極上で、じゅわりと広がる肉汁が空腹に染み渡る。
「食べ終わったら今日一緒に寝ない? 暑苦しくってさぁ、なんか体の冷たい生き物に化けてよ」
「図々しいな! 冷たいって……蛇とか?」
「蛇は美味しいけど苦手かな〜」
「食ったのかよ……」
「なんでも食べなきゃ生きられないからね」
……アメストリスはそれほど過酷な国だっただろうか。
二百年近くを人間のそばで生きてきたエンヴィーだが、どうもこれは別の生物に見える。
少なくとも自分の正体を知り、地下に監禁され、脅迫された状況でここまでのんきな人間というのは、エンヴィーは初めて見た。
「いっそここで寝ようかな。涼しいし水もあるし」
「監禁されてるのわかってる?」
とある真夏の夜の、愚にもつかない話。
日常というには異常で、非日常というにはあまりにありふれた時間。
2019.08.21