──なんてね。
§
真っ白な日差しが照りつけるダブリス商店街。濃く落ちる夏の影に隠れるようにして、数人の男らはとある精肉店を睨みつけた。
「ここか? 例の店って」
「ああ、間違いねえ。確かな筋に聞いた話だ」
神妙な顔つきで男の一人が頷く。
「しかしなあ、見たところ普通の肉屋だが……本当にこんなところにいるのか?」
「入れば分かるさ。表に出てるといいんだがな……噂の、絶世の看板娘……!」
ひそひそと話し合う男たちの耳に、「ありがとうございました!」と透明なソプラノが届いた。笛の音のようによく通る、澄んだ美しい声だ。
「ほら! やっぱり間違いねえって! 聞いた話じゃもうすっげえ美少女だとよ! 天使みたいだって皆口そろえて言ってんだ!」
「お、おお……あんな綺麗な声、今まで聞いたことねえよ」
「な、な! ほら行こうぜ!」
期待に逸る胸を抑えて男たちは慎重に店のドアを開けた。
チリンチリン。涼やかなベルが鳴ると、パタパタと軽やかな音が奥から近づいてくる。
「いらっしゃいませ!」
輝くような笑顔だった。
噂とは広まるほど尾ひれが大きくなるのが世の常であり、男たちはこれもどうせその一つだろうと鼻で笑って、まあ話の種にでもと立ち寄っただけであったが……。
透き通る雪白の肌。艶やかな絹の黒髪。瑞々しく色づく唇。くっきりとした華やかな目鼻立ちに、均整のとれた華奢な体つき。
まさに絶世という呼び名がふさわしい、非の打ち所が一つとしてない美貌である。──しかし、
「なにをお求めですか?」
「え、あ、え……そ、それは……?」
少女の右手には、幻想を打ち砕くには十分すぎる異物、すなわち赤く濡れた大きな包丁があった。
「ああっ、やだごめんなさい。豚のお腹を
慌てたようにペーパーで血を拭い、少女は申し訳なさそうに眉を下げた。
くらり。大きな飴色の瞳に射抜かれた心を、しかし少女の手元のそれが現実に引き戻す。
男たちは噂を馬鹿にしながらも、知り合いの旅好きが口をそろえて讃える美少女に幻想を抱きまくり、それだけを動機にここへやって来た。”話の種に”なんて嘘であり見栄だ。内心では全員が旅先の美少女との邂逅に期待していた。
よって他の情報──ここが何屋なのか──などはとっくに頭から飛んでいたわけで。
「……し、失礼しましたーっ!!」
「え、ちょっと……!」
少女の制止も聞かず、男たちは我先にと脱兎のごとく店を飛び出して、とにかく急いで店から離れたのだった。
§
呆気にとられてそれを見送った店番の少女──トウコは、あんまりな反応にため息をついた。
「もー、肉屋に来たなら肉を買ってよね」
大きな肉切り包丁を右手にぶら下げて、トウコは再び店の奥へ戻った。今日の店番は自分ひとりだけ。はやく捌いてしまわないと夕方の買い物ラッシュに間に合わないのだ。先ほどの出来事は速やかに忘れることにした。
どうせ彼らは例の観光客だ。はなから客になる気はなかっただろう。
一体どこで噂になったのか、最近このダブリスでは奇妙な観光名所ができた。
それがトウコの自宅兼職場であるここ、カーティス精肉店である。国内でも随一の観光名所であるカウロイ湖と同じ街とはいえ、そこから遠く離れた地元民ばかりの商店街。にも関わらず、絶世の看板娘がいるなんて浮ついた噂を頼りに、いつの間にかああした旅行客が頻繁に立ち寄るようになってしまったのだ。
なんであれ客なら歓迎するが、噂の真偽を確かめるためだけの冷やかし連中が増えただけというのが現状で、店としてははなはだ迷惑な事態といえた。
「お、俺やっぱり行ってくる!」
「マジかよ!? でも話と違うぜ? 清楚で優しい天使がいるって聞いてきたのに、あんなバカデカい包丁持った血まみれの天使がいるかよ! 絶対ヤバい奴だって!」
「いやよく考えたらここ肉屋だし、きっと魚を三枚におろせるタイプの天使なんだよ!」
「絶対魚用じゃねーだろあれ!! 無理俺血とかマジ無理怖い……血が平気な女も無理……」
「でもあんだけ綺麗なんだぜ、むしろ切られたい!」
迷惑客再来の気配にトウコは顔をしかめた。
無駄な勇気も妥協も示さなくていいものを、男の一人が果敢にも戻って来た。チリンと来客を告げるベルが鳴る。
「あ、あの! よかったらお名前を……!」
「はーいこれが豚肩ロース、こっちが牛ヒレ、これは牛豚合びきでこっちは鶏むねで……」
「あ、いや、そうじゃなくて、あなたの……」
「これですか? これは今から捌く豚のもも肉です。脂が少なくてさっぱりしてますよ。買ってくださるなら大急ぎで捌きます。ちなみに肉屋に魚は置いてません」
トウコは自身の胴体よりいくらか太いそれを持ち上げ、すぱっと手で切る仕草をしてみせた。
まるで相手にされない上に、やはりまったく天使ではないと悟ったのか、男はすごすごと肩を落として帰っていった。
ようやく静かになった店内でトウコは大きなため息をつく。
「はー、やっと出てった……」
客でさえないなら蹴り出してやるのに。
実際のところ客ではないのだが、そう繕っているうちは対応せざるを得ない。付き合う身にもなってほしいものだ。
──チリン。
厨房へ戻ろうとしたトウコの耳に、再び来客の報せが届いた。
今度こそ客であってくれと疲れの滲んだ顔で振り返る。
「こりゃまた、すげえ別嬪がいたもんだなあ」
──またか。
二重の意味でそう思った。
長身の黒衣の男は店に入るなり、目深にかぶったフードを脱いでずいとトウコに顔を寄せた。
真っ黒なサングラス越しにジっと見つめられて、トウコは内心ため息をつきながらも、にっこりと営業スマイルを浮かべた。
「……アリガトーゴザイマス〜。何をお求めですか?」
「あー、別に買い物に来たわけじゃねえが……まあいいか。これでテキトーに包んでくれ。上等のやつがいい」
そう言って雑に置かれたのは二枚の紙幣だ。
トウコはふむとすこし考えて、一番良い肉をショウケースから取り出して包丁を入れた。贅沢な厚みに切り分けて丁寧に包む。誰であれ買い物をするなら客だ。
トウコが慣れた手つきで肉を切ったり量ったりと忙しなくしている間、男はだらしなくカウンターに肘をついて、いやに馴れ馴れしい態度で声をかけてきた。
「さっきみたいな連中、いつも来るのか?」
「ええまあ」
「そりゃ相手すんのも大変だな」
「商売ですから」
「追い返しちまってよかったのか?」
「買う気がないならお客じゃないんで」
「がっはっは! そりゃそうだ!」
こういうのもよく来るタイプだ。
自分は違うという顔で他の人たちを一括りにするがやっている事は変わらない。じろじろと送られる視線は不躾そのもので、居心地悪いったらなかった。
「はい、お待ちどうさま」
さっさとお帰り願おう。トウコは男を出口に誘導しながら、丁寧に包装した袋を渡した。
「ありがとよ。ここの肉は美味いらしいな? 美味いもんは好きだぜ」
「それはどうも。是非ご贔屓にしてください」
「それと同じくらい美味い酒も好きでな、けっこう良いやつ揃えてんだ。奢ってやるからウチに来ねえか? これ焼くから一緒に食おうぜ」
「は、いやせっかくですが未成年なので……」
「遠慮すんなって! おまえ、俺の女になれよ」
「……はい?」
あまりに軽い調子で言われて理解が遅れた。
眉をひそめるトウコの手を許可なく握り、男はなおも続ける。
「ちっとばかし若すぎる気もするが、まあそういうのも悪かねえ」
「は?」
「好みで言ったらもっと色のある熟れた女の方が好きなんだが……そのテのタイプはもう何人も囲ったし、こんだけ綺麗なら多少乳臭くても気にならねえってもんだしな!」
「は?」
「趣味とは違うが、たまには堅気の娘といけないことするってのも楽しそうだ。その年頃なら大人の階段の上り方に興味があるだろ?」
「はあ?」
これが口説き文句のつもりならあまりに酷いセンスだ。
次第に低くなっていくトウコの声に気付いているのかいないのか、男はさらに続けた。
「俺は強欲でな、欲しい物は手に入れる主義なんだ。もちろん見返りは保証してやるからよ、俺の物になれ。な! えーと……名前なんだっけ?」
最後の一言がトドメであった。
もちろん、トウコの理性への。
「……馬鹿にしてんのか、このクソ野郎!!」
男の体が青空に打ち上がり、店先に塩がまかれ、店のドアが閉められたのはほんの二秒の間の出来事だった。
「トウコ、どうかしたのかい?」
「なんでもなーい。ちょっと変質者が来ただけ〜」
「そう……」
咳き込みながら顔を出した母を支えて部屋に送ったトウコは、今の出来事は可及的速やかに忘れようと心に決めた。
そして夕食には好物を一品足して、ゆっくりとお風呂につかり、趣味を楽しんだ後いつもより早く寝るのだ。嫌なことはそうやって忘れるに限る。
§
一方、トウコに嫌なこと認定された男はというと──
「マジかよおい……」
鮮やかすぎる一連の流れがあまりに予想外で、地べたにひっくり返ったまま呆然とつぶやいた。
ひゅんと風を切る音が鳴り、顔面に冷たいビニール袋が落ちてくる。先ほど購入したばかりの肉だ。
偶然なのか配慮されたのか、幸いにも怪我はない。が、当然ながら問題はそこではなかった。
のそりと起き上がり、閉じられた精肉店のドアを見る。
「……口説いた女に投げ飛ばされたなんて、冗談でも言えねえぞ……」
土で汚れた服の言い訳を考えながら、男はしぶしぶと帰路についた。
これはとある強欲な男と無欲な錬金術師の、どこまでも最低な出会いの話である。
2017.09.03
2020.04.07 加筆修正