アクマイザー

海龍の兄1


地上にはアテナの治める人間界があるように、海界にはポセイドンの支配する世界がある。
神の力によって、海底に次元の位相を変えて存在するその世界は、空の変わりに光差す海面が広がり、一面が青くやわらかな色に染められた美しい空間だった。
海界はある意味、地上よりも平和な世界だ。
人による戦争もなく、太古より海神に従う一族たちが穏やかに暮らしている。
時折、虹色の鱗をきらめかせた魚が空中を泳いでいく。呼吸は問題なく出来るし、海水の中にいるわけではないので、行動する上では地上となんら変わる事はない。しかし、この空間が海の生き物たちの住まう世界と重なって存在しているのも確かなようだ。

幻想的な眺めに、サガは感心しながらこの世界の天井である海空を見上げ、目の前でカノンからの書状を読む海魔女へと視線を戻した。
ここへは海将軍である弟からの依頼を預かって来ている。
聖域でカノンに命じられた任務が思いのほか手間取ってしまい、そのため海界へ戻る約束の日程が数日ずれ込むとのことで、連絡と代行を頼まれたのだ。
初めてとも言えるカノンからのまっとうな頼みに、サガは喜んで応じた。カノンの暮らした世界を見てみたくもあり、海界自体にも興味があった。
何より、『カノンの代行』という響きに釣られた。
双子座として、弟に自分の影や代行をさせることを心苦しく思う事は多々あれ、いつの間にかその関係が当たり前となってしまってきていた。しかし、その逆は今まで1度たりとも経験した事がない。
カノンの代行と言っても、実際には海将軍の代行が出来るわけも無く、単なる手伝い人として派遣されてくれという事なのだが、それでもサガは浮き立った。
聖域でのカノンは「サガの弟」として見られてしまうが、海界では自分が「カノンの兄」として扱われるに違いない。
琴線に触れたというより何かのフラグが立ったとしか思えないほど妙に楽しそうなサガを見て、カノンは気味悪そうな顔をしていたが、快諾に安心したのか紹介も兼ねる書状をサガへ押し付けると慌しく任務へ戻っていった。
海界に対し責任を感じた聖域側は、休暇中のサガが海界へ行くことを許した。あとは海界側がそれを受け入れるかどうかであった。


そんなわけで、結界に聖闘士の侵入を感じ、一番近いエリアに居たソレントが駆けつけてみれば、そこにはカノンと同じ顔の双子座が居たのだった。
以前であれば同じ小宇宙を纏い、寸分違わぬ容姿を持つサガをカノンと間違えたろう。
実際、今でも見分けはつかないのだが、現在はカノンが黄金聖闘士の兄を持つという情報は知れ渡っており、今回サガが着用しているのは、カノンがけっして普段着として身につけないであろうと思われるタイプの聖域の長衣だ。
それに、海界の海龍であればポセイドンの結界がこのように反応することはない。
一瞬、聖域と海界の定期会談日程でもずれたかと思ったのだが、それにしては服装が簡素であるし、供も居ない。聖域から戻るはずの海龍が居ないことにも疑念を覚えた海魔女に対し、サガは有無を言わせぬにこやかさで、預かってきた書状をソレントへと手渡した。
書状を受け取り目を通した彼は、呆れたように顔を上げる
「…確かに、自分の代わりに貴方を働かせるよう手紙には記してあるのですが」
実際の文面では、もっと単刀直入に『滅多にない機会だから、どんどんこき使え。奴は使える』とあったのだが、そんな事は言えるわけもない。
「はいそうですかと、私たち海将軍の一存で黄金聖闘士を使役するわけにはいきませんので…」
それを聞いても、サガは穏やかな微笑で動じない。
「職務の手伝いなどといっても、聖域の人間に見せたくないものも多いのだろう?問題の無い雑用や力仕事などがあれば申し付けて欲しい」
海界は人材数の問題もあり、復興中の今は猫の手も借りたいほどだ。
しかし、だからといって元来敵であり戦勝側である聖域の、それも地位ある黄金聖闘士を雑用に使うことがおいそれと出来ようわけもない。黄金聖闘士と違い、海将軍は常識人が多いのである。
これが逆であれば、黄金聖闘士たちは何の躊躇も無く他界の将軍たちを使いまわすだろうが。
そもそも海将軍筆頭でもあるカノンを聖域に入れ、職務につかせているらしい女神のアバウトさ自体がとんでもないことなのだ、とソレントは思う。
最初は海界側も、Wスパイになりかねないその処遇に危惧感を抱いていたのだった。
しかし、主であるポセイドンが『その心配はない』と保証したので、現在はカノンの聖域と海界への往復生活もなあなあとなっている。
ただ、忙しい海界から筆頭海将軍が聖域の仕事によって奪われるのは正直なところ痛手であり、出来ればカノンには海界に戻って海将軍の任に専任して欲しいのも事実であった。

ソレントはここで自分が悩んでいても仕方が無いと肩を落とし、その海神の意思を問うべくポセイドンに念話を向けた。普段であれば神の気まぐれにより交信のとれない場合もあるのだが、今回はまるで見ていたかのごとく、途端に二人の居る空間に神の意思が凝固してくる。
そうして直ぐに二人の目の前にジュリアンの姿を借りたポセイドンが降臨してきた。
その場に満ちる大いなる小宇宙に、流石にサガが緊張した面持ちで膝をつき、ソレントと共に神への礼を取る。海魔女が簡単ないきさつを話し、サガは『此度は聖闘士としてではなく、カノンの代行者として個人的に参りました。差支えがなければ、この身をカノンと思い、忌憚無くご使役下さい』と申し出る。
ポセイドンは面白そうに聖域からの協力希望者を見下ろし、不躾といって良いほどにサガを眺めていたが、何を思ったのか額に手を当てると笑い出した。
「まさか、このような形で海龍が我が命を果たすとはな」
怪訝そうなソレントとサガの様子に気づくと、他神よりも若干親切なポセイドンは人間にも判るように説明をしてやる。
「私はかつて、聖域の海辺に封印されていた。しかし、ただ女神に屈していたわけではない。私は聖域の内部から女神の力を削ぐべく、海の申し子を黄金の魂の片割れとして送り込んだのだ」
突然、世間話のごとく語られ始めたその内容に、サガがハっとした表情となる。
「それが我が海龍だ。海龍がその実力で正当な黄金聖闘士に選ばれ、お前から聖衣を奪いとればよし…その時は我が配下としてあれを目覚めさせ、黄金聖衣の力を使い、聖域内から女神の結界を破壊させていただろう」
ポセイドンの言葉に僅かながら眉をひそめるサガの気配を、隣のソレントはひやりと感じていた。
「また聖衣がお前を選んでも、お前と魂の繋がる海龍が双子座を誘惑し、女神への叛意を唆すなり海界側に引き込んでくれるなりしてくれればと計算していたのだが…逆に女神とお前が海龍を取り込んでしまった」
取り込まれたと言いつつも、ポセイドンの声にそれほど悔しさは感じられない。それは自らの選んだ海将軍への信頼であり、最後には自分の下へ戻るという自信の表れでもあるのだろう。
「もっとも、あれが果たすべき聖域での内乱を、意図せずお前が果たしてくれたが」
感謝とも軽い揶揄とも取れるような神の言葉で、サガは何とも言えない表情をする。サガにとっては過去の自分が犯した罪を抉られているようなものだが、少なくとも海神に悪意はなかった。
「海龍があれほど執着する双子座の黄金聖闘士が、聖戦の終わった今になってあれの手により私の元へ送られてくるとは…運命は皮肉なものよ、そう思ったのだ」
ポセイドンの言葉にサガは納得したものの、改めて弟が異界の定めを持つものであると実感する。
弟が自分と同じ双子座聖衣の継承者であることを譲るつもりはないが、同時にカノンは海界の星の下にも産まれているのだった。
弟を当たり前のように自分の海龍と呼ぶポセイドンに対してサガは微妙な気持ちを抱きつつ、それでもカノンが自分の対として生まれてきたことに改めて感謝の気持ちを持った。
たとえそれが神の計算によるものだとしても、自分たちの絆にまで神が介入することは出来ない。サガはサガで弟と自分のつながりに対する自負と自信を持っている。
たとえ本当にカノンが海神の策略で送り込まれた魂だとしても、自分たちの互いへの想いまで作られたものではないのだから。

海神はサガの内面を見透かすかのように見下ろしている。黄金聖闘士であるサガを、どのように使役すべきか考えているようでもあった。神の小宇宙がザラリと精神を撫でるのを感じて、サガは身を固くした。ポセイドンはひととおりサガの表層意識を確認すると、小さく笑って双子座に問う。
「カノンの代わりを務めるとはまことか?」
「私に可能な範囲であれば、そのつもりにございますが…」
真面目に答えるサガに対し、海神はかがみこんでその顔を覗き込む。
「では、お前に我が伽を命ずるといったら、どうする?」
「〜カ、カノンはこちらでそのような事を!?」
驚愕のあまり冷静さを欠いた顔で、思わずサガが顔を上げる。隣でソレントも目を丸くして驚いた顔をしている。
口をぱくぱくとさせている双子座を見て、ポセイドンはおかしそうに『冗談だ』と笑った。
「さきほど、お前の能力の適正を探査させてもらったが、海龍と同じく次元を操作する力を持ち、水に対する親和性もあるようだ。海界にはまだ女神との聖戦の際に出来た結界の細かいほころびがいくつもあるゆえ、それの修繕を命じよう。それともう1つ…」
途中で少し考えるように、ポセイドンが言葉を途切れさせる。
「海龍の鱗衣の補修に、あれと同じ小宇宙を持つお前の血を貰い受けたいのだが、それは可能か」
「喜んでお受けいたします」
先ほどの動揺に僅かに顔を赤くしつつも、サガは今度は躊躇することなく応えた。
海神は満足そうにうなずくと立ち上がる。
「海魔女よ、この男への細かい指導はお前に任せる」
「はっ…」
膝をついて控えているソレントが拝命を受けるのを確認すると、ポセイドンは音も無く空間転移によってその場を去っていった。

残された二人は顔を見合わせてから立ち上がる。
「…という事のようだが、宜しく頼む」
「…まあ、ポセイドン様のご意向も受けましたので…こちらこそ宜しく」
頭を下げるサガに対し、年若い海将軍は海龍と同じ顔をした黄金聖闘士をやりにくそうな顔で見上げた。あの倣岸不遜なカノンと違い、兄の方は丁寧で物腰もやわらかいのだが、それが却ってカノンに慣れたソレントには違和感を覚えて仕方が無いのだ。
「それでは海界内をご案内いたしますので、こちらへおいで下さい」
海域の入り口で足止めをされていたサガは、ようやく内部への立ち入りを許されることになる。
ソレントの言葉に海龍の兄はうなずくと、落ち着いた足取りでその後をついていった。


(2006/10/17)


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