ねじ巻きオルゴール1
兄と暮らす小屋のほうから不穏な小宇宙を察知し、岐路中のデフテロスは、即座に徒歩から瞬間移動での帰宅に切り替えた。扉の前に立ってみれば、間違いない、中から彼らの天敵ともいえる杳馬の気配がする。
しかし、どういうことなのかアスプロスの小宇宙は穏やかだ。少なくとも戦闘中ではないらしい。
ギリ、と奥歯を噛み締め、デフテロスは小屋の中へ足を踏み入れた。
「おっかえりぃー」
癇に障る陽気さでデフテロスを出迎えたのは、兄ではなくて杳馬だった。兄はといえば、さして広くない小屋の奥から、不思議そうな顔でこちらをみている。その無防備さが胸を突く。だいたい、アスプロスが杳馬を自分達の小屋へ入れるはずが無いのだ。
杳馬を無視して、デフテロスは兄に声をかけた。いやな予感がした。
「アスプロス、これはどういうことだ」
しかし、アスプロスは困ったような顔をすると、穏やかに問い返してくる。
「お前は誰だ?」
「………」
絶句するデフテロスを尻目に、杳馬は馴れ馴れしくアスプロスに近寄り、肩に手をかけた。
「こらこら、お兄ちゃんが弟くんにそんなこと言っちゃ、駄目だって」
「おとうと?しかし彼は大人だ」
「言ったろ、お前さんは『事故で』記憶を失ってるって。彼は正真正銘、お前さんの弟デフテロスくんさ」
「…そう、なのか?」
デフテロスの方を見て首を傾げているアスプロスからは、一切の邪気が感じられない。
真っ直ぐな、それでいて少年らしい向上心を持った、かつての兄の瞳だ。
「うわっ、ちょ、何しやがる!」
杳馬が慌てた声を出したのは、足元に溶岩が渦巻き始めたからだ。
「落ち着けって!せっかくプレゼントを用意してやったのに、お兄ちゃんとの家を吹き飛ばすつもりかっての」
大げさなのは退避の動作だけで、杳馬がまったく余裕でいることはデフテロスも良く分かっている。彼はしようと思えばこの空間の時を止めることが出来るのだ。
「アスプロスに、何をした」
野獣が攻撃相手へ唸るように杳馬へ問うと、杳馬はニタリと笑った。
「そんなに牙を剥くなって!おいらも反省したわけよ」
とても言葉どおりには見えない表情でうそぶく。
(だから、闇の一滴を落とす前のオニイチャンを返してあげようと思ってねェ。心の時間を撒き戻したのさ!)
後半部分は、声に出されることなく、デフテロスのみに念話で伝えられた。
「ふざけるな」
デフテロスの攻撃的小宇宙が膨れ上がった。小屋の中はその余波で台風が入り込んだかのように荒れている。すぐに必殺のGEを放たなかったのは、杳馬を殺してしまっては、兄を元に戻す方法を聞き出せなくなってしまうからであって、遠慮などでは全く無い。
殺気立つデフテロスを止めたのは、アスプロスの一声だった。
「デフテロス」
まだ本当に自分の弟なのか判別しかねるような、遠慮がちな呼びかけだ。
それでもデフテロスを抑えるのには充分だ。
「杳馬は小屋の前で倒れていた俺を運び込んで介抱してくれたのだ。乱暴してはいけない」
それはデフテロスの内心の怒りを倍増させはしたものの、冷静さをもわずかに呼び起こした。
(この状況が杳馬の仕業であると、俺はわかっている。しかしアスプロスは違う)
突然知らぬ場所で倒れ、知らぬ者の世話になり、ただ一人の兄弟は見覚えの無い姿となっている。落ち着いているように見えるが、不安でないはずがない。
兄へと気のそれたデフテロスの隙を杳馬は見逃さなかった。
「水入らずを邪魔しちゃなんねえよなあっ。おいらはこれで!」
「貴様っ…」
次の瞬間、杳馬は消えていた。おそらく時を止めて、その間に遠くへ飛んだのだろう。
「…くそっ」
その場には歯軋りをするデフテロスと、所在無げに立ちすくむアスプロスだけが残った。
(2011/9/11)
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