当時のわたしは前世の記憶を取り戻し始めたばかりで、まだこの世界に対する既視感を受け入れられずにいた。
そこにあの男が現れて、正直、またか、と思ったのだ。
§
「雑貨屋?」
「うん、前から趣味で作ってるアクセサリーとか小物とか、お店の端っこに置いちゃダメ?」
「別に構わんぞ。たしかにどれも売り物になりそうな出来栄えだと思ってたんだ」
「やったぁ! ありがとうお父さん!」
あっさりと父の許可を取り付けたのは、最近夢中になっている手芸品がとうとう部屋に収まりきらなくなってきた頃だった。
どれもささやかな品だが出来栄えは両親や友人のお墨付きだし、なによりダブリスは観光地だ。ちょっとした小物は土産物としても需要が高い。
トウコはその日のうちにひとつひとつ丁寧に値札を付けて、せっかくだからと作りかけの作品にも手を伸ばした。夜が更けて、早く寝るようにと一度だけ父が声をかけていってからもしばらく没頭する。
目の前の針と糸だけに集中している間は嫌なことを考えなくていい。眠らなくていい。
日付が変わった頃、いよいよ瞼を開けていられなくなって、トウコはようやく針を置いた。限界まで作業に集中してしまうのはここしばらくの悪癖だ。
「トウコ、まだ起きてるのかい」
びくりと肩が跳ねた。
「お母さん、寝なくていいの?」
「寝てたさ。けどあんたが起きてる気配がするから見に来たんじゃないか」
針と糸をこすり合わせるばかりで、気配と呼べるほどの音を立てた覚えはないのに。
病弱なのに武闘家の主婦ってどうなんだろう。
そんなことを思いながら、苦笑してトウコはドア越しに返事をした。
「もう寝るよ。起こしちゃってごめんなさい」
母なら衣擦れの音だけで室内の様子がおよそ分かる。嘘はすぐに見破られるだろうとすぐに照明を消して、ベッドにもぐり込んで「おやすみ」と言った。
「ああ、おやすみトウコ」
階段を一番下まで降りる音を聞いてから、トウコは頭までシーツをかぶって目を閉じた。
身体が弱いお母さん。わたしを育ててくれたお母さん。わたしが本当は捨て子だってこと、隠してくれているお母さん。
わたしも本当は子供じゃないかもしれないなんて、考えたくない。
わたしが拾われる前、ふたりの本当の子供がいた瞬間があったなんて、知りたくなかった。
まだ眠りたくない。眠ると夢を見る。
夜ごと夢に見る別の世界の記憶。別の自分の人生。しばらく前から途切れることなく続く、奇妙な夢。
変わったこともあるものだと最初の一、二ヶ月は面白がって、今日も夢の続きを見たと人に話したりもした。
けれど三ヶ月、四ヶ月、半年と続くにしたがい、不安がつのった。あまりに鮮明なその夢の記憶が、現実の自分を侵食している気がした。夢がただの夢ではなくて、本当にあった記憶なのだと無意識に理解し始めていた。
信じたくない未来。目を逸らしたい過去。トウコはその夢が恐ろしくなった。
逃げるように作業に没頭しはじめたのはそれからだ。手芸でも錬金術の研究でもなんでもよかった。とにかく眠るのが恐ろしかった。
それでも人間であるかぎり睡眠は毎日必要で、とうとう眠気に抗えなくなったら、せめて祈るようにベッドに身を沈めるのだった。
どうか、ただの夢であってくれ、と。
「トウコーっ! お店はじめたんだって?」
噂好きな友人のクレアが店に飛び込んできたのは朝のことで、耳が早いねとトウコは笑った。開店からまだ一時間も経っていないというのに、一体どこから聞いてきたのだろう。
「そんな大層なのじゃないよ。店の端に置かせてもらってるだけ」
「いやぁトウコのこれは絶対商売に出来ると思ってたよ〜。せっかくだからあたし、お客さん第一号になるね!」
「いいの?」
「もっちろん! 今までタダでもらってて悪いと思ってたんだよね。どれもお店で売っていいレベルだし、むしろお金払わせて! みたいな」
クレアは籐籠に入った商品を手に取り、「さーてどれがいいかな〜」と一つひとつ吟味をはじめた。ガラスのネックレス、レースのポーチ、ビーズのストラップ。バリエーションはさまざまで、どれも自信作の一点物ばかりだ。
ふと、来客を告げるベルが続けて二度鳴った。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。引っ越しのご挨拶に来たのですけど……いま、大丈夫ですか?」
遠慮がちに現れたのは、ウェーブがかったショートヘアが可愛らしい小柄な女性と、どこか印象の薄いおとなしげな男性だった。
「ええ、大丈夫ですよ。どちらに越して来られたんですか?」
「この通りの角の家に。私、ベティ・アーロンといいます。こっちは婚約者のイアン。この街について分からないことも多いですけど、これからよろしくお願いします」
愛想よく差し出された握手に応じながら、トウコも名乗った。
「トウコ・カーティスです。うちは見ての通り肉屋なので、ぜひご贔屓にしてください。常連さんにはサービスしますから」
「はい、きっと毎日通います」
「あ、私! 私はクレアって言うの! 私らと年近いよね? これからよろしく!」
「クレアさん、どうかよろしくお願いします。ほらイアン、あなたもご挨拶を……イアン?」
黙ったままの婚約者をベティが振り返ったが、男は風邪を引いたようにぼーっとして、反応しない。
「……ちょっと、イアン!」
「……え、あ、あっ! イ、イアン・ストークスです。一応画家をやってまして、い、家はアトリエを兼ねています。えっと、いつでもご注文を承ってますので、あの、ぜひ来てください!!」
空気を切るような勢いで手を差し出され、「はあ……」とやや気圧されながらトウコも右手を出すと、がっしと両手で力強くにぎられた。
「いたっ!」
「あっ! す、すいません! つい力が入って……!」
「大丈夫です……ええと、画家さんなんですね。機会があったらお邪魔させていただきますね……」
「はっはい。ぜひ!」
「夏には式を挙げる予定なので、その時は招待させてください」
「ええ、もちろん!」
それから当たり障りのない挨拶を交わし、「ご家族でどうぞ」と手土産の小箱を置いて二人は去っていった。
「クッキーかな? ハーブみたいな良い匂い!」
ラッピングのないシンプルな紙箱はほんのり温かい。焼きたてだろうか? 開けるのが楽しみだ。
トウコが箱を奥に持っていこうとすると、クレアが「それよりさ」と身を乗り出した。
「どう思う? 婚約者ってことは未婚だよね? 結婚前なのに一緒に引っ越しなんて珍しい」
「そうなの?」
「そうだよ。あの二人、なにか人に言えない事情があるのかも。駆け落ちとか、実は指名手配犯とか!」
「ふうん」
「あのベティって子、ちょっと性格キツそうな感じだったよね。トウコも気をつけなよ? 騙されやすいんだから」
「そうかな」
「……ねえ、この話興味ない?」
「心配は嬉しいけど……噂話は好きじゃないかな。気になるなら本人に聞けばいいよ」
一人歩きする噂に悩まされるトウコとしては、自分が噂に乗る側にもなりたくはなかった。
しかしクレアは不満そうに唇をとがらせる。
「つまんないの」
そう言ってクレアは店を出て行った。きっと話題を共有できる相手を探しに行ったのだろう。
近所に住む彼女とは昔からの付き合いだが、どうにも話題が合わないところがあった。だがそう広くもない街の同世代の同性はそれだけで友人みたいなもので、自然と一緒にいることが多い。
小さく息をついて天井を見上げると、ベルの音とともに柔らかい風が流れ込んできた。ふわりと甘い花の香りが店内に広がる。
「よお、繁盛してるか?」
「……また来た」
「そう言うなって。牛ロース、これで買えるだけ」
そう言ってカウンターに置かれた紙幣の数を確認し、一緒に置かれた花束は無視して作業に移った。
残念ながら、この男はかなりの上客だ。
ほぼ毎日来ては大量に買っていくので、ストーカーといえどあまり無下には出来ないのが現状だった。
「……こんなに買ってどうするの」
「半分は俺が食って、半分は店に出す」
「お店してるの?」
初めて男に興味がわいて顔をあげると、グリードはにやりと笑ってみせた。
「なんだ、店に興味があんのか? それならそうと早く言えよな! 来たけりゃいつでも来ていいぜ、歓迎してやるよ」
ポンと投げ渡されたマッチ箱には店の名前が描かれている。毒々しいデザインを見るに、あまりガラは良くなさそうな印象だ。
「──お、なんだこれ? 昨日までなかったよな」
見つかった。
グリードはクレアが散らかして行ったアクセサリーに気づくと、カウンターに放り出されたネックレスを手に取った。
「悪くねえな。いくらだ?」
「……七百センズ」
「なんだそんなもんか? もっと吹っ掛けりゃいいのに。ほらよ」
なんてことだ。
まさか、この男が最初のお客さんになってしまうとは。
切り分けた肉とは別々に包んで渡すと、グリードはネックレスの入った小袋を満足そうにポケットに突っ込んだ。
「……それ、お兄さんが着けるの?」
「バカ言え。店に帰ったら誰か欲しいっつった女にやるよ」
「……おんな」
「あと、俺はお兄さんって年じゃねぇ」
「……」
……別に誰にあげようと買った人の自由だが、ふつう、散々俺の女になれなどと言った相手から他の女性への贈り物を買うものだろうか。
トウコには男女の機微など微塵もわからないが、どうにも馬鹿にされている気がしてならない。度重なる物扱いといいトウコの嫌いなタイプだ。
「……おい、それどうしたんだ?」
そうしてもんもんとしていると、グリードは眉をひそめてカウンターに置かれた小箱を睨んだ。
「頂き物。近くに越してきた人がくれたの」
「ふーん。くれ」
「え、あっちょっと……!」
トウコが答えるなりグリードは箱をひったくると、中のクッキーを口に流し込んだ。
「そこそこの味だな」
「な……な……!」
ぜんぶ食べやがったこの野郎……!
あんまりだ。さすがにこれはあんまりだ。珍しく神妙な顔つきをしたと思ったら、一体なんなんだ。
「なんてことすんのバカー! 強欲バカ! 欲張り!」
トウコは憤慨したが、グリードは大して悪びれることもなくひらひらと片手を振った。
「わりーわりぃ、ついな。それよりおまえ、これ寄越したのはどんな奴だ?」
「どんな人でも関係ないでしょ! もう、みんなで食べるつもりだったのに……!」
「いやぁ、うかつに他人からもらった物食うのはやめたがいーぜ? 何が入ってるか分からねぇんだからよ」
「ありえない、変なこと言わないで! これをくれたのは普通の女の人なんだから!」
「あー……。いいかトウコ、覚えとけ」
トン、と空箱をカウンターに置いて、グリードはトウコに目線を合わせた。
「ありえない、なんて事はありえない」
息をのんだ。目を見開いて、思わずふらりと後ずさる。
強い既視感。その言葉は、いやその言葉も、トウコは知っている。
「あ……」
クッキーの空箱も、見慣れた店の景色も、一瞬で遠く感じた。
代わりに、夢の中の故郷が昨日のことのようによみがえる。
それは地図に存在しない国。この世界の誰も知らないはずの場所。
いやだ。それを認めたら、トウコはここの人間ではなくなる。
「トウコ?」
グリードは怪訝そうにトウコの顔をのぞき込んだ。
トウコは彼を知っている。ガラの悪そうなお店の名前も薄ぼんやりと聞き覚えがある。
行ったこともない店、会ったばかりの人間の秘密を、鮮明に思い出せる。
そんなことって。
「……なんでもない。クッキー返して」
「口移しでいいか?」
「帰れ」
知るはずもないことを知っているだなんて事実、知りたくなかった。
「買い物済んだならどいて、オジサン。商売の邪魔」
「誰がオジサンだ」
「お兄さんじゃないならオジサンでしょ」
「俺は客だろ」
「おどきくださいオキャクサマ」
「待てって。俺の言ったこと分かったのか? 気をつけろよ」
「はいはい」
グリードの言葉を適当に受け流して、ぐいぐいと店の外に押し出した。
認められない。まだ、確たる証拠はない。
いけ好かないこの男の正体も、その末路も、きっとただの夢。
そうであってくれなければ、わたしは……。
2017.9.20
2020.02.19 加筆修正