あやふやでいたい | ナノ









あやふやを望んだ。願わくば彼の築き上げたこの世界が美しいもので溢れんことを。

よくある話なのだが、季節には香りというものが存在している。花の香りはもちろん、風に連れられてやってくる世界の香りがとても清々しいものだと思えるようになったのは、シンドリアに来てからだった。決して五感が鈍っていたわけではない(むしろ暗殺なんてしていると嫌でも鋭くなってしまうものだ)のだが、つまりはそういう自然の香りなどは全く皆無だったのである。そんなものにうつつを抜かす暇なんて有りはしなかった自分が、今何よりも愛しいと思えるのは春の匂いだった。

(ああ、もうすぐ春が来るんだ)

シンドリアは未開の海に人がる離島、そのため他の国と同じような花々や植物が咲く事は極めて稀であるが、その稀がたまに訪れる。それこそ風が連れてきた種がここで芽吹き生まれることを待っている。それを見るたびに切なくも、嬉しい気持ちになる。
此処は1年中気温が高く、自分の記憶に小さく残る故郷のように白い雪が降ることはない。それでも匂いだけは寒さを纏っている。その寒さを言う香りが薄れ、今は体をすり抜けていくように冷たくも暖かいそんなものを纏っていた。
ふと白羊塔までの道を歩いていると、花びらが数枚散らばっている様子に気づきしゃがみこむ。危うく踏み潰してしまうところだったと、それらを数枚拾って顔を近づける。いい香りだ。
1分ほど甘い誘惑を引く桃の花びらを観察していると、向かい側の渡りを男女二人が歩いている。王ともう一人。若い女性だった。二人は親しげに仲睦まじく手を取り合いそのまま前へ進もうとする。その時シンドバッドは向いにいたジャーファルに気づき、彼女を止めこちらに手を振る。それについ同じ動作で返してしまいそうになり、一瞬動作を止め一礼のみをした。ちらりと王の横を見てみれば、先ほどまで幸せそうに笑っていた女性は憎しみを込めたような目でこちらを見ている。
(本当あの女は私のことがが嫌いなようだ)
されど今は王の前、シンドバッドが彼女に視線を戻せばまるで人が変わったかのように花が舞うような笑顔を返していた。思えばこのパターンはあまりなかったものだった。今までも彼のそばには数多の女性が存在したが、正直自分に向かってあのような素直な感情を出してきた者はいなかった。ほとんどの女性たちは王に好かれるために政務官に向かってもとても媚を売る。それをジャーファルは少々疎ましいと思っていたが、今回の女性は誠に正直者のようだ。嫉妬をそのままこちらに向けてくる。
そもそも嫉妬される意味がわからない。彼女は王のそばに居る親しいものならば無関係にああなのだろうか。気になってピスティに聞いてみれば案の定で、無意識にため息をついてしまった。
それでも何も言えまい。きゅっと唇をかみしめ、今度こそこちらも仕事場へ向かう。今日は朝議がないし、最低限王の執務室に向かわなくて済む。王の働きはイムチャックの女官に任せて今日は自分の作業に集中しようと心の中で一つ予定を完成させた。

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「ジャーファルさん、今夜一緒にどうですか〜!」
「・・・あのねシャルルカン、君に一度は言わないとって思ってたんだけど数えてみたら週5回のペースで君呑んでるでしょ」
「え?・・・そうですか?まぁ、気にしないでいいじゃないですか、ジャーファルさんとたまに呑みたいんですよ〜」
「ありがたいけれど今日は仕事がまだ残ってるから、マスルールでも誘っておいで。仕方ないから数時間なら許可してあげる」
「え〜・・・ジャーファルさんじゃないと俺今日はいきません」
珍しいこともあるものだと目を見開いた。よくよく考えてみれば自分を誘ってくること自体がおかしい。シャルルカンを見つめてみれば気恥ずかしそうに。ジャーファルさんもたまにはおもいきり愚痴ってくださいよと言われようやく気づいた。彼なりの慰めのようだ。先日ヤムライハが新しい魔法を習得したと言って、水を凍らせ出来た美しい花瓶をくれた。ピスティはそれに映える、とても賑やかな色をした花束を。最初は何事かと思ったが、ああ顔に出ていたのかもしれないと反省をしたと同時に彼らの好意がたまらなく嬉しく思えた。
「だってジャーファルさん、最近元気ないですよ。やっぱりあの女の事納得いかないんじゃないんですか」
「そんなまさか。私はシンが幸せになれるのならそれが幸せだよ」
「でも、いきなりですよ」


王様が結婚するだなんて。
納得のいかない顔でそう呟いたシャルルカンの頭を1回優しく撫でれば今度は寂しいと訴える子犬のような瞳でじっとしている。最近のことである。かねてよりシンドリアとの親交が深かったここよりはるか北の地域にある大きな国の皇女が18歳になった。成人とみなされた時点で早急におこなわれるのは皇女の婚約である。透き通るように白い肌と太陽に輝く色素の薄い髪。彼女を見た瞬間ジャーファルはすぐに気づいた。ああそうか、あの国は私の故郷に近い場所だったのかと。

お前のように綺麗な髪をしていたよ、彼女を初めて見たその日の夜にシンドバッドが出した素直な感想だった。その時ジャーファルはシンドバッドの寝室で金属器の手入れのみを用件としていたのだが、しばらくシンドバッドの話を聞いているうちに雰囲気が変わってしまった。まずいと思った時にはもう遅く、深く口付けをされた。ああそうか、もしかしたらあれを滞在していた彼女に見られでもしていたのか。それならば彼女が自分を憎んだように見てくるのもわかる。
皇女が滞在して数週間ほど経過したときのこと、北国の国王がシンドバッドにある話を切り出した。もとよりそれを本題としてこちらに来たのだろう。そうでなければわざわざ自分の国と反対にある場所になど足を運ばないだろう。


「申し訳ないのだけど国王、私は生涯妻という存在を娶る気はなくてね。ありがたい話だとは思うけれどそれはお断りさせてもらいたい」
「シンドバッド王、貴殿ももう30になるだろう。そのような事ばかりを言っていては寄ってくるものも寄ってこない」
「はは、まるでうちの御大老達のようなお言葉を仰る。それでもこれは決めていることなんでどうしようも」
「貴殿なら数多の女性が自ら近寄ってくるだろう?それを断るのもなにか理由があるのだろうがいい加減国王らしく一人の女性を置きなさい」
うちの皇女が実は先日成人を迎えてね、その言葉を聞いたシンドバッドもさすがに淡麗に整った眉をひくりと動かして黙ってその話を聞いた。扉のそばにいたジャーファルを一瞬、視界に入れて。
その日はなんとか冗談交じりで終わったものの、国王も皇女も簡単に引き下がるわけもなく今になっても滞在をしている。一国の王という存在がこんなに自分の民を放置して良いものなのか。それでもいずれ諦めて帰ると思っていたのだ。

しかし、とある夜いきなりジャーファルの部屋を訪れるなりシンドバッドの口から出た言葉がそれまでの出来事を反転させた。



「皇女を、   妻に ですか  ?」
「・・・あぁ」
「シン、・・・何かありましたか」
「いや 何も無いさ。ただ確かに俺はもう29歳だ。王という存在を考えれば遅いくらいだ」
「それでも貴方は今までそれを頑なに断っていたではありませんか」
私は貴方がそうしてくれることがとても嬉しいです、そうつぶやけば勢い良く肩をつかまれ、反射的に体がこわばる。ぎり、と爪が食い込むほどのそれに顔をしかめても王は何も言わない。数分そのままの体制でいるとようやく口を開いた。何故、そんな悲しい顔をしているのですか。

「貿易を切ると言われた」
「は・・・!?今更何を・・・」
「あの国は昔馴染みの親交国だ。気温の高いシンドリアでは簡単に手に入らないものは大方あそこから輸入していると言ってもおかしくはないだろう、ジャーファル」
「それはそうですけど・・・アンタまさか、それを脅しの秤にかけられたんですか!?」
それっきり黙ってしまった王を叱咤しようと思って我に返る。違う、シンは民を思って決断しているのだ。今までずっと妻を娶らないと、自分たちが促せども拒否してきた彼が自らそれを選んだ。それほどあの国はシンドリアを支えている。政務官のジャーファルだからこそ分かるもし万が一あの北国との関わりが白紙になればきっとシンドリアの国民たちはこれから裕福に過ごすことは出来ない。もしそんなことになれば、これまでシンが国王として生きてきた意味がわからなくなる。
ふと横顔を見れば、唇をかみしめて小さく震えているシンドバッドの姿を見て、いたたまれなくなったジャーファルは腕を伸ばしてその大きい体を精一杯抱きしめた。
何を言えば良い?慰めたらよいのだろうか、それでこの王は満足するのか。きっと素晴らしい女性ですよ、なんて事は口が裂けても言えない。きっとそれは今の彼にとって何にもならないだろう。

「ジャーファル」
「はい、シン」
「お前は、俺にどうして欲しい?」
「・・・は、」
「お前がやめてくれと言ってくれるなら、俺は」
「シン、何言って」

ああ、もう限界だと悟った。それ以上の言葉は帰ってこなかった。いくら心で相手を思えど、現実がそれを呆気なく貫いてゆく。きっと私が何を言っても、例え貴方を引き止めてももうどうしようもない。この王が進む道は、すべてを守るために通るべき道は一つなのだ。愛しい王、体を震わせども奇跡はやってこない。
「おうになんてならなければよかったんだ」
「 ジャーファル、」
「あんたが王になると言ったとき、馬鹿みたいだと思った。あんたは一人で生きてきたのに、それを自ら更に選ぶだなんてどうかしてる。・・・でも、ついていくと、決めた。きめ、たんです」
「ジャーファル」
「行かないで、ずっと私のそばにいて下さい、妻なんて本当は娶らないで欲しい、私を愛していると言ってくださったじゃないですか、嘘なのですか、私を可愛いと、おっしゃってくれたじゃないですか」
「ジャーファル」
「あんたなんて嫌いです、もう知りません。勝手に幸せに、しあわせ、に」
「ジャーファル!」
強く抱きしめられた身体を初めて恨んだ。初めて自分が女だったらどれほどよかったかと思った。そして、この王と出会うことがもっと違うやり方だったら、貴方を奪えたのに。そんな戯言まで考えてしまうくらいきつい抱擁だった。
どうか泣かないで、私の王様。そう言おうとした時、言葉が詰まって何も出てこなかった。涙をこぼしながら何度も謝罪の言葉を並べるそれを見て、何か冗談の一言でも言ってその場を和ませようとしたのに、それができなかった。窓の外はきれいな月夜で、自分を拾ってくれた彼を出会ったのもこんな日だった。ああ、綺麗だと思えるようになった。何もかもが綺麗だと思えるようになった。それだけでもう十分だと、思えた。
今溢れる雫も、彼に教えてもらった。そうして今、私がここにいる。それが幸せなのだ。それでいい。いつのまにか自分は欲深くなってしまっていたらしいが、もうそれも終わり。

「すまない、ジャーファル、許してくれ 頼む 許して欲しい、ジャーファル、ごめん、ごめん」
「・・・シン、私のわがままです」
今宵だけ、共に朝を迎えてください。涙でゆがんだ瞳は、それでもしっかりシンドバッドを映していた。
その夜、二人の頬は涙で濡れていた。

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「・・・どうしたんだ一体」
宴を行う部屋が未だに灯りがついている事を不思議に思い大きな扉を開ければ、そこには酒の入った瓶やグラスが無残に落ちて散らばっていた。その中に二人ほど屍のようにぐったり突っ伏している存在も見える。
「王様、すみません・・・俺が引っ張ってきたんですけどジャーファルさん本当久しぶりの酒だったせいかべろんべろんで・・・俺にはもう手ぇつけられません」
「珍しいこともあるな、ジャーファル、起きなさい」
「いやです〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜起きません起きませんったらぁ」
「起きてるだろう!ったく・・・いつにも増して悪い酔い方をしたもんだな」
「王様、ここにきてよかったんですか?あの皇女様は」
「ああ、今はぐっすり眠っているんじゃないかな。今日は朝会った以降なんだ」
「・・・そうですか」
ゆっくり休めよ、そう残しジャーファルを横抱きにして部屋を後にしようとしたシンドバッドの上衣をぐんと引っ張れば、後ろに転びそうになりつつも再びシンドバッドがシャルルカンへ視線を向けた。

「お前も悪酔いか!俺禁酒生活中なんだからな・・・くそ、飲みたくなったじゃないか」
「王様ぁ、ジャーファルさんを、もう、解放してやってくださいよぉ」
ぎょっとして床に横になったままのシャルルカンを見れば、潤んだ瞳で必死に言葉を並べていく。もういいじゃないですか、自由にしてあげてください、かわいそうなんです、溢れるそれらはシャルルカンの本心だった。幼いころからずっとそばにいた者たちが辛い思いをしている、それが辛い。昔から心優しい存在だったと懐かしい気持ちになって、ジャーファルを担いだまま、ゆっくりしゃがみシャルルカンの頭を撫でる。

「シャルルカン、すまない。わかってる。それでも」

俺はこいつを手放せないよ。
はやく部屋に戻るんだぞ、そう言い残して今度こそシンドバッドは部屋を後にした。
(辛い 辛いな どうしてこうもうまくいかないんだろう)

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花の香りがする。ズキズキと痛む頭を押さえながら起きれば、そこが自室ではないことにすぐ気づいた。隣に別の温もりを感じ恐る恐る視線をそちらにずらせば、闇に溶ける紫の長い髪が散らばっている。勢い良くそこから抜け出そうとすれば腕をつかまれそのまま再度ぬくもりの中へ閉じ込められた。
意味がわからない。昨日は確かシャルルカンと杯を交わしていたのだが、正直数時間以降の記憶が全くない。強いてあるのは、シーツに寝かされたときに額にされた優しい口付けだけだった。
「シン!離してください・・・っあなた何考えているんですか!!」
「耳元で叫ぶなジャーファル・・・鼓膜が破ける・・・」
「いいえ叫びます!!あんた馬鹿じゃないですか!いくら私が男でも婚約してる人間が他人と閨を共にして許されるわけがないでしょう!?」
「あーあージャーファル、ちょっと待て、俺の言い分を聞け。かなり大事なことだ」
「いいえいいえ!聞きませ」
「ジャーファル」
いきなり真面目な声になったそれに肩を竦め、今度こそ沈黙の時間が訪れる。深呼吸を繰り返すシンドバッドを奇妙そうな顔で見つめて数分、彼がジャーファルの両手をとり、その金色の瞳でまっすぐと射抜いてくる。なぜだろう、聞いてはいけない気がした。それでも、出会った頃から彼が全てだったジャーファルに拒否などという選択肢は頭になかった。なにより、これから告げられる言葉に、かすかな期待を抱いて。

「ジャーファル、俺は明後日、彼女を妻にする」
「・・・はい、存じております、シン」
「俺は一人の王として、一人の男として守るものが増える。・・・それでも俺はお前を手放す術を知らない」
「・・・シン?何を」
「俺はお前が愛しい。それはきっとこれからも変わらなければ、俺の一番大切なものも変わらない」
「シン、いや、やめて、んゃ」
首筋に何度も落とされるくちづけで赤い花が散らばる。抵抗をすれども止まることもなく、体をよじらせながらなんとかシンドバッドの話を聞き入れた。

「愛してるよ、俺の、俺だけのジャーファル」

だから、これからも俺の隣にいてくれるだろう?


ずるい人だ。やっぱりこちらには拒否権などないじゃないか。


開いた窓から桃の花びらが入ってくる。春の香りをまとわせたそれに左手を伸ばそうとすれば、その手首を掴まれ口元へ寄せられる。ちゅ、とまるで見えぬ束縛を施されたその薬指をみて、一筋涙をこぼした。
きっとこれからも自分はこの王しか愛せなければこの王も自分を愛して生きていくのだろう。罪だろうとももう構わない。なんでも背負ってみせるから、どうかこの人を私から奪わないで。

「シン、愛しています   ・・・シンドバッド 様」

あやふやを望んだ。願わくばこの身尽きるその日は彼の腕の中で眠りたい。
きっと幸せな夢を見られると思う。その時までどうか彼の幸せだけを願える一人でありたい。
そして私がルフになることが許されるのなら、今まで私が絶たせた命に額をこすりつけるほどの謝罪と幸福を。
その時 その時まであやふやで。

披露宴の朝、彼女より先に受けた口づけは、罪悪感よりも幸福で満たされたものだった。




-fin-




アンケートで頂いたリクエストの中に「シンへの呼び方が変わるところが好き」と書いてくださった方がいらしたのでそちらを参考にさせていただきました。
二人は結局自分たちに盲目なんです〜、だからこうなってしまうと不倫でもなんでもします。そんな二人好きです。
リクエストありがとうございました!

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