「はい?」
トウコが店仕舞いを中断して顔を上げると、暗がりから見覚えのない男が大きな荷物を抱えて現れた。閉店前に滑り込んだ客、という風情ではない。
「えーっと……」
「い、イアンです。イアン・ストークス。角の家に越してきた」
「……ああ」
誰かと思ったら、ベティの婚約者だ。
日はとうに暮れてあたりに人影はない。こんな時間になんの用だろう、とトウコはつい眉をひそめた。彼とはこれが二度目の対面だが、先日のベティとの一件もあって苦手意識が先立ってしまう。
「えっと、わたしに何か」
「こ、これを……! お渡ししたくて!」
自身の上体ほどもある大風呂敷を軒先の柱に立てかけて、イアンは焦った手つきでその包みを解いた。ふわりと油の匂いが立ちこめて、白い布のうちから繊細なレリーフの額縁が現れる。
「……絵? ああそういえば、画家さんでしたっけ」
人物画──いや宗教画だろうか。額のなかでは羽の生えた輝く裸婦が湖のほとりで花と戯れていた。トウコは芸術に全く明るくないが、なるほど生業にするだけの腕前は見て取れる。
で、これを……わたしに? 何故?
「貴女を描いたんです」
「ひえっ」
「どうしても貰ってほしくて……。それでもしよければ、今度絵のモデルになってくださらないかと、」
「ど、どっちも結構ですっ!!」
言うが早いか、ピシャリとドアを閉めて鍵をかけた。
善意か好意かなど知らないが逃げた自分は悪くないと信じたい。だって──あれがわたし? 裸で羽が生えたあれが? そして何故それを本人に見せて伝える? 駄目だ、気持ち悪い! 無理!!
あらゆる感情が限界突破して、トウコは家の奥へと逃げ込んだ。
くるくるくるくる、銀の針が絶え間なく回り、ミントグリーンの糸が見る間に針先へと吸い込まれていく。作り慣れたモチーフはすっかり体が覚えていて、ひとりでに手が動いてしまうから、最近はこれだけだと無心になりきれない。
だからベッドに寝そべり手は編み物足は筋トレ、果ては顔に猫を乗っけて視界をふさいでようやく、トウコは心の平穏を取り戻した。
「トウコそれ、どうにかなんないのかい」
しかし部屋に入ってきた母──イズミはそれを堕落ととったらしく、ひょいと剥がされた猫の上から呆れた視線が降り注いだ。
「このくらいしなきゃ心頭滅却できないの」
「いいからどれか一つにしなさい、この欲張り娘。そんなふうに雑だからまともな筋肉がつかないんだ」
イズミとしては筋トレを優先してほしいようだ。
「日課のメニューはちゃんとやってるよ。これはあくまでプラスアルファで……」
「ところでトウコ、最近店に妙な男が来てないかい?」
「……妙な男?」
妙な男の心当たりがあまりに多過ぎてトウコは返事に詰まった。
常連客と化したストーカー、昨日の変質者、先程のストークス氏。ちょっと男嫌いになってしまいそうなレベルで近頃は妙な男が多い。
「このところ男の冷やかしが増えただろう。肉屋に寄る観光客なんて今までいなかったが、このところ浮ついた噂が広がってるみたいだし」
「あ、そっち」
「どっち?」
「いやなんでも」
たしかに看板娘とやらを目当てにした客はちょいちょい訪れる。トウコにとってはもはや日常の一部となりつつあったので、すぐに思い至らなかった。
「いまのところ害はないよ。冷やかしは迷惑だけど五人にひとりくらいは買ってくれてる」
「まあそれはいいんだけどさ……うーん……」
「うん?」
イズミが珍しく逡巡するように唸るので、トウコも起き上がって編み針を置き、居住まいを正した。
真剣な目でイズミが言う。
「トウコ、嫌ならしばらく店番はやめてもいいんだよ」
「えっ。なにが?」
きょとんと返すとイズミは予期していたようにため息をついて、引き寄せた椅子に腰掛けながら続けた。
「お父さんが心配してるんだよ。ほら、ひとりふたりならともかく、数がちょっとおかしいだろう? 男ばかりあんなに押しかけてきて、なにか起きたら遅いって」
「あー……」
たしかに人が増えれば問題も増える。考えもしなかったが、ガラの悪い観光客が店にいたずらをしないとも限らないわけだ。
「間違っても知らない男とひと気のない場所に行くんじゃないって、お父さんが」
「え、わたし?」
「そりゃそうだよ。まったく、そのくらい自分で言えばいいのにね。そういうのは女親から言ってくれとさ」
物理的な対人問題を危惧されたのは予想外だった。最近は日課の組手でも屈強な父から一本取れることが増えて喜んでいたが、やはり手加減されているのかもしれない。
そしてつい数日前に全くひと気のない場所でよく知らない男と二人きりになってしまったことは言うべきなのだろうか。
あの男の話を親に隠すのはそれこそ非行じみている気がするが、できるならイズミにあの男の存在を知らせたくない。
まだ知らせてはいけない気がするのだ。
まあ、ギリギリ自己紹介は済ませた相手だからノーカンということでいいだろう。
「いくら強くても本心では怖いんじゃないかってメイスンまで言い出してね。実際どうだい?」
「いやー別に……」
「だよねえ」
苦笑いで返すとイズミも同じ顔で笑った。
男性というのは女性をかなり繊細な生き物だと認識しているのかもしれない。いやトウコとイズミが図太すぎるだけという可能性も大いにあるが。
「まあそれはともかく、明日は休んでいいよ。たまには息抜きしておいで」
決定事項同然に宣言すると、イズミは数枚の紙を差し出した。汽車の切符と少しばかりの紙幣だ。
しかしトウコは店番の給料をきちんと支給されているし、最近では手芸品の売上もまとまった額になりはじめている。そのうえでお小遣いまでもらうのは気が引けて、ふるふると首を振った。
「どっちも必要ないよ。働くの好きだもん」
「好きでも疲れはするだろう? 針を握ってる時間も増えてるじゃないか」
「実は注文もらったんだ! ほらこれ、オーダーメイドのスカーフ」
ここぞとばかりに成果を主張しながら、さっきまで編んでいた花のモチーフを広げてみせる。イズミは破顔して「おやすごいじゃないか」と喜んでくれたが、次の瞬間には「じゃあそういうことだから」と出ていってしまった。
机に置き去りにされた切符はトウコがたまに通っている隣駅までのものだ。ここで羽を伸ばせということらしい。
「……しかたない、休むか」
そして裸のままの紙幣を親の仇のようにしばし睨んでから、トウコはそれを袋に包み、引き出しの奥にしまった。
これは自分が使っていいものではない。そんな気がした。
§
空気の匂いで午後は雨だとわかった。
洗濯物を室内に干して、庭に出しっぱなしの道具類を作業場に片付ける。
他にやっておくことはないかと探したが、すべて横から父とメイスンに取り上げられてしまい、トウコはいよいよ観念した。
「……じゃあ、いってきます」
「はいはいいってらっしゃい! ゆっくり休むんだよ!」
威勢よく見送られて、なんとなく追い出された心地でトウコは家を出た。
軽く買い物するだけのつもりだったが、これはあんまり早く帰ると文句を言われそうだ。
とはいえ一度足を伸ばしてしまえば案外用が見つかるものらしい。
近頃は作るばかりで材料を調達する時間もあまりなかったから、トウコはこの機会にあれこれ買い込むことにした。
糸はいくらあっても足りないし、ビーズや飾りボタンももっと種類がほしい。金具や細かいパーツ類はいっそ業務用の金属ブロックを買って錬成してしまおうか。それならかなり材料費を浮かせられるし、そのぶん値段を下げれば喜ばれる。ああ、そこまできたらボタンも錬成してみたいな。糸の染色に挑戦するのもいい。
考え出すとつい欲が出る。そんなに手を広げたって全部をこなす才能も時間もないというのに、欲しいものだけは星の数ほども生まれてくる。
でも趣味だし、失敗したって錬金術でリサイクルできるし、たまになら。あと少しだけ──
「買い、すぎ、た……」
気づけばどんどん買うものが増えていって、ようやく喫茶店でひと心地ついたのは昼過ぎだった。
特別な日以外でこれほど散財したのは初めてかもしれない。物欲まみれの男と毎日のように会っている影響だろうかとふと考えて、たまたま疲れていたせいだと思い直す。
日当たりの良いテラス席で山積みの買い物袋を眺めながら、期間限定のアイスクリームに舌鼓を打つ。どこをどう見ても、文句なしに充実した休日と言えるだろう。これなら家族に何をしたのか訊かれても堂々と答えられる。
やり遂げた気持ちでトウコがアイスクリームを堪能していると、ふいに聞き覚えのある声が耳に届いた。
「えーまたぁ?」
「そうなの」
クレアの声だ。
「昨日の帰りにさーほんとありえない」
ぐるりと見回すと隣の喫茶店に五人、トウコの友人の少女たちを見つけた。
こっち向かないかな。そう念じていると、ちょうど柵で隔てられたすぐ隣のテラス席に出てきたので手を振ってみた。しかし距離もそこそこあるので気づかれない。
仕方ないか。声を張っては周りの迷惑だし、店が違うから席の移動もできない。あとで隣のお店にいたよと伝えたらみんなびっくりするだろうか。
想像して、ふふ、と一人で笑みながら残りのアイスを口に運んだ。
「私、トウコきらーい」
からんと、スプーンが床に落ちた。
気づいた店員が駆け寄ってきたので会釈で断って自分で拾う。
「私も。なのにみんなトウコばっかり」
「あいつ外面いいから。ちょっと愚痴っただけでそういうのよくない、とか言ってさ」
「私らを見下してるよね。そのくせ男好きで」
「うちのお母さんもトウコのこと女らしい良い子って褒めるけどさ、実際は野蛮っていうか、野生児だよね」
「あれでしょ、無人島育ち!」
ころころと笑い声が響く。
無人島で育ったわけではないと言いたかったが、きっとそこは問題ではないのだろう。
クレアはどうしているのだろう。なんて言うのかな。
「クレア、昨日大丈夫だった?」
「もう超怖かった。いきなりケンカ始めるし、逃げろとか怒鳴って命令してきてさ」
……まあ、そんなものだろう。
大丈夫、知っていた。不在の友人の悪口をここぞと言い合うなんてよくあること。傷つくほどではない。前もそうだったのだから。
トウコは不満を共有するほど他人に興味を持たないだけで、どうしてもそれらを言わずにはいられない人もいる。共感はできずとも、それは理解すべき習性なのだろう、きっと。
ぐるぐるとそんなことを考えるうち、トウコはいつの間にか汽車に乗っていた。
道に迷わないなんて、ひょっとして今日はすごく調子が良いんじゃないだろうか。荷物までちゃんと持ってきている。
外は雨が降り出した。あっという間に雨足が強くなっていく。もうすぐ雨だと伝えずに去ったのは意地悪だっただろうか。ううん、仲良し同士で一緒にいるのだから、突然の悪天候だって文句を言いながら楽しめるだろう。トウコとちがって、彼女たちは一人ではないのだから。
座っているのに足元がふらふらする。夏も近いのに指先が冷たい。トウコは自分が思いのほかショックを受けていると気づいて驚いた。
……ちゃんと話して、誤解を解くべきだろうか?
いいや、きっと逆効果だ。そもそも外面がよくて野蛮というのは間違いではない。男好きというのは心当たりがなかったが、なさすぎて弁解の仕方も分からない。
きっといろんなことがいけなかったのだ。
事実トウコはなにかと喧嘩っ早いところがある。昨日も助けてとは言われたが、倒してとはたしかに言われていない。あの場合、彼女の手を引いて憲兵の詰め所まで走るのが正解だったのかもしれない。だとしたらなるほどトウコのしたことは野蛮だ。年頃の少女の行動ではない。
──だからそう、わたしが悪い。
悪いなら、直せばいいだけだ。
(わたしはトウコ・カーティスなんだから)
強くて、正しくて、かっこいい。そんな両親に育ててもらって、本当の子供が使うはずだった部屋に置いてもらって、十分な食事も教育も与えてもらって。
なのに弱くて間違った惨めな人間に育ってしまったら、申し訳なくてどうしていいか分からない。
人に嫌われるのは別にいい。
せめてそれが両親に知られないようにと、トウコは暗い雨空に祈った。
§
人間は愚かで悲しい生き物だと、いつだか姉弟の一人が言っていた。
人は憎み合い争わずにはいられないから。
けれど一世紀近くを人間と暮らしてきたグリードは思う。どんなに愚かであっても、彼らなりに考えていることはあるのだと。
故にこそ、あの少女のまわりはさぞ頭が痛いことだろう。
人間はどれほど小さなコミュニティーであっても序列を生む。知的能力に運動能力に財に美に、いちいち優劣をつけて相対的な自身の順位を確認する。争う前に勝てる相手か見極める。
自身が下だと認識した人間が取る行動は時と場と相手により様々だが、ある程度は決まっている。おもねるか、離れるか、貶めるか、あるいは別世界の住人だと定義付けるか──引きずり下ろすか。それは防衛本能に近い。
だがあの女ときたら見掛け倒しもいいところで、ひとたび口を開けば付け入る隙のオンパレード。上なのか下なのかはっきりしてくれと混乱し、扱いに手を焼く者は多いはずだ。
「トウコ?」
だからごうごうと叩きつけるような雨のなか、ひと気のない廃工場でその姿を見つけても、グリードは不思議には思わなかった。振り向かずに顔を拭う仕草からおおよその事情も察せた。
たとえば誰もが認める美があったとして、誰もが愛するとは限らない。いつも人に囲まれたこの少女が実はひどく危うい立ち位置にいることくらい、はじめから容易に想像できていた。彼女の周囲の状況を部下に報告させる中で見えてきたものもあった。
「……グリード」
ゆったりとこちらを向いた血の気のない顔はいつも以上に白くて、本当に透けてしまいそうだった。青ざめた唇も重たげな瞼も、雨のせいだけではないだろう。
それでも、その姿を見てグリードは真っ先にただひと言、美しい、と思った。濡れた黒檀の髪も水の滴る肌も、頼りなく揺れる瞳も、消えてしまいそうなほどに儚くて美しい。
……不幸な女だ。何事も度を過ぎれば恩恵以上の難点が生じるもの。なにもここまで、これほどまでに美しく生まれなくてもよかったろうに。
いつだかグリードの部下が大きな仕事をこなした時、褒美に渡した金を断られたことを思い出した。
そんな大金を持つのは怖い。と部下は言った。
人間は弱い。欲しい物を所有するにも強さと度胸がいるらしい。奪われないように、妬まれないように。
トウコは多分、その人間離れした美貌を持つには弱すぎるのだ。
「びしょ濡れじゃねえか。どうしたこんなところで。迷子か?」
額に張り付いた前髪をかきわけてやると、トウコは珍しくされるがままに目を伏せた。長い睫毛にたまった滴が頬に落ちる。
「……べつに? ちょっと雨宿りしながら……考えごと」
声音だけはいやに明るい。それでも力なく投げ出された手足や、水浸しで放置された荷物にまでは気が回らないらしい。自棄を起こしているのかと思ったが、瞳に嘆きの色はない。弱り果てたその横顔はたしかに、じっとなにかを考えているようだった。
トウコはおそらく、人の悪意を知らない。彼女の神秘めいた美しさは他人の善意と好意、そして畏れを引き出す。やさしく甘ったるい、この世の上澄みだけを栄養に育った彼女は、下に沈む澱んだ感情を見慣れていない。世界の全てから大切にされてきた、天性の箱入り娘だ。
だからいざ悪意を向けられたとき、跳ね返す術を持たないのかもしれない。ひたすら理解につとめ、ただ素直に受け止めてしまう。善意も悪意も平等に、あるがままに。
硝子細工のように硬くて脆い、高嶺の蕾。良くも悪くも異物。
おとなしく高嶺にいればいいものを、わざわざ降りてきて人間に混ざることで渇きを癒そうとするという一点においては──まるで誰かのようではないか。
「ウチの店に来るか?」
「え……」
驚いたようにトウコはグリードを見上げた。
「どうせこの雨じゃ帰れねえだろ? ウチなら地下通路ですぐだぜ」
ここで断られるのがいつものお約束。だが今日は返事がない。代わりに飴色の瞳が大きく揺れた。
もう一押し、唯一覚えた彼女の弱点を突く。
「腹減ってんだろ? なんか食ってけ、な」
はたからだと家出少女を食べ物で釣っているように見えるだろうか。
いや、こんな土砂降りで出歩く物好きなどいまい。ここにはトウコとグリードだけだ。
「……うん、行く」
「よし」
手をとって歩き出す。大人と子供ではなく男女のそれらしくなるように、グリードはトウコの手を自分の腕に誘導して、似合わないエスコートの真似事などしてみた。
瓦礫と廃材の散乱する道を抜けて、暗く寒い地下道へ降りる。
彼女には教えておいた方がいいだろう。異物の生き方というものを。
当然、善意などでは決してない。あくまでも自分は強欲で彼女が欲しいのだから、この機を逃す手はないというだけ。
ただ、それすら分からずについてくるほど弱り果てた少女が、グリードはすこしだけ憐れだった。
2020.04.30