Take my hands | ナノ



若シン子ジャ(16×12)からの現シンジャ
ジャ-ファルの兄がでてきます(アラビアンナイトより)


生きていればトラウマと呼ばれるものの一つや二つあっても可笑しくはない。その事柄はまちまちにせよ肝心なのは当事者がその記憶をどれほど恐れているかということだ。
たとえば、七海の覇王シンドバッドの有名な記譚から引用するとしよう。シンドバッド王がまだ幼く、迷宮もほんの二つほどしか攻略していないような時の話。彼はその頃から女性に対しての対応が寛容かつ同年齢の少年と比べては一枚上手だった。あくる夜、宿泊できる民家を求めて歩いていたシンドバッドを快く了承してくれた少女がいた。その少女はとても清楚で、シンドバッドの心を掴んで離さない笑顔が特徴的だったのだ。積極的なシンドバッドはその街を抜ける前に少女に愛の言葉を囁くつもりで眠りについた。しかし朝目覚めた時、シンドバッドがいた場所はその家ではなく、見知らぬ森の中だった。何が問題かと言えば、彼の持っていた全財産がどこにもなかったということ。あの少女の家はとても質素、悪く言えば貧相な雰囲気だった。つまりはそういうことなのである。
彼の女性への過剰な信頼は今となってはシンドバッドの小さなトラウマである。

そんなシンドバッドの幼少期を知らない人間が冒頭の話を聞けば、きっと馬鹿な少年だと口を大きく開いて笑い、その日の酒の肴にでもしてしまう。しかし、彼に訪れた暗殺者・今の従者であるジャーファルはその話を聞いて笑いはしなかった。



「あんた、ずっと一人で生きてきたの」
「・・・なんでそう思うんだ?ジャーファル」
「あんたがいつもつけてくる香り、どれも石鹸の匂いばかりだ」
「おお、さすがだな!・・・それで?」
「石鹸の匂いは人間を安心させる作用がある。暗殺業の世界ではどのお香よりも注意して嗅ぎ分けるのが石鹸だから」
あんたは安心したいからいつもいつもそんな場所へ行くんだ、そう真面目な顔ではなされたとき、シンドバッドはこの子には隠し事なんて出来ないと把握した。
ジャーファルとて生まれた頃から暗殺者だったわけではない。存在するからにはジャーファルをこの世界に誕生させた親なるものがいるはずなのだが、シンがそれを遠慮なくジャーファルに尋ねてしまった時、ジャーファルは何食わぬ顔で答えた。親は自分がはじめて暗殺した相手だと。


さて、再度冒頭の話に戻る。
人間命ずられればそれぞれ、深き浅きはあれどトラウマ(傷)が存在する。シンで言えば過去の女性に対する過剰な信頼。アリババで言うなれば親しき友との決別・和解・別れ。それは幼い頃に起きれば起きるほど呪縛のようにその当事者を永遠に締め付ける。
モルジアナやマスルール、ジャーファルの場合どうであろう。対象の範囲が広い。名付けられた階級の名だけで周りに汚らしい瞳で見つめられ、存在していないも同然のように生きてきた彼らにとって、トラウマとは人間の存在そのものである。

「あんたはどうしていつも笑っていられるんだ」
「・・・どうしてって言われてもなぁ
楽しいから笑うんだよ、そう口を開き再び笑みを見せるシンドバッドが、ジャーファルにはわからなかった。そもそも楽しいという感情を知らない。楽しいという感情は一体どんな気持ちになるんだろう。暗殺者として生きてきたジャーファルの持ち合わせる感情の類とは、殺意しかなかったのである。
そんなジャーファルと共に過ごすようになってからシンドバッドはわかったことがいくつかある。それはジャーファルの両親の話。今まで殺してきた中で印象的だった人間の話。初めて任務に失敗した時の話。そのどれもはジャーファルの年齢当時からは聞いてはいけないような残忍かつ冷酷非情なものばかりで、4つほど早く生を受けたシンドバッドは愕然とした。

「両親が優しかったのか厳しかったのかは覚えてないけど、毎日俺の髪の毛を櫛で梳かしてくれていたのは覚えてる。この銀の髪はどこに行っても軽蔑の眼差しで見られることが多かったけど、俺の大好きな色だった。」
ジャーファルは母・父・兄がいたという。その記憶は極めて薄くしか残っていないのだが、ジャーファルにとって小さな小さな思い出だった。どこか懐かしげに話すジャーファルを見て、シンドバッドは何も言わずジャーファルの肩を引き寄せた。過去はまだ、ジャーファルを締め付ける。

ある日の朝、ジャーファルのもとへ一人の剣士がやって来たという。その剣士はジャーファルの国ではとても有名で、知らぬ者などいない存在であった。兄であるファドルとジャーファルのようなおさない少年を立派な部族にするためにと引き取った人間こそ、ジャーファルの師である。
両親の身を離れたジャーファルとファドルを待ち構えていたのは壮絶な拷問だった。引き取られた初日こそ満足のいく食事を与えられたが、翌朝からはもはやそれが食べられるものなのかわからないような物ばかり食させられた。同時に、剣士と名づけられ引き取られた二人は、金や阿片(当時は規制が緩く一般市民も回復薬や増強剤として使用していたが依存性は高かったということはシンドバッドも覚えている)にくらんでいた師に暗殺者として育てられるのである。二人の小さな暗殺者は死の間際寸前で日々を生きていた。

「朝、起きたら兄がいなかったんです。いつもは隣で寝ているのに。あわてて師の場所へ行くと、俺が寝ている間に血を吐いたそうで」
それからどうなったのだ、と聞くとジャーファルは大きく息を吐いて肩を抱き寄せるシンドバッドに擦り寄って、少し震える瞼を一度閉じた。
「散々虐げられて、散々毒を服用させられた兄はそこまで耐性が強くなかったらしくて。その日のうちに、俺が眠りについている間に血を吐いたまもなくに」

殺されました、そうつぶやいた。死んでしまったのではなく殺されたのだ、と。弱った少年などに師は用は無く、邪魔になるだけだと判断し回復の兆しがあったかもしれない兄ファドルを殺害した。
そこからジャーファルの暗殺者としての訓練は厳しさを増したという。期待できるものは同じ生活をしていて生きながらえてる自分。師は輝くような眼差しでジャーファルの成長を見つめていた。そして行年経ったとき、ジャーファルにとって最大の悲劇が訪れる事になる。

「っひ、は、あ」
「ジャーファル、落ち着け。話したくないのなら話さなくていい。そうだ、俺の千夜一夜を話そうか。お前にまだ話していない物語は沢山」
「シン、大丈夫、・・・大丈夫ですから、聞いてください」
背中をさすっていたシンドバッドに再び抱きつくような形になったジャーファルは、瞳を涙ぐませ続きを語る。涙の出し方もわからないような子だった。そのとき初めて、シンはジャーファルの感情がまだしっかり生きていることを認識した。楽しいから笑う意味がわからないと言っていた子が、今自分の前で泣いている。なんて嬉しく、なんて非常な世界だろうか。
「俺がはじめて任務を任されたとき、場所を見てぞっとした。・・・おれ、の家だったから」
暗殺者は心をもってはいけない。情などという塊は自分を死に追い詰める毒薬なのだと、ジャーファルに散々毒の飲ませ耐性を付けさせてきた師は言った。例え暗殺者としての訓練を厳しく受けてきたジャーファルとて、幼い感情は残っていた。それを師は利用したのである。
行け、と。きっと両親は、何年かぶりの息子との再会に涙を見せてくれるのだろう。
「なんていえばいいんだ、兄は、師に殺された、そう言えばいいのか。そう思ってたけど簡単なことで、はな、話さなきゃいいんだって 暗殺者が、こえを、こえ出すなんておかしいんだって思い出して」
「ジャーファル、わかった、わかったからもういい、無理するな」
「いやっ、・・・聞いて、シン、俺の話、ちゃんと、きいて、聞いて、ください」


その夜はひどく美しい満月だった。神秘の色に照らされた月はジャーファルの銀色の髪と鋭く磨がれた刃を残酷なほど照らした。もう戻ることは許さないと責めるような輝きに、唯一ジャーファルの瞳はまだしっかり光を保っていた。
家の扉を開くとき。呆れるほど手が冷え切っていたのを覚えている。何年かぶりに浴びる自分の過ごした空間に対して何も思わなかった自分にジャーファルは自嘲気味に笑った。毒で蝕まれたのは体だけではなかったらしい。母親が、父親が、涙を流しながら抱きしめてくれたぬくもり。ひどくあたたかくて、吐き気がした。
兄の名を呼び探している父の瞳を一瞬だけ見つめて、ジャーファルは懐の刃をすぐさま突き刺した。真っ赤な飛沫が綺麗な家の中を汚す。
悲鳴をあげる母は、自分を恐れている。それでいい。愛された記憶が残ってしまうのは、辛い。それでもジャーファルは母に刃を突き立てることができなかった。理性が、与えられていた愛がジャーファルを戸惑わせる。懐かしい優しい声で名前を呼ばれたジャーファルは、そのまま自分の居るべき場所へ戻っていった。

十の時、ジャーファルは初めてその手を真っ赤な血で染めた。

「任務失敗という形、でした。師に課せられたのは両親の暗殺で俺は父親しか殺せなかったので。」
罰を受けさせられました。そう呟くジャーファルが下履きをおもむろに脱ぎ出す。何事かと思ったシンドバッドの焦りも、その跡を見てすぐに憎悪へと一変する。
「脚が無くては暗殺などできないから、と。任務をこなさずのこのこと帰ってきたと言われて」
両脚の筋を辿るように刻まれた深い切り傷は、腰あたりから腱の付け根あたりまでしっかり付けられていた。それを縫ったように痣が残っている。下履きを戻しジャーファルは続ける。
「そういう処理もさせられました。罰といってもいろいろ・・・あるから。俺が一番嫌だったのは毒より、拷問より、その行為です。なんだか笑えてきて、でも嫌だから、任務だけは失敗してはいけないと必死でした。父を殺してしばらくしたある日に、師の部下たちが俺の寝床に首を持ってきました」

母の首です、そう口にしたジャーファルの瞳からぱたりと雫が溢れた。真っ黒な瞳から溢れたそれはとまることなく、指で掬うとジャーファルはその指を握って震えながらシンの顔を見つめる。そんな生活を続けて任されたのがシンドバッドの暗殺だった。シンドバッドはその頃各国の悪党にはとても名高い人物で、迷宮攻略者の誇りといわれるほどの認知度だった。迷宮から持ち運んだ宝を狙うものもいれば、その強者を殺せば与えられるであろう最強という称号を狙うもの、様々だった。ジャーファルの師は前者である。
「思いもしなかった。シーツの上で眠りにつく日が再び来るなんて、誰かを素手で叩いて怒ったり、パンや果実を食べられたり、この刃に血がつかない日が来るなんて。どれもこれもあんたの、あんたのせいだ」
「・・・そうだな、俺のせいだ。だからジャーファル」
話してくれてありがとう、責任は最後までしっかりとるさ。銀の髪をさらりと撫でれば、ようやくジャーファルは真っ黒な瞳を閉じて笑った。体は震えているのに、泣きながらこちらを見て笑っている。なんと幼いのだろうと感慨深くなったと同時に、シンは自分の命よりも守るべき存在として、初めてジャーファルを置いた。



「妹がいてな」

「・・・はい?」

書類に目を通していたジャーファルの耳に突拍子もない単語が入ってきて、しばし唖然とする。仕事の最中に王が口にすることは大体決まっていて、酒・休憩・街に出かけてくるの3つだ。それがいきなり妹と言われれば、誰でも続きが気になるだろう。どうしたんですかいきなりと聞けばシンはジャーファルを呼び寄せて膝の上に乗るように命じる。仕事中なんですけどと断ろうにもシンの瞳がひどく落ち着かない。それをみてジャーファルはかぶっていたクーフィーヤを外しおとなしく膝に乗る。
透き通るほど美しい銀の髪を撫でながらシンが語り始めた。アッバーサというらしい。とても綺麗な少女で、シンにとって大事な家族の一人だったという。家元を離れたシンにはっきりした事は分かりかねるが、きっと今も王宮で幸せに暮らしているんだろう。そう話した。
「妹はどうも質素でなぁ。最後に臣下に久しぶりに再会して様子を聞いたときも、いまだに嫁ぐ場所が無い、その前に一生を遂げる思いになる人物がいないと言って困っていたよ」
「ふふ、あなたと違って奥ゆかしい女性なのですね」
「ジャーファルくんひどい・・・」
「それで?シンはなんて?」
それがなーと苦虫を噛んだように今度は言葉を詰まらせる。シン、と名前を呼べばそれはもう申し訳なさそうな声で
続きを話し始めた。
「見つからないなら、俺の従者はどうだといった時があってな」
「私のことですか!?なに勝手に人を婚姻させようとしてるんだアンタは!」
「いや、ついその頃は口が滑ってだな・・・それで、臣下も快く了承してはくれたんだが」
どうやら俺の妹はしばらくは一人かもしれないなあ、そう笑ったシンの意図を知ろうと目を合わせると、ちゅ、と啄むような口づけを施されてジャーファルは赤面する。
こういうところが変わってないというのだ。こういうことをさも簡単にしてしまうところが。好きなんですよちくしょうとジャーファルは心の中で悪態をつく。
「どうしてですか?貴方はあなたの妹君に私を婿として献上するのでしょう?」
「いや、しない」
「・・・男性に二言は禁物ですよ、シン」
「だってお前は俺の伴侶だ。渡せるわけがないな」
「はんりっ・・・はぁ」
抵抗する気もなく、素直にそれを受け入れジャーファルは密かに溜息を吐いた。
「なんでいきなりそんな話をしたのです?」
「いや、昔お前が俺に話してくれたろう」
家庭のこと、そう言われてああと頷く。あの頃はきっと自分の知らぬところに辛さがあったのだろうけれど、今はさほど傷ではない。強いて言うなら足に残された罰が時々自分を暗殺者として存在していたと締め付ける程度だ。
俺はまだお前に話していないことがあったなあと思ってな、すこし申し訳なさそうにするシンの膝の上で、ジャーファルはその大きな背に腕を回す。

「まだありますか、私に話していないこと」
「・・・あるな、もう何年も一緒にいるのに、一緒にいるからこそ話す機会が無くなってきているものもある」
「そうですか、なら」

これからたくさん語ろうじゃないですか。あなたの傷、わたしの傷。ここに存在する彼らの傷も癒せるならばいい。
そして、皆が笑えるのならいい。そう、皆が笑えるようにするためにあなたはこの国を造ったのだ。
そう言えばシンドバッドはすこし落ち着いた声でお前には敵わないなぁと返してきた。
さて、やらなければいけないことはたくさんあるのだが、千夜一夜の続きでも彼に聞こうか。彼の酒癖の始まり、女癖の始まり。自分に出会うころの話。家の者の話。
その傷に深き浅きはあれど話せるようになればいいのだ。それで彼の、私の心が癒えるなら。そうジャーファルは心の中でつぶやき。自分の傷を癒した王の話に耳を傾ける。

2012.1.20

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