夜に焦がれて、朝
幼馴染、近所のお姉さん、学校の先生――男の子のよくある初恋といったら、およそそのあたりだそうだ。ボクもまあ、御多分にもれず。
「姉さん」
「なあに」
「あの子たち、いいの?」
ちら、と肩越しに振り返ると、ずっとこちらを見ていた視線がぱっと物陰に隠れた。
姉さんは床にチョークをこすりつける手を止めず、「いーの」とぶっきらぼうに返す。師匠のそれとは少し色合いの違う黒髪からのぞく表情はどこか不満げで、わざと顔を上げないんだとわかった。
仲悪いのかなぁ。
こちらを伺う歳の近い男の子たちは混ざりたそうな、バツが悪そうな顔をしているから、もしかしたら喧嘩したのかもしれない。
「見てアル。あのね、こことここの記号でね、再構築する元素を制御するでしょ? そしたらコンクリートの中からね、キラキラしたのだけ取り出せるの」
「姉さん、キラキラしたものが好きなんだね」
「好きぃ」
二つ年上、十歳の姉弟子は興奮気味に錬成陣の説明をしている。
本当は、半分ほど描き上がった頃にはどういう錬成陣なのか分かっていたけど、教えるのが楽しいらしいから黙って聞いているボクだ。
兄さんなら多分また、描き上がる前に改良案を思いついて、姉さんの錬成陣に描き足しちゃうのだろう。
それはそれで姉さんは「すごい」「じゃあこれは?」と素直に知識の交換を楽しめるみたいだけど、その前に一瞬だけガッカリしたような、恥ずかしそうな顔を見せるとボクは気づいている。
ボクは別に、姉さんが錬金術師じゃなくても好きだけど、姉さんは錬金術ができないと姉さんになれないと思ってるみたいだった。ピナコばっちゃなんて錬金術に興味すらないけど、ボクにとっては本当のおばあちゃんみたいなものなのに。
「じゃん! 水晶のお花が出来ました!」
「かわいい!」
その感想は本音だ。丸っこい五つの花びらもくるんとカーブを描く茎もおもちゃみたいで可愛らしい。
兄さんなら……うーん、まず花じゃなくてドクロとか、もっと尖った物を作りそうだ。
つい今朝、玄関のドアを壊した罰として修理を命じられ、修理ついでにドアにドクロの彫刻を施した兄さんと比べれば、姉さんのセンスはとっても普通というか、女の子だ。
ちなみに兄さんは今、ドアをドクロにした罰で庭の掃除をしている。師匠は掃除中であっても時間の有効活用だとか言って攻撃を仕掛けてくるから、きっと今ごろヒイヒイ言っているに違いない。
おかげでボクはすごく久しぶりに、姉さんと二人きりで遊んでいる。
「じゃ、売りに行こっか」
「売るの!?」
「売るの〜お花でおやつを錬成するの〜」
「それ錬成って言うかなぁ」
「小銭を大金に変えるのも錬金術だって、近所のおじさんが言ってた〜の〜」
妙に胡散臭いことを歌うように言いながら、まくったシャツの裾に錬成した花をしまっていく。足元のコンクリートはちょっとばかり陥没してしまっているが、まあ元々廃墟だから大丈夫だろう。
このあたりはボクたち三人の遊び場で、どれだけ錬金術の材料にしても誰も文句を言わないところがお気に入りだ。
もう一つ、他に人がいないところもお気に入りなんだけど、姉さんと一緒だと何故かあとを尾けてくる子たちがいるんだよなぁ……。
「どこで売るの? 駅前とか?」
「あそこはね、花屋のデイジーちゃんと被るからダメ。お店のおしゃれな荷台いっぱいに花束を積んでくるんだよ。見た目で負けちゃうし、勝ったら怒られちゃうよ」
「ふんふん」
「それに実はね、お得意様がいるの」
「すごーい!」
ふふん、と得意げな姉さんは割れ物を持っていることを忘れていそうで危なっかしい。ボクは歩きながらこっそりと、水晶の花をちょっとずつ自分のポケットに移していった。
ついでに、姉さんに背を向けてささっと床に錬成陣を描き、後ろから追ってこようとする子たちとの間に壁を錬成した。
が、床から生えてきた壁は天井に届く前に、50センチほどの隙間を残してピタリと止まった。
「あれ、ちょっと足りない……」
「なあに?」
「姉さん、この壁って飛び越えられる?」
「んー? 助走つければギリ? ちょっと難しいかも?」
「じゃあ大丈夫だね」
姉さんでギリならボクと兄さんにはもっと難しい。他の子にはまず無理だろう。
姉さんは錬金術は普通だけど、さすが師匠の子というか、身軽さだけはピカイチなのだ。
でもちょっと抜けてるところは兄さんと一緒で、だからボクがこっそりサポートしている。
ボクってば、デキる弟だなぁ、なんて。
やっぱり、ちょっとじゃなかったかもしれない。
「いやぁ助かるよトウコちゃん! はいこれ、いつものね」
「ありがとーおじさん!」
すごーく、抜けてるのかもしれない。
両腕に派手な刺青を入れたおじさんから嬉しそうにお菓子を受け取る姉さんを遠巻きに眺めて、ボクはそう思った。
得意満面の笑みでこちらに戻ってくる姉さんは、絶対、ぼったくられていることに気づいていない。
女の子向けのアクセサリーの値段なんか知らないけど、ダブリスの民芸店のガラス細工だって安くて800センズはするのだ。いくらなんでも、姉さんの両腕いっぱいの水晶の花が、同じ量の駄菓子と交換されるのは、ちょっとレートがおかしいんじゃないかと思う。
まあ、材料は廃墟の床だから、別に損もしてないんだけどさ。
「あの人がお得意様?」
「そう。なんかね、ストラップにしてお土産屋さんで売るんだって」
「ふーん」
この辺りの通りのお店はどこもぼったくり価格だ。ぼったくりで仕入れてぼったくりで売るのかぁ、と思うとなんとも言えない気持ちになったが、あえて言うことでもないので黙っておいた。
「最近ね、すごくお腹が空く日があるんだ。食べすぎてお父さんがびっくりしてるくらい。だからお夕飯の前におやつ食べとくの」
「成長期にお菓子ばっかりはよくないよ」
「んー。でも毎日狩りに行くと、カウロイ湖の動物がいなくなっちゃうってお母さんが」
「選択肢が原始的すぎない?」
物々交換or狩猟、って現代人の思考ではないよね。
というか、自主的にあの無人島に行ってるなんて、やっぱり師匠の娘なんだなあ……。
初めて会った時は全然似てない親子だなって思ったけど、なんだかんだで色んなところが似ている。
自分なら絶対、行けと言われてももう二度と、あそこには行きたくない。
「アルから選んでいいよ!」
「くれるの?」
「うん! たくさんあるから、アルにはみっつ……ななつあげる! エドには内緒ね!」
しーっと口に指を当てて、姉さんは道の端っこにお菓子を広げた。
食べ物はいつも兄さんと取り合いばかりのボクは素直に嬉しくて、山もりのお菓子を眺めた。お菓子を囲んでしゃがみ込むボクたちを、通りかかった大人がクスクス笑っていく。
キャンディにチョコレートにクッキー、ビスケット。子供向けの鮮やかな包み紙が賑やかで、見ているだけでも楽しい。
「あ」
「それ?」
一つだけ、透明のセロハンに包まれた地味な飴を見つけて、ボクはそれを拾い上げた。
地面に置いているときは深い焦茶色だったけど、太陽に透かすと琥珀のような淡い黄金色に輝いて、キラキラしている。着色料もフレーバーも一切入っていない、ただ水と砂糖を煮詰めただけの普通の飴。
「アルってば子供舌。トウコは……んんっ! わたしはね、こっちのビターチョコ味のクッキーとか好き」
絶賛一人称修正中の姉さんは、たまにうっかりが出る。それを咳払いで誤魔化して自慢げに掲げたのは、ビターと名前に入っているだけで割と普通に甘いチョコレートクッキーだ。
ボクはなんとなく悪戯心というか、子供扱いされた意地みたいなものが湧いてきて、ニヤリと口端を吊り上げた。
「ボク、ブラックコーヒー飲めるよ」
「えっ!?」
「意外と美味しいんだ」
さらっと言ってみせると、姉さんは焦った顔で何やら考え始めた。
本当は、前にひと口飲んだだけの黒い液体の味なんて思い出すのも嫌なくらいだったけど、そんな真実は兄さんも騙せる自慢のポーカーフェイスで覆い隠す。
もう一度、手の中の飴を陽に透かしてのぞき込んだ。
影では深い森の樹木のように、陽の下では黄金のように輝く玉は、まんまるな姉さんの瞳とそっくりだ。
「アル、残り選んで! 早く選んで! 帰ってメイスンさんにコーヒーの淹れ方教えてもらうから、一緒に飲むよ!」
「エ゛ッ」
「自分で稼いだお菓子で、弟とコーヒーブレイク……よし!」
何がよし! なのか、姉さんは気合いを入れるようにガッツポーズをして、目に闘志を燃やした。
兄さんは、そのままで兄さんだ。けど姉さんはただの姉弟弟子で本当の姉弟じゃないからか、いつも背伸びして兄貴風……姉貴風? を吹かせるのに必死らしい。
錬金術の話ができる少し年上のお姉さん、ってだけでも、ボクにとっては貴重な相手だったりするんだけどなあ。
「コーヒーって錬成できるのかな……」
「普通に淹れた方が美味しいよ、たぶん」
「エドをびっくりさせたいの」
まあそれはそれで好奇心をそそられたので、師匠の家に着くまでの間、コーヒーを錬成する方法について意見を出し合った。
チラチラとこっちを見てくる町の子供たちの中には、廃墟にいた子もそうじゃない子もいたけど、ボクたちが錬金術の話をしているから混ざれないようだ。
姉さんはボクと話すのに夢中で、そんなことには気づきもしない。姉さんは、町の男の子たちとはしょっちゅう喧嘩をして、話しかけられただけで嫌そうな顔をする日もあるのに、ボクと兄さんのことは一生懸命に可愛がってくれる。
その特別扱いがこそばゆいやら、誇らしいやらで、ボクは得意げににっこり笑って姉さんと手を繋ぐのだ。
結局、「自分で出来ることに錬金術を使うんじゃない!」と師匠に怒られたので、コーヒーは普通に淹れた。
ボクはこっそり砂糖を入れたけど、姉さんは見栄を張ってブラックのまま飲んでむせていた。
それをクッキーの甘さで誤魔化して、三つほど食べた頃、罰の掃除を終えた兄さんが居間に戻ってくると、姉さんはまた年上ぶって「わたしには甘すぎるから、二人にあげるね」なんてうそぶいて残りのお菓子を置き去りにどこかへ行った。多分、厨房で水を飲んでいるのだろうけど。
姉さんのそういうところが、ボクは好きだったりする。
好きだなんて、初恋だなんて、絶対に言わない。ボクたちの姉さんでいようとしてくれる姉さんが大好きだから。
ボクもずっと、良い弟でいるんだ。
姉さん、姉さん。ボクの憧れのひと。
兄さんへの憧れとは全然ちがう気持ち。兄さんは努力家で、天才で、ボクも早く追いつきたいって思うけど、姉さんみたいになりたいとはあんまり思わない。
ただ、早く姉さんより強くなって、大きくなって、追い越して。このキラキラした気持ちごと、姉さんを守れたらなって思う。そこにいてほしい、ずっとそのままでいてほしい。ボクの描く理想の未来に、姉さんもいてくれたら最高だ。
いつも笑顔でいてくれた母さんみたいに、姉さんにもずっと笑っていてほしい。
「そうだ!」
「うおっ! どうした?」
がばりと起き上がると、枕元のライトで本を読んでいた兄さんがびくりと跳ねた。
「ねえ兄さん、母さんが帰ってきたら、姉さんをうちに呼ぼうよ」
「えー? でも師匠にバレたら怒られるぜ、きっと」
人間の錬成は禁忌だとかで大人は反対するから、母さんを作る計画は秘密にしている。師匠になんて絶対に言えない。
「もちろん母さんのことは内緒で! 一緒に錬金術の勉強をするんだって言えば大丈夫だよ」
「ならいっか。ウィンリィが喜ぶな!」
「うん!」
「部屋どうしよっか。オレたちの部屋で一緒に寝てもいいけど、姉ちゃん、散らかすと怒るしなぁ……」
「父さんの部屋を貸したら? それで、姉さん用のベッドや家具をボクたちで作ろうよ」
「いいな! デザインは任せろ!」
「えー! 兄さんのセンスじゃ姉さん絶対嫌がるよ! デザインはボクが考える!」
「なにおう!」
くすくすと笑いながら、眠くなるまでその日の計画を兄さんと話し合った。
姉さんに会ったら、母さんはなんて言うだろう?
ボクたちの姉弟子だよって、いつも遊んでくれて、お菓子を分けてくれて、本当の姉さんみたいなんだって紹介して。母さんはウィンリィのことも本当の娘みたいに可愛がっていたから、きっと姉さんのことも好きになる。すぐに仲良くなって、もしかしたら今度は姉さんがうちで暮らすことになったりして。
「楽しみだね、兄さん」
「ああ」
「計画のこと、姉さんには内緒だよ?」
「わかってる! いきなり手紙出して、驚かそうぜ」
「ボクが書くよ」
姉さん、姉さん。キラキラした、ボクの憧れのひと。
リゼンブールの広い丘を一緒に駆け回って、ブランコを思い切り押し合って、羊と転げ回る未来を想像するうちに、ボクはいつの間にか眠っていた。
§
「兄さん、こんな夜中に何してるの?」
「食いもん探してる。最近腹が減って仕方ねーんだよ。こりゃウィンリィの身長を抜く日も近いな……」
ゴソゴソと食料棚を漁っていた兄さんは、リンゴを見つけるとそのままかじりついた。
そういえば、姉さんも前に似たようなことを言ってたな。体をなくしていなければ、ボクにもそういう時期がきたんだろうか。
「成長期なんだね」
「かなぁ。成長痛とかねーけど……いや機械鎧の付け根の方が痛くてわかんないな」
兄さんは痛いと言いながらも軽く腕を回したりして、リハビリを終えたばかりとは思えないほど機械鎧に慣れた様子だったけど、やっぱり十二歳の身体に無骨な鋼の手足は不釣り合いだ。
そんな重しをぶら下げてるから、背が伸びる邪魔になってるんじゃないかなぁ、とは、思っても口には出さない。
母さんを作ろうとしたあの日以来兄さんは、マスタングさんが来るまで死人みたいに過ごしていたけど、マスタングさんが来て、リハビリを決めてからは、それまでの倍くらい食べるようになった。それからしばらく経つけど、身長はあまり変わっていない。国家試験を受けに行って、子供だからって追い返されないといいけど。
……姉さんはどうかな。今頃背が伸びて、大人っぽくなっているのかな。
ボクの知る姉さんは基本的に少食だったけど、本人が言うように、ごくまれに異常に食べる日があった。あれも成長期だったんだろうか。
シャツの裾いっぱいにお菓子を抱えた姉さんの姿を思い出すと、姉さんを見つめるボクの目線が、今よりずっとずっと低かったことも思い出してしまう。
会いたいけど、会いたくないなあ。
怖いもの知らずな人だったから、きっと姉さんはボクが大きな鎧になっても仲良くしてくれるけど、ボクだって早く姉さんより大きくなりたいって思ってたけど。
やっぱり今は、会いたくない。
「兄さん」
「ん?」
「絶対、元の体に戻ろうね」
「ああ、絶対だ」
兄さんはいつも迷わず頷いてくれる。
ボクはその力強さにちょっとだけ安心して、兄さんが寝室に戻るのを黙って見送った。
そして、しんと静まった暗い室内で、することもなく膝を抱えて座る。兄さんにはもう遅い時間だけど、ボクの夜はこれからだ。
押し潰されそうな長い夜の不安と空虚さの中で、悪い想像は何度も繰り返し襲ってくる。
それをついさっきの兄さんの言葉でかき消して、消して、消して……消しきれなくなった頃、ボクはダブリスでの日々を思い出す。
「姉さん……」
ボクの数少ない親しい人の中で、まだボクたちの罪を知らない人。
師匠のことは、思い出すとちょっと怖くなる。絶対に怒られるとか、それだけじゃなくて……師匠のところで必死に学んだ全てが今日に続いているから。空っぽの体と地続きの記憶を辿るのは、まだ辛い。
姉さんは、たまに錬金術を教えてくれたけど、光り物が好きな姉さんは鉱物関連の術ばかりで、人体錬成に繋がるような話は全然しなかった。あの頃はそれが少しだけ退屈で、今は少しありがたい。
「……今ごろ、どうしてるかなぁ」
姉さんがお土産に持たせてくれた水晶細工や、姉さんのための家具の設計図は、みんな捨ててしまった。この鎧の手で触ると、その思い出まで汚れてしまう気がして。
姉さん、姉さん。キラキラしたボクの憧れ。記憶の中で光り続ける、ボクの大事な思い出。
他の思い出は、みんな自分で汚してしまったから、姉さんにだけは、まだ会いたくない。まだ良い弟のままでいたい。
「……会いたいよ、姉さん」
ボクの滑稽な矛盾や不安を嘲笑うように、痛いほど静かな夜の闇はどこまでも続いていた。
§
「アル、起きて!」
「わっ! 姉さん!?」
ガタタタ、とけたたましく鳴る窓ガラスにビクリと身構えた直後、その向こうにひょっこり現れたのは見知った顔だった。
「こんな時間にどうしたの?」
「いやー昨日お昼寝しすぎちゃってさぁ」
嘘ばっかり、と思いながらも、ボクは「ダメじゃないか」なんて言ってカギを空けた。
姉さんは入ってきた窓を閉じて、ボクの隣に腰をおろす。
「こういう夜は、お散歩にでも行けたらいいんだけどね」
「ダメだよ。姉さん、軍に追われてるんでしょ? 見つかったら捕まっちゃうよ」
「ほんと困るよねぇ」
困るで済ませていい話ではないと思うが、姉さんは深刻さのない顔で笑って小さな包み紙を開けた。姉さんの瞳と同じ、深い焦げ茶色の飴。
「あっ! こんな夜中にお菓子!」
「いいのいいの! 太らないからいいの〜!」
「虫歯になるよ!」
「ちゃんと歯磨きしますぅ」
子供みたいなことを言って――実際、子供ではあるけど――姉さんは棒付き飴を口に含んだ。
「だってさぁ、昼間は二人ともなんか難しい話してるじゃん。たまにはこのお姉ちゃんに旅の話でも聞かせなさいよ」
「えー、聞いてもつまんないと思うよ」
「いやいや、二人の噂はダブリスまでしっかり届いてますから。面白おかしい冒険譚の三つや四つ、隠してることはお見通しですよ」
「うーん……」
いいのかなぁ。時計をちらりと見て、ボクは腕組みをした。
昨日ダブリスから逃げてきたばかりの姉さんは、きっとまだ休息が必要なはずだ。何しろ来週には砂漠を越えて隣の国へ旅をするというのだから、良い弟としては、適当に話を切り上げて寝かしつけたいところである。
「じゃあ代わりばんこに話そう。これはわたしが、ダブリスに潜伏していた麻薬のブローカーをストーカーと一緒に一網打尽にした時の話なんだけど……」
「ちょっと気になるじゃないか!」
せっかく毅然と断ろうとしていたのに、そんなふうに切り出されたら続きが気になってしまう。
というか子供の頃は気づかなかったけど、ダブリスって意外と治安が悪いんだな……。
グリードのお店だって、のどかなリゼンブールではあり得ないくらいガラが悪かった。
姉さんならああいう悪いお兄さんとは関わらないだろうからそこは安心だけど、危ないことにはしっかり巻き込まれてるみたいで心配だなぁ。
「そして不覚にもわたしは捕まってしまって……あ」
「あ、シディ!」
姉さんがカリカリと音のするドアを小さく開けると、真っ黒な猫がするりと滑り込んできた。
照明を一つもつけていない室内は真っ暗だけど、闇に慣れた目は意外とその姿をとらえる。シディは迷うことなくボクと姉さんの間にくると、姉さんの手やボクの脚や、とりあえず手近なところに頭を擦り付けた。
「そうかそうか、シディもわたしの話が聞きたかったか〜」
「猫は夜型だから起きたんじゃないかな」
「まあまあ。ここをこうして……チョチョイのチョイ、っと」
スケッチブックにサラサラと錬成陣を描いたかと思うと、姉さんはそれを自分のスカートに重ねて発動させた。
「テレレレッテレー、即席猫じゃらし〜」
「それ、スカート大丈夫?」
「後で戻せばいいのよ、戻せば」
丈が短くなったスカートも気にせず、ふりふりと猫じゃらしをシディの前で揺らす姉さんは、昔よりさらに自由な人になった気がする。
ボクは……どうだろうか。見た目はすっかり別人だけど、中身はそんなに変わっていないつもりだ。ただ一つ、大きな罪を犯した以外は。
けど、ああ、やっぱりボクも図々しくなったのかもしれない。
昔は姉さんがしたいようにお姉さんぶらせてあげているつもりだった。ボクは良い弟だから、知らないふりして姉さんの話を聞いて、甘えてあげていた。
今も知らないふりをして姉さんの話を聞いている。姉さんが本当は、ボクが眠れない体だからここにいることを、気づかないふりをしている。姉さんに甘えているんだ。
ボク、悪い弟になっちゃった。
「……姉さん」
「なあに、弟よ」
それきり黙り込んだボクに、姉さんは何も言わなかった。
今日の夜は暗く静かで、温かで、心地いい。
思い出は汚れなかった。姉さんはボクのこの姿に、ボクたちのしたことに、怒ることも泣くこともせず、ただ昔と変わらずそこにいてくれる。
それから少しして、またおしゃべりを始めた。姉さんの話を聞いて、ボクもたくさん話して、ずっとそうしていたかったのに、そんな日に限ってすぐに夜が明ける。
「続きは今夜かな」
「今日こそちゃんと寝なよ」
「まあまあ、ほら、昼寝するから」
「もう」
ふくれてみせたものの、しつこく言う気は起きなかった。「続き」があることにほっとしていたから。
それでも名残惜しくて、すぐ隣の姉さんの部屋まで送っていく。
非常階段と近くて脱出しやすいからと兄さんがとった角部屋は日当たり良好で、室内は真っ白な朝日に染まっていた。
姉さんは迷わず窓辺に寄って、窓を大きく開いた。ボクには分からないけど外の空気は冷たいらしくて、姉さんがぶるりと肩を抱く。
「んーっ、いい朝!」
「風邪引くよ」
「はいはい」
振り返った姉さんの瞳は朝日を受けて、黄金色に輝いていた。
ボクの好きな色。暗い夜でも淡い兄さんの金色とは少し違うし、姉さんは姉さんなんだから意味のないことではあるけれど。ボクたちとほんのちょっとだけ似ているその瞳が、本当の姉弟みたいでボクは嬉しい。
「アル、またね」
「……うん。またね、姉さん」
姉さん、姉さん。今もなおキラキラした、ボクの憧れのひと。
どうかずっと、そのままで。
2022.01.26