夜中の0時過ぎ。
ローは自室の扉を開き、何冊もの本が積まれた机へと目を運ばせ、椅子に腰掛けた。積まれた中の一冊を手に取り、先ほど読んだであろう部分を飛ばしながらページを捲っていけば、不意に違和感を感じた。
振り返ってみれば、自身のベッドで寝ていたはずの鬼哭がどこにもいない。部屋全体を見回してもみたが、その姿はどこにもなかった。
「…ったく……」
ローは嘆息しながら本を乱雑に閉じ、立ち上がった。
***
「この前の島の祭りでさぁ、女の子仮装してたじゃん?めっちゃ可愛い子いたんだよ!」
「あー!それ魔女の格好してた子だろ?分かる分かる!でも俺はその隣にいた子の方が…」
部屋でペンギンとシャチがソファーに座り、高らかと談笑をしながら酒を仰ぐ。先日立ち寄った島で入手した酒は2人の舌に心地よい味を広めさせると同時に、島の記憶を思い出させた。
飲むペースが段々と上がり、お互いの顔が緩み始めた時だった。
扉からコンコン、という音が響いた。その音はどこか控えめで、また、彼らの視線からいえば比較的低い位置から聞こえた。シャチとペンギンは互いに目を合わせた。恐らく思い当たる人物が一致していることだろう。
立ち上がって扉に赴く。
「こんな時間にどうした?きこ…」
扉を開きながらペンギンが問いかけた言葉は飲み込まれ、代わりにというように肩がビクリと揺れた。
「…えと…きこく…?」
シャチがペンギンの背後から聞き返す視線の先は自分よりもずっと低い位置にある。それが鬼哭なのは分かっているが、なぜかそこには大きな白いシーツを被った塊がいた。
『とりく。とりく』
「へ?」
小さな、そしてあどけない声で紡がれた言葉の意味に今一度疑問を抱いたが、彼らはすぐ答えを導き出すことができた。時計を確認すれば時刻は夜中の0時を過ぎ、1時になろうとしていた。
間違いない。
「…鬼哭、それだと肝心のお菓子が貰えず悪戯だけになっちゃうぞ。トリックオアトリート、だ。言ってみろ」
思わず口角を上げながら言えば、鬼哭は白いシーツを揺らしながら首を傾げた。
時計の針が表す今日の日付は10月31日。つまりはハロウィンだ。
恐らくこの幼子はそのハロウィンの行事に沿うように自分達からお菓子をもらいに来たのだ。白いシーツを被っているのも、自分なりに考えた仮装のつもりなのだろう。
可愛らしい訪問者に、彼らは口元の笑みが隠しきれなかった。
『とりく。お 、とり?』
「うーん…まあちょっと違うけど、いいだろ!」
舌足らずでちゃんと言えていない様子をシャチが笑いながらオッケーを出せば、彼は部屋の奥に引っ込み、戸棚から菓子を取ってきた。白いシーツ越しに鬼哭の手に握らせれば、鬼哭はそれを大切そうにしっかりと両手で抱きしめ、体全体を曲げてぺこりと頭を下げた。
『あり、がとー』
「どういたしまして」
白いシーツが邪魔で顔が見えなかったが、その控えめな声音からは嬉しそうな感情が伝わってきた。
そしてバサバサとシーツを宙に波立たせながら、鬼哭はたどたどしい足取りで廊下を走って行った。ちゃんと前は見えているのか、大丈夫か、という心配の念が浮かんでしまう。
「いやー…最初はなにかと思ったぜ」
「まさかなあ…」
その背中を見えなくなるまで見送った2人は、隠しきれない笑みを浮かべながら部屋の扉を閉めた。先程まで飲んでいた酔いも、今ので大分冷めてしまった。
もう一度飲み直そう。そう思って再度グラスを傾けた時、今度は何の脈絡もなしに扉が開いた。
「おい、鬼哭がどこにいるか知ってるか?あと俺のベッドのシーツがねェんだが、どこにやった?」
見やれば、そこいたのはローだった。
2人は間の抜けた声を上げた。
「あー鬼哭ならさっき…っていうかシーツは分か
ら……あ。」
「……あれ船長のだったのか」
「…なんだ?」
ローが2人の言葉に理解を得ようと問いかければ、彼らは先ほどの出来事を簡単に説明した。
説明をすればするほど、ローの眉間の皺はどんどん深くなっていく。
「ああ…なるほどな。なにやってんだあいつ…」
「きっと前に寄った島での影響を受けたんでしょうね」
昨日に寄った島はハロウィン一色であったことを思い出したローは、呆れるような顔をしてから嘆息をした。
「今探さなくても、部屋で待ってたら勝手に帰ってくるんじゃないですか?」
「…いや。無理だな」
「え?」
聞き返すように言ったつもりだったが、ローはそれに答えず、部屋から出て行こうと扉に手をかけた。
「とりあえずは分かった。悪かったな。お前らもさっさと寝ろよ」
「「アイアイキャプテン」」
いつもの掛け声を言った後、ローは部屋を出て行った。残された彼らは閉まったドアをじっと見つめる。
「…明日、船長に吸血鬼の格好させようぜ」
「うわー…ぜってー似合うと思うけど、採血させられるのはごめんだわ」
彼らが笑えば手に持つグラスの氷も笑うようにカラン、と鳴った。
***
真夜中の廊下を進んでいけば自身の足音がよく響いた。恐らくこっちであろうと予測する道を進んで行けば、目線の先に白い塊があるのが分かった。近づいて改めてよく見れば、その塊は床に寝そべったまま丸くなっている。
「鬼哭」
声をかけながらおもむろにシーツを捲れば、可愛らしい寝顔が見え、規則正しい寝息が耳元を掠めた。腕の中には大事そうに集めたであろうたくさんの菓子をぎゅっと握りしめている。
道中に力尽きて寝落ちしたらしい。
予想通りの行動にローは嘆息しながら、鬼哭を抱き上げ、同時にシーツも拾ってから自室へ向かった。
「めんどくせェこと覚えやがって…」
呆れながら部屋に戻り、自身のベッドに腰掛ける。この状態じゃもう刀に戻る気はないだろうと思いながらローは鬼哭をベッドに寝かせた。
すると、鬼哭が小さく呻きながらうっすら目を開けた。虚ろな目でこちらを見上げてくる。
「起こしたか…悪ィな。もう一度寝ちまえ」
ローは再び寝かそうと鬼哭にシーツをかける。そして机に積まれた医学書を見やり、その続きを読もうとベッドから立ち上がろうとした。
しかし、自身の指から引っ張られるような感触があった。振り向いて確認すれば、鬼哭の小さな手がローの指をぎゅっと握っている。
『とり、く…ぉ…とり…』
「…言えてねェぞ」
頭をこくこくと揺らす様子に、今にも瞼が閉じてしまいそうに見えたが、捕らえられた指を離す素振りは見せない。
『とりぃ…とりと…』
「それに俺はあいつらみたいに菓子なんて持ってねェ。離せ」
拒否をしてみたが、それでも鬼哭はローの指を離さなかった。むしろ先程よりぎゅっと握る力が強くなっている。
ローは自身の額に手を当て、参ったような顔をした。
「…本当にお前はがめつい奴だよ」
言いながらローは体を屈み、うつらうつらとする幼子の額に軽い口付けをした。静かな部屋に似つかわしくない小さなリップ音が、目立って聞こえた気がした。
「…今俺ができるもてなしはこれだけだ…分ったなら早く寝ろ」
屈んだ体の位置を元に戻し軽く頭を撫でながら言えば、鬼哭は嬉しそうな、満足そうな顔をした。
すると鬼哭は糸が切れたかのように目を閉じ、再び夢の中へと旅立った。
それを確認したローは安堵の息を漏らす。
だがその安心も束の間だった。
「…お前…」
驚いたことに、鬼哭は自身の指はまだ握ったままだった。ローはすぐに文句を言おうとしたが、幼子は夢の中に入ったために今更何を言っても聞こえるはずがない。無理やり離れるのも手だが、それで起こしてしまえばまた寝かしつけるのに苦労する。
ならば能力を使うか。
だがそこまで考えた途端、面倒だという脱力感が自身の身体を駆け巡った。
今夜中に読むはずだった医学書の山を見てからローは鬼哭を見る。その寝顔は実に呑気なもので、こんなことで悩むことに馬鹿らしさを覚えた。
共にベッドに潜り込み、肩までシーツをかけ直す。無意識なのかは分からないが、幼子の体温が自身に擦り寄るのが分かった。
「船長!トリックオアトリート!」
「…菓子なら持ってねェぞ」
「そう来ると思ってたー!てことは悪戯っスね!船長にはヴァンパイアになってもら、ぐふっ!」
黒いマントをはじめとする謎の衣装を携えてきたシャチの頭を、ローは重い拳で殴った。
『主。とりと、とりと』
「あ?」
ローの腕に抱かれている鬼哭が楽しげに言った。その腕の中には大事そうに飴やチョコレートなどが握られている。
「お。船長は菓子持ってないぞ、きこ…」
制裁を食らったシャチはすぐに復活してローと鬼哭を見やるが、目の前で起きた行動に言葉が詰まってしまった。いや、固まってしまったという表現の方が正しいだろうか。
「…どうしたシャチ」
「…とっ、」
ローがシャチの不審な様子に気がついて声をかければ、彼はわなわなと身体を震わせた。
「トッ……トリィイトォオオオォオオォオ!!」
目前で幼子の額に口付けを落とす我が船長の姿を見て、シャチは懇願するように叫んだ。
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