幼子がいた。
 まだ物心がついたばかりだろう。その小さな体躯を大きく見せるように、えんえんと泣いていた。迷子になった挙句に親を呼ぶような、そんな声だ。
 それに応えたのは、成人の男だ。幼子に駆け寄り、慈愛の目を向けながら、その頭を優しく撫でつけていた。
 それが、心地よいのだろう。幼子は涙を止め、温かそうな手を嬉しそうに享受した。
 それは街を歩けば見かけるような、なんてことない親子の風景だった。



 夢はそこで覚めた。
 いや、実際に眠っている実感はなかった。手に持つ医学書の文字の羅列に視界が疲弊し、束の間、目蓋を閉じた間の出来事だ。
 まるで白昼夢のような一瞬の渡航であったが、ここが現実だと宣言するように、ノック音と聞き慣れた声がした。

「船長…あ、すみません。おやすみ中でしたか?」
「いや…いい。着いたのか」
「ええ。そろそろ上陸です。久しぶりの陸ですよ!」

 ペンギンは笑みを深める。ローは手に持つ本を閉じ、それを机に置いた。

「甲板に全員集めろ。それぞれの役割を決める」
「アイアイキャプテン」

 部屋を出て歩み始めるローの背をペンギンは追う。その際こちらに振り返り、僅かばかり疑念の目を向けるローに、ペンギンは首を傾げた。

「どうされました?」
「ペンギン。今、なにか言ったか?」
「? いえ、なにも」
「……そうか」

 束の間の沈黙に思考を巡らせた後、済んだことにしたのか、ローは何もなかったように再び歩み始める。ペンギンは再び首を傾げたが、寝起きで寝呆けているのだろうと判断し、共に甲板へと出た。

***

 次に見たのは、小汚い幼子だった。
 先程と打って変わって、随分と痩せ細ってしまった見目は、土と血で汚れている。幼子はまたえんえんと親を呼ぶような声で泣くが、つんざくような、悲鳴と呼ぶに相応しい声音で、泣き喚いている。
 聞こえてくる支離滅裂な言葉をよく咀嚼すれば、「ととさま」と、何度も叫んでいるようだった。
 そしてやってきたのは、知らない男だった。先程の慈愛に満ちた男ではなく、無表情で冷徹な目をした者だ。
 男はうるさく泣く幼子の側に寄り、遠慮なしにその口に指を差し入れた。赤く熟した小さな舌を無理やり外界へと引っ張り出す。
 男の反対の手からぬらりと反射する小刀が見えた。恐怖に濡れる幼子の視界で、それは思い切り振り下ろされた。



「…なあ、ペンギン。なんか…聞こえね?」
「ああ…俺もそう思った」

 隣に座るシャチがぼぞりと呟き、ペンギンは僅かに首肯した。ローを挟んで反対隣に座るベポにも目配せをすると、彼も何度も頷く。気のせいではないようだ。
 やってきたオークションハウスでは多くの人で賑わい、商品の登場、競りが行われる度に会場内が沸いた。静かな時は僅かしかなく、さまざまな音が耳に入ってくる。混ざり合った音は一種の不協和音であったが、それを抜きにしてもなにかが目立って聞こえた。なにか、と言われればいまいち掴めないような音。
 会場内で演出用に変な効果音でも流しているのだろうか。それは時間を追うごとに強く聞こえてくる。
 正直、不快感がないとは言い難い。

「キャプテンは…あ。寝てる」
「えっ。この状況で…?…まあ確かに船にいた時から疲れてそうだったしなぁ。シャチ、これあとどのくらいで終わるんだ?」
「えー…確かもう終盤じゃなかったか?俺もあんまし聞いてないから分かんねェけど…まあ、終わったら宿とるか船に戻るか」

 「なんかここ気持ち悪ぃし」そう最後に占めながら、オークションのプログラム表を見てシャチが答える。
 ローはオークションで目に止まる品がなく飽きたのか、剣呑とした蜂蜜色の瞳が今は閉じられている。
 そんな中、オークションの司会者が意気揚々と声を上げた。

「さあ、お気づきの方もいらっしゃるのではないでしょうか!!お次の品は本日の目玉でございます!」

 そう告げて早々と舞台に上がったのは横に長い四角をしたシルエットで、布が被せられている。布を勢いよく取り払えば、現れたのは刀だった。
 刀掛台に置かれたそれは、一目で扱う者は限られるであろう刀身の長いもので、刃は照明に反射して美しくも不気味な印象を与えた。

「こちらの名は鬼哭と呼ばれ、とある島で呪いだと恐れられていた妖刀でございます!皆様の中にも、この妖刀の笑い声が聞こえる方も少なくないでしょう!実際、私にも聞こえております!正直身震いが止まりません!」

 参加者が息を呑む中、司会が空元気のように告げる。その謳い文句が響いたのか、感嘆の声を漏らす人々が増えていく。

「ようとう…」
「わらい…ごえ…」

 シャチとペンギンがぼぞりと呟く。その声に覇気はなく、顔色は蒼白になっていく。どうやら今まで聞こえていたものはあの刀から出ていたものらしい。
 実際に実物が出た途端、その声は強くはっきり聞こえるようになった。

「扱うも良し!骨頂品にするも良し!こんなに分かりやすい妖刀は滅多にございません!スリルを味わいたい方、ぜひ如何でしょう!?では10万ベリーから!」

 そう高らかに宣言して競りは始まった。各席から声が上がる。なかなかに白熱しそうな競り合いが起きそうだ。

「あ、キャプテン起きたの?もうすぐ終わりだよ」
「…ああ」

 蜂蜜色の瞳がその刃を写す。
 視界に広がった赤い鮮血はなかった。



「うっそでしょ…??」
「なにがおかしい」

 酒屋の席にて、顔面蒼白になって指を差してくるシャチに、ローがわからないといった風に答えた。逆にこっちが訳がわからないというのに。
 ローは本日の目玉であったあの不気味な妖刀を担いでいたのだ。

「目を話した隙にまたどっか行ったなぁ、とか思ってたら、まさかそれをシャンブルしに行ったとは…。そんな物欲しそうにしてましたっけ?」
「気が変わったんだよ。それに、そろそろ身丈にあった武器が欲しかった」
「キャプテンってばすっごい背が伸びたもんね」

 困惑の声のペンギンと対照的に、ベポは「まだ伸びるの?すげぇ」と、見当違いなことを聞いている。この熊に至ってはもはやなにも気にしていないようだ。
 元来、オークションで気に入ったものがあればローの能力で盗むのが定石であった。故に、今回は収穫なしかと思われたが、どうやら違かったらしい。
 普段ならば「あ、そうですか」で終わることも、今回ばかりは些か不安だった。

「はあ…待ってくださいよ船長…おれそーいう心霊系だめなんですって…正直今もなんか聞こえるんすよ…俺だけ…?じゃないよな…?ペンギンも聞こえるんだよな…?」
「ああ聞こえるぞ…。変な音かと思ったらどうも笑い声とみた…」
「いやあああ夢に出ちゃう!!」
「うるせェな。曰く付きなんてこれまで馬鹿みたいに見てきただろ」
「実害があるものなんて初めてですよ!…ってどこに行くんですか」
「寝る」
「ええー!もっと飲みましょうよー!」

 よよよと泣き始めるシャチの膝を蹴って、ローはがたりと席を立った。
 酒屋の天井を指でさす。この酒屋は二階が宿となっているため、そこで寝るつもりなのだろう。
 シャチの追いすがる声を無視してローは足早とその場を後にした。

「ちぇ…振られちまったぜ」
「キャプテン、今日眠そうだったもんな」
「年齢で言えばまだまだ成長期だからなあ。また身長伸びるかも。…感慨深いな」
「じゃあまたあの人間に起こる成長痛?ってやつ見れるの?あのキャプテンが呻いてたやつ!」
「かもしれない。あれマジ痛いからなぁ」
「感慨深いなぁ…。はっ…!これが……親心」
「では我らが船長の成長を祝して…」

 酒屋に似つかわしくない慈愛の心を向けながら、彼らは再び乾杯の音頭をとった。
 もちろん、本人に聞かれたら鉄拳制裁待ったなしである。

***

 血と汗と土と、たくさんの汚れを纏いながら、幼子は身の丈よりも何倍も大きな刀を携える。周辺には血溜まりの中倒れている者もいれば、幼子に果敢に挑む者、恐怖を滲ませる者とさまざまだ。
 口々に罵詈雑言を吐き捨てながら小さな体躯目掛けて武器を振り上げるが、幼子はそれを意にかえさず、鮮血と共に絶命の宣告をもたらした。
 そこには、かつて親を呼ぶように泣く幼子の姿はない。代わりに、獣のような意味を成さない唸り声と、忙しなく何かを探すように動く視線が目立った。
 その異様な様に人間は「化け物」と叫んだ。
 喧騒の中、誰かが銃を構えた。腕に自信があるものだったのか、満身創痍でもあった幼子の体躯を見事に撃ち抜いた。
 人々が歓喜の中、ここぞとばかりに幼子に追従を仕掛ける。
 ついにはその場に崩れた幼子を見て、人々は歓喜を上げ、用が済んだのかその場を後にした。
 もはや虫の息の中である幼子は、最後の力を振り絞って声を上げた。大きいとは言えない声。なんて言っているのか分からない声。死ぬその瞬間まで、届かせようとするが、逆らうように目蓋が落ちてゆく。
 僅かな光しか入らぬ視界で、ふと頬が濡れた。雨粒だろうか。不思議なものだ。この雨粒、なぜだかほんのり温かい。

「嗚呼、ようやく見つけた。私の愛し子」



 至近距離で耳をつんざくような音を聞き、ローは瞬時に目蓋を開いた。自分は目覚めた。意識もはっきりしている。それだというのに、その視界は暗い。否、目の前に黒々とした靄がいた。
 靄に瞳は見当たらないが、睨まれているのがひしひしと伝わる。少なくとも、これには意思はあるようだ。
 殺気と共に空を切るような音が聞こえ、ローはその場を飛び退く。狭い部屋のせいか、少ない家具がひどい物音をたてて崩れた。

「テメェ…!」

 寝起きの苛立ちも相まって、ローは怒りの眼光を向ける。自身も戦闘態勢に入ったと同時に、それは再び襲い掛かってきた。それを僅かな動きで回避すれば、靄はローの背後にあった窓をぶち破って外界へと飛び出す。
 ガラスが割れる悲鳴が、耳をつんざいた。

「船長ッ!!!」

 激しい足音と共に部屋の扉が開く。血相を変えてやってきた三人組は我先にと扉に詰まった。

「な、なんすか今の音!?敵襲ですか!?」
「ちげェよ。あの刀そのものがどっかいった」
「ん?船長?それ刀が一人でに動いたように聞こえるんですけど…」
「ああ。そうだ」
「今って武器も動くの?おれ知らなかったー」
「「動かねェよ!!」」

 ベポの呑気な声に一喝する二人を見て、ローはその窓と呼べなくなった壁に手と足をかける。
 それにすぐさま気付いたシャチが、慌ててローの腰にしがみついた。彼の眉間に不快という名の皺が寄る。

「邪魔だ。重い。退け」
「あー!傷ついた!!でもめげないですからね俺は!船長ってば追いかける気でしょう!?なんで!?ほっときましょうよ!」
「船長、シャチの言う通りですって。確かに敵襲くらってムカつくのは俺も同感です。でも、今回は相手が人外…なんですよね?この際ほっといたほうが…」
「その通りっスよ!ずっとくすくす笑ってて薄気味悪いですし!とりあえず落ち着きま、」
「敵襲じゃねェし、あれは笑ってねェよ。しいていうなら、癇癪を起こしただけだ」
「……はい?か、かんしゃく…?」

 確かめるよう呟くシャチの問いと同時に、「かんしゃくってなに?」「泣いたり怒ったりとか…のはず」とベポの問いにペンギンが甲斐甲斐しく答える。彼らの声音に自信がないのは、この場に似つかわしくない単語だったからだ。

「あれは笑い声じゃねェ。泣き声だ。少なくとも、俺にはそう聞こえた」

 ローは聞き間違いじゃないとでも言うように、もう一度はっきり告げた。
 そして青いサークルを展開し、姿を消したのだ。

***


「嗚呼、こんなに痛々しくいただなんて」

 そう呟いた男の慈愛の瞳からは涙が流れ落ち、幼子の頬を濡らした。
 何度も何度も謝罪を口にし、その汚れた体躯を温めるように抱きしめる。

「我が子を死なせやしない。たとえそれが業の深い罪であろうと、私にはこれ以外に思いつくものを知らない」

 そして男は小さく何かを唱え、淡い光を生み出した。時間にしてどれほどのものだったかは分からない。短いような長いような時間を、男は必死に振り絞るように愛情を注いだ。
 いつしか、男の体がぐったりと幼子にもたれかかるように倒れた。同時に、淡い光も消え去った。
束の間、対照的に幼子の目蓋が開いた。身体中に多々あった裂傷は跡形もなく消えている。
 自分に覆いかぶさる男を見て、首を傾げた。何度も瞬きをしては、慈愛に満ちて眠りにつく男を見つめた。
 ようやく、幼子の瞳はひたひたと涙を溢した。



 ローはそれを傍観していた。どこかの物語を見せられているような、そんな第三者としてそれを見つめていた。
 否。自分はそこにいるわけではない。現に今、あの靄を追って地を駆け抜けている最中だ。勝手に流れ込んでくるそれは、思考の邪魔に他ならない。
 辺りを見回しては、いない様子に舌打ちをし、すぐ別の場所へと走る。こんな時こそ、親を呼ぶような声を上げてくれれば分かりやすいのに。

「ああ…くっそ。らしくねェ…」

 苛立ちが募り、思わず舌打ちが溢れる。
 これは、尚更何か言ってやらないと気が治らなかった。


***

「ここにいたか」

 もう夜明けの時刻になろうとしている。僅かに明るくなってきた道だが、目の前の生い茂る森の中は、未だ暗いままで光を通さない。
 そこに身を潜めるように、それは殺気を放ってこちらを見つめていた。
 すぐにでも襲い掛かってきそうな様子に、ローは「まあ待て」と軽く諫めた。

「お前、妖刀といえど中身はただのガキだろ。…また、なんでもいいが、俺はお前に、言いたいことがあって来ただけだ」

 それ以上は近づかず、言葉だけ歩み寄った。相手の殺気は止まないが、どうやらこちらを静観するつもりらしい。
 ローはそれを了承と受け取った。

「どこかにいると信じて探してるようだが、ただ現実から目を背けてるだけだろう。気付いてるくせに認めたくないなら、誰かからの言葉が必要か?」

 殺気が一段と強くなり、獣の唸り声が響いた。
 内容からして「うるさい」とでも言っているのだろう。言葉の理解はしているらしい。ならば問題ない。

「教えてやる。お前の親はもういない。死んだよ。とうの昔にな」

 吐き捨てるように言葉を占めた時、首元に圧迫感が襲い掛かり、背中に鈍い痛みが走る。地面に叩きつけられたその眼前は、黒い靄で覆い尽くされた。浅くなっていく呼吸で、ローは呻き声押し殺す。
 ローの耳には何かを我慢するような声が聞こえた。あの三人組は笑い声だと言っていたが、そんなはずない。目の前のこれは、何かを我慢して啜り泣く幼子の声だ。

「は…っ!自分はまだ肉親に出会ってないと?現実を受け入れろ!泣き叫んだって、もうお前の元にはそいつは来やしねぇ!」

 視界の中の靄がだんだんと違うものに見えてくる。最終的に現れたのは、見慣れた幼子の姿だ。
 涙を留めなく流し、次第に首を圧迫していた腕が震えて、どんどん力が抜けていく。
 ローの詰まっていた呼吸が、安定していく。呆然とする幼子に、ローは呆れたように短く嘆息した。

「…泣いたってもう迎えが来ない現実を受け止めろ。そんだけ愛したただ一人を、目を逸らして忘れていい存在じゃねぇだろうが」


 覇気のなくなった幼子を引き剥がすでもなく、ローは呟くように告げる。十分伝わってのだろう言葉に、幼子は初め、呻き声のようにすすり泣く声が、いつしかどこにでもいるようなえんえんと泣く声に変わった。
 ローの首元を掴んでいた手は、今や溢れた涙を拭うことに必死になっている。
 ゆっくりと上体を起こしたローは、目の前で泣く幼子を静観する。
 言いたいことは言った。もう用はない。なら、さっさと踵を返して帰ろう。
 そう思っているのに、なぜかその場からは一歩も動けなかった。もっといえば、目を逸らすことさえ叶わない。
 さてどうしたものか、と思考するうちに、すんすんと啜り泣く声がした。泣き疲れて叫ぶことができなくなったらしい。
 殺意の気は、もうどこにもなかった。

「…お前」
『ヴ、あ』
「舌がねぇのか」

 ふと目につき、幼子の口端に指を引っ掛け口内を覗けば、あるべきものがない。そういえばこの理由になる出来事を見たな、と思い出す。
 直感的に頭に浮かんだものを捨てては拾い、しばし悩むこと数十秒。
 自分でもどうしてここまでしようとしているのかが分からない。分からないが、この際もうどうでも良くなった。
 ローは仕方がないとでもいうように、大きく嘆息を零した。

***

「放浪癖も大概にしてくださいねっ!?」

 と、船に戻り彼らから小言を貰ってから早くも数日が経った。ログも溜まり、今日中には次に向けて出港できるといった状況だ。
 ローは特に意味のない散歩に出ていた。街中にでも行くかと思われたそれは、クルー達からの「放浪するなら俺も行く!」という言葉でややこしくなり、早々に能力で逃げるように離脱した。今頃クルー達が騒ぎ立てている頃だと思う。別段、気にしないが。
 だが見つかるのは厄介だと思い、海岸沿いを歩くことにした。正直、特に何も考えていないので、どこでも良かった。
 波の音と共にがさりといった音が聞こえた。
 目線を向ければ、草むらから僅かに顔を出す幼子がいた。こちらを伺うように見つめている。
 驚くことはない。あれから数日、この幼子が自分達を観察していることには気づいていた。クルー達には何も言ってないが。

「…言っておくが、俺はお前の親の代わりになんかなる気はねぇ。なんの因果かしらねぇが、今回のもただ波長があっただけだろう。お前の親は死んだそいつただ一人だ。それを忘れるな」

 じっと見つめてくる瞳を横目に淡々と告げる。実際にローはもうこの島を出る。変に勘違いされて好かれても厄介だと、そう思った。
 幼子はそれをちゃんと聞いているのか分からないが、時折下を向きながらなにか考えるような仕草をする。

『…あ』

 意を決したように小さな口が開き、治療してやった赤い舌が見えた。

『あ、う……、んー……あ』

 口は動くが如何せん、治療してまだ数日。滑舌は良くならない。
 しかし仕切りに口が動く様子に、なにかを伝えようとしているのは分かった。それを急かす気は起きず、なんなら治療経過でも見てやろうと、幼子のいる一番近い木を背もたれにその場に腰を下ろした。

『あう……あ、あ、』
「ゆっくりでいい。別に急いでねェ」
『……ん』

 こくりと浅く頷くのを見て根は素直か、と勝手に見解していると、もう一度小さな口が動き始める。
 必死に、必死になにかを伝えようとしている。恨み言だろうか。そう思われるようなことをした自信は、まあ多少はあるが反省なんてものはない。でなきゃ海賊なんてやってない。
 こんな幼子に、特になにを言われても響く気にはならない。
 憂さ晴らし程度には付き合ってやろう。
 まあ、現実は斜め上であったが。

『あう、い』
「…あ?」
『ありゅっ…っい!』
「……。」
『ありゅっ!ぅじっ!!』
「……あるじ」
『!!! ん!』

 ありゅじ。あるじ。主。
 目の前の幼子はそう言ったのだろう。おうむ返しをすれば、その通りと言わんばかりに、表情がわずかに緩慢に綻んだ。
 つまり、あれだろうか。
 
「親の代わりじゃなく、主人になってほしい…と」

 少し面食らいながら言うや否や、今度は先程よりも元気良く『ん!ん!!』と弾むような肯定的な相槌を貰った。
 ローは目を丸くしてから息を吐くようにわずかに笑った。

「…そうか。それなら、存外悪くねェ」

 どことなく安心したのは、なぜだかわからない。自分のどこかで「よかった」という声が木霊した。まるで嘘のような言葉は、自分自身の言葉ではないように思えた。
 その言葉を口に出さぬよう、誤魔化すようにその頭を乱雑に撫でた。

「…なら俺についてこい、鬼哭。後悔はさせねェよ」

***

 泣き声が聞こえる。
 もう随分と聞き慣れたものだ。

「鬼哭」

 声のありかを辿れば、姿を見つけた。一言名を呼ぶと、幼子はすぐさまこちらを振り向いた。ゆっくりと向かう自分の足と違って、走って駆け寄る様は、瞳に涙を溜めている。
 存外、分かりやすいものだ。

「泣くくらいなら動き回るな」

 悪い癖ができたなと思うと同時に、船長に似たんですよというクルー達からの小言が響き渡る。断じてそんなことはないと思うのだが。

『あるじ、主』

 しっかりとはっきりと言えるようになった三文字の音。
 かつてと比べては鈍足ながらも成長したことに、ほっと息を吐く。

「泣き虫め。…だが、探しやすくはなったな」


main1

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