茜色の空がだんだんと黒く塗られる。注がれていた太陽の光が失せ始めた時、代わりとでもいうように地上にポツポツと現れたのは、街の明かりだ。それは次第に増え、一定の明かりをその場に残したまま、残った光は徐々に一つの大きな塊となって動き出す。
 それは、自分を襲いにくる合図だ。

「はっ…はっ…!」

 喉が擦り切れるような痛さだ。走って、もうどれくらいが経っただろう。息が苦しくてしょうがない。
 だが、立ち止まったらもっと苦しいことが起きるのを、少女は身をもって知っている。

「いたぞ!!」
「待てこのっ!!」
「ッ!!」

 飛んできたナイフが真横にある木に突き刺さった。僅かに刃を掠めた肩から一滴の血が流れ、地面に落下する直前、それは大金と美しい宝石へ変わってから、地に触れる。
 後追いする集団の歓喜の声が響くが、鼓膜を揺らす草木を踏み滲む足音の群れは、未だ止まない。
 恐怖が五感を犯す中、それを振り切って少女は再び走り出した。

「わっ!」

 だが一歩踏み出した時、地面の感触がなかった。崖だ。
 暗闇の中で気づかなかったのだろう。少女はそのまま崖から身を落とした。
 何度か音を立てて転がった後、崖は意外と浅かったようで、すぐに下へとたどり着いた。
 草木がクッションとなってくれたため、体に外傷はない。自然の力に感謝しながら、体を強張らせ、身を小さくする。
 足音は、崖の上で止まった。

「追いかけねェのか」
「こんな真っ暗で崖を下れってか?ならお前がやれ。手柄は俺な」
「はあ?ふざけんな!」
「まあ待て。今夜はこれまでにしよう」

 聞こえてくる会話に、終わりの兆しが見えた。
 心の底からほっと息を吐く。
 よかった。今日はこれで終わりーー…

「これ以上傷物にしちゃ保たねェだろ?祭りは三日後なんだぜ?」
「ーーー!」

 祭り、その言葉に目を見開いた。しかしこちらが絶句する反面、崖の上からは陽気な高笑いが聞こえてくる。
 彼らは納得したのか、声は遠のいていき、次第にその喧騒と気配は完全に消えた。
 少女はそれを確認した後、傷だらけになった自分の身体を抱えるように立ち上がった。
 ふらふらとした足取りでしばらく歩き、見慣れた湖へと足を運ぶ。
 布切れ同然の服を脱ぎ、そこへ躊躇うことなく倒れるように水中へと体を落とした。
 冷たい水の中、びりびりと痛みを訴えてくる体に、少しでも癒しの施しを与える。
 雲間から抜けた月明かりに己の体を対面させてみた。
 美しい照明と共に、水面に写る自分に目をかける。

「早いなぁ。もう次がくるんだ」

 傷だらけでボロボロになった体に驚く理由はない。
 すぐに湖から上がり、服を被る。再びおぼつかない足取りで進めば、目的の大木に赴いた。するすると登り、太い枝に腰掛け、一息吐く。
 大きなこの木は、なんだか自分を守ってくれているような気がするから、ここで休むのが基本になっている。

「…私、今いくつだっけ?16…ううん。17、くらい?かな?…そっかぁ…」

 だがそれも、もうすぐ終わる。

「じゃあ私は17歳で死ぬんだね」

 少女は指折りをしながら、へらりと笑った。

「去年のお祭りは…確か刀で斬られたのが一番痛かった気がする。もし背中から斬られてたら、その時に終わってたのかな。今年は……。……なにをされても変わらないかあ」

 死ぬ、という結末だけは変わらない。
 自分の体の具合なんて、自分が一番理解しているのだ。この島の住人なんかじゃない。
 だから、次は簡単なもので終わるだろう。
 いつ死ぬか、痛みはどのくらいか、などの恐怖は、もう考えるだけ疲れてしまった。今更取り乱したりはしない。
 随分呆気ない、達成感の無い死だと思う。

「……おやすみなさい、世界。どうか私に少しでも喜びを……なんて」

 人が恐怖なのだ。
 今の少女は、それだけしか知らない。

***

「おい、起きろ。邪魔だどけ」
「………ん?」

 体を揺さぶられる感覚に、目を覚ます。太陽の眩しさに目を擦りながら上体を起こした。
 そのぼやっとした視界の中で他人の顔が視界に入れば、眠気なんてものは吹っ飛び、目を見開いた。

「ん……んん!?」

 思わず凝視してしまう。目の前には見知らぬ男がいた。
 しかも随分と距離が近いではないか。これは拘束されていても文句は言えない。日中はあまり襲われないとはいえ、安心しきっていた。迂闊だった。
 反射的に、少女はその男の上から飛び退いた。
 するとどうだろう。経験上、逃げられない距離間のはずだったが、簡単に距離が空いた。
 男の方も事態が掴めていないのか。惚けたような顔をしたまま動かない。
 自分が狙いではないのか?
 少女は首を傾げつつ、男の顔をよくよく観察する。目つきは悪く、長身な体だ。服の隙間から覗く肌には、派手な刺青が彫られている。
 こんな人は、島にいなかったような気がする。例え一度しか会ったことがなくて、こんなに目立つ容姿なら、嫌でも覚えているはずだ。

「…なんだ」

 穴が開くほどに見つめたが故、男はむず痒そうにこちらに問いかけてきた。

「…この島の…人?」
「違う。俺は海賊だ。この島の奴じゃねェ」

 伺う視線は変えず、思ったことを素直に口にしてみる。男を視線を逸らしてきたが、ちゃんと疑問に答えてくれるようだ。

「…じゃあ、あなたは私のこと、知らない?」
「知るわけねェだろ」

 初対面だ、と言ってのける男は当たり前とでもいうように嘆息した。
 少女は男の言葉を、繰り返す。

 この島の住人ではない。外の人。
 私を知らない人。
 少なくとも、今、この瞬間、彼は私を、知らない。

 少女は自分の胸が高鳴るのを感じた。

 嗚呼、驚いた。こんな奇跡が起きるなんて。
 こんなに喜びを感じたのは何時ぶりだろう!私は今どんな顔してる?

 目の前の男が驚いた顔をしているあたり、とりあえず変な顔であるに違いないと、納得するが、そんなもの気にはしない。
 少女は勢いのまま、男の手を取った。

「は?」
「行こう!こっち!」

 戸惑う男を引っ張るように、少女は走り出した。

「おい!なにしやがる!」
「遊ぼう!」
「!?」

 ごめんね、私を知らない人。
 手を振りほどかない優しさ。繋がった手に帯びてきた熱。
 これがこんなに心地よいものとは、知らなかったよ。
 だから、さいごの素敵な奇跡に、甘えるのを許してください。

 すぐ、終わるから。

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