「どうやらコラソンの奴が骨折したらしい」
ここはローが営む小さな診療所。
そこへ事前に連絡もしなければ、ノックもせず無造作に扉を開けてからの一言。
ドフラミンゴは、椅子に背を預けるローにそう告げた。
普通だったら即座に部屋から叩き出す勢いのローだが、その一言が随分と頭蓋に響いて深刻さを物語っていたものだから、今回だけ見逃してやることにした。
「ロー、お前少し様子見に行って来い」
「…行くったって、まずどこにいんだよ」
ローは諦観の面持ちで手に持つ医学書を閉じ、腰を上げる。
深く追求しないのは、コラソンという人間をよく理解している故のものだ。大方、なにかドジを踏んで盛大に骨を折ったのだろう。生まれ持った悪質な病であり、良く言えば天賦の才能である彼の起こる障害を、いちいち思考する気にはなれない。
負傷部位は聞いてはいないが、全身骨折だってありえるような人なのだ。それ故の深刻さは実際に目で見なければわからない。
拒否をして放っておくよりも、まだ傷が浅い内に処置をしておいた方がいいだろう。
まあ、それは万物に然りだが。
「山にいる」
「…山?」
どこかの街にでもいるんだろうと予測していたローは、意外な返答に言葉を大きくして聞き返した。
「ああ。ここから見て特にでかい山があるだろ?あいつはそこにいる」
「なんでんなところにいんだよ」
「フッフッフッ…なあに、俺の依頼主からの要望をあいつにも手伝わせてるだけだ」
相変わらず不気味な笑みを浮かべるドフラミンゴを見て、そらあの人も大変だ、とローは脳内でコラソンに合掌し、さっさと荷物をまとめる。
まずは包帯と添え木とーーーいや、きっと他にもやらかしているだろう。無駄だと思いそうなものを持って行っても、きっと彼にかかれば損にならないはずだ。
「ついでにあいつの生活環境も見てこい。一応家は建ててやったが、ひょっとしたらあのドジで跡形もねェってこともありえる」
「……。」
否定できないのがコラさんクオリティであるから仕方がない。
無言を肯定と突き通し、しばらく忙しくなるな、と脳内で今後の日程を捻り出しながら、不承不承という足取りでローは玄関に赴く。
「あの山、夜は狼が出るらしい。気をつけろよ」
「いらねェ気遣いだな」
言葉と真意がまったくそぐわない見送りを背後からもらい、適当に受け流す。
扉を開け、いざ一歩。
「…ところでロー。お前いつになったら俺んとこの屋敷に顔出すん、」
言葉尻を掻き消すが如く、扉を閉める。
最後まで聞き取れなかったのは、きっとこの扉が早く閉まる作りになってるからだ。
そうだ。そういうことにしておけ。
***
ドフラミンゴの意向により、ロー達がこの村に越してきてからの日はまだ浅い。
住民達はそれこそ露骨ではないにしろ、ロー達に多少の警戒の色を滲ませていた。
そんな歓迎ではあったが、ローは別段その行為に不安を抱いたことはなかった。むしろ突然現れた余所者を警戒するのは、正常な判断だと納得していたし、ロー自身もまた、そんな深い関係になろうという気はさらさらなかった。
ーーーというのが、ここに来た当初の、もっと言えばほんのわずかな時の話だ。
「あら先生。こんにちは」
「ああ」
村の通りを歩けば、住民達から「先生」という言葉から始め、気さくに声をかけてくる。
ローがそう呼ばれるようになったのは、この村に小さきながらも診療所を建ててからだ。
診察の中の交流が、功を成したのだろう。ローの内側を知った住民達の表情に、当初の警戒の色は見えない。
自分の印象がどちらに転ぼうが気にしなかったが、住民達の中のわだかまりが一つ消えたと考えれば、医者として多少嬉しいものがあるのは事実だった。
では、一体どれほど受け入れられたかと聞かれれば、特に分かりやすい例を挙げよう。
「とらおだー!」
先生、から一変した呼び名。視線の先に、猿と酷似した茶の尾を持つ小さな獣人。
気さくに声をかけてきたのは、この村で有名な三兄弟のうちの末の弟である、ルフィだ。
「とらおひとりかー??」
「そういうお前こそ兄貴共はどうした?」
走って駆け寄ってくる幼子を、ローは上から見下ろす。
見上げてくる表情は、にっこりとした満面の笑みだ。
「おう!肉かってくるっていって、どっかいった!おれは、るすばんしてろっていわれたんだ!」
「…お前留守番の意味分かってんのか?」
「よくわかんねェ!」
そう元気よく宣言する姿は愛らしいとは思うのだが、頭のネジが飛んでいると思わずにはいられない。
尚且つルフィは活発であるから、傷を作る度にローが手当てをする羽目になるので、手の掛かる子供なのは確かだった。
まあ、あの兄達の弟だというのだから、仕方がないと思う。もっとも、これは間違いなく余談だが。
そんな訳か、自分を構ってくれると判断したルフィは、気分が良くなったようだ。最近では、ローの仕事以外の時間も絡んでくるようになってしまった。
終いには謎の愛称をつけられるほどに懐かれた、というのが今の現状である。
「おれ、とらおとまたあそびたい!」
「今までも遊んでたみたいな言い方すんな。あれは全部お前の傷の診察であって、遊んでたわけじゃねェよ。それに、俺はこれから仕事だ。お前もあいつらに言われた通り、家でちゃんと番人してろ」
「えー!!!」
ルフィは口を尖らせつつ、尾を地面にべしべしと叩きながら、抗議の姿勢を表す。
終いには足にしがみついて離れないという強行策に出た獣人の子供に、懐かれるのは別だな…、とローは嘆息するのだった。
***
尾を振り乱しながら、必死に引き止める幼子の粘り強さをなんとか振り切ってから、ローは目的の山に入った。
山道に踏み入れてから、しばらくが経ったと思う。
人が通る道と問われれば、多少首を傾げるこの山道は一本道でできており、茂る草木の合間に立つ木々は照らす日射しをほどよく塞いでくれる。
その状況の中、頭蓋に大嫌いな笑い声が響き、ローはそれに舌打ちをした。
「本当にこんなところにいんのかよ…あの野郎、適当なこと言ったんじゃねェだろうな…!」
未だ目的地が見えない道中、ローは悪態を吐きながらも足を前に出す。
それを労うかのように、葉の露がローの頬を濡らした。
そういえば昨日は雨だった、と呑気なことを考えていれば、地面を踏みしめる足に若干の泥濘を感じた。
気をつけるほどでもないが滑りやすくなっている、と見解したところで、ローが目線を前に向けた時だった。
「ぎゃんっ!」
ガサッ、という茂みの音とその悲鳴が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
一本道である、云わばコースアウト上にて、影が見えた。その影は道に繰り出したかと思うと、泥濘に足を取られ、その場で盛大にこけたのだ。
今しがた、脳内を予測していた失敗例が突然現れたのを見て、ローは驚きつつ思わず足を止めた。
顔面から盛大にこけたであろう謎の人物に、多少の同情を入り混ぜた視線でローは目視する。
赤い頭巾、もとい赤いローブといった方が正確だろう。
目視できる輪郭線から、性別は女であり、もっといえばその小柄さから少女であるのが分かった。
なぜこんな場所にという疑問が浮かぶ前に、少女はむくっと顔を上げてから、ローの存在に気づいた。
深いフードのせいで表情は見えないが、視線がこちらに向いているのは確かだった。
「…泥まみれだぞ」
一言、ローはそれを跳ね返すように一蹴する。
「え?あ、ほんとだ。汚れてる!んー、でも大丈夫!私、慣れてるから!」
嬉々としたような声がローに向く。
初対面とは思えないような砕けた口調と声音は、言葉通り何も気にしていないのが見受けられた。
むしろその楽観する姿勢は、傍目から見れば泥遊びをしてる小動物のように見えたから不思議だ。
しかしそんな少女に、ローはいちいち気にしていられない。
ローが「早くどけ」と、一本道を塞ぐ形で居座る少女に告げようとした時だった。
少女の長いローブの裾から白い脚が覗く。その足首には主張するように青紫色の痣があったのだ。
「足、どうした」
「え?」
反射的に声をかけたのは、職業病だからか。
ローはきょとんとする少女の脚元に屈み、その痛々しそうな足首をまじまじと見つめる。
「こりゃ折れてやがるな…今のでなったとは思えねェ。いつからだ?」
「? えっと、昨日かな?」
少女の返答に、ローは眉間に皺が寄る。
「…まさかお前、こんな状態で何もせず出歩いてたのか?この山道を?」
「うん。別に、片足で動き回ってたから大丈夫だよ。ここ通ってたのも果物が欲しかったから、ちょっと食べに行ってただけだし…。あ!でもみんなには心配されたくないから内緒だよ!」
「その"みんな"ってのが誰だか俺には分からねェよ」
信じたくはないが、こうしてこの場所でお互いが出会っている時点で、言っていることは事実なのだろう。
自分で言った言葉に慌てる姿勢を見せる少女だったが、ローは特に気にせず、適当に話を流してから手際よく痣のある部位に処置を施す。
まさかこんなところで別の人物に使うとは思わなかった、というのがローの本音だった。
「なにしてるの?」
「応急処置だ。俺は医者だから、放っておく気にはなれねェんだよ」
「お医者さん、なの?」
「ああ。だから大人しくしてろ」
ローは少女の脚を手に取り、慣れた動きで処置を施す。
言われた通り大人しくしている少女だったが、ローの行う処置を興味津々にじっと見つめる。
それが遠慮を知らないあまりにも露骨なものだったから、ローはなんだかむず痒く感じた。
しかし自分は医者である。そんな中でも、手早く処置を終え、一息ついた。
「ほら、もういいぞ。」
「わあ…!」
ローは目線を上げ、白い肌から手を離す。代わりに入れ替わるように少女の手がその部位に触れた。
しかし、その触れ方はどこか遠慮がちだ。
「……でも、その、あのね。本当に申し訳ないんだけど、私今なにも持ってなくて…」
先程の嬉々とした声と比べて、少女の声音がか細いものに挿げ変わった。
だがローはそれを突き放す。
「見返りを求めてやったわけじゃねェ。礼なんてされても迷惑だから何もいらねェよ」
実際に見返りなど考えていなかった。
ただの目の前で起きたことの対処を、ローが勝手に施しただけである。
「まあ強いて言うなら、しばらく大人しくしてもらえれば、それで満足だな」
ローは揶揄するように口角を上げる。
もっとも、それは本当に守ってもらいたい事柄なのだが、それをらしくないと思ってしまうローは、迂遠な言い回しで告げる。
それを聞いた少女は、一瞬きょとんとした後、鈴音が揺れるような声音で笑った。
笑われると思っていなかったローは、再び眉間に皺を寄せる。
「…貴方はとても優しい人なんだね」
「何言って…!」
吐息混じりに告げられた言葉に不服を説こうとしたが、突然腕を引かれた驚きで、それは叶わなかった。
ローは即座に抗議の声を上げようとしたが、なぜかそれは喉の奥で止まる。
花の香りと、陽の香りがローの鼻腔をくすぐった。
突然の心地よさに身が包まれ、目を瞬かせた時、頬に柔らかな手が添えられた。
「…貴方が望まないならそうする。でもせめて私なりのお礼はさせてください」
耳元から聞こえた声は、言葉の意味を噛み締める前に、波紋するように体に響いた。
その直後、生暖かい感触が頬を伝う。
それは瞬きするほどの短い時間で、気付けば再び少女はローの視界に触れた。
フードで陰りかかった奥から一瞬、愛らしいほどの笑みが垣間見えた時、ローはそれがひどくもったいないと感じ、それを取り去りたいという衝動に駆られた。
だが、そこまでの判断にまるで体が動かない。
そんな戸惑いを表すローに気付かないのか、事が済んだ様子の少女はローとの距離をあける。
ひらりと踵を返して立ち上がり、再び道を横断するように、身を茂みに落とそうとした。
「あのね。私の名前はヴィダっていうの!またどこかで会えたら嬉しいな。ーーーどうもありがとう、お医者さん」
そうして、少女はついに茂みの中に消えてしまった。
自分勝手で破天荒な姿を、呆然とした面持ちで見送ってから、ローは無意識に伸ばしかけた腕を、力なく定位置に戻す。
己の五感が研ぎ澄まされ、思考があまり追いつかない。
それが理由なのか、頬に感じたものが少女の舌なのだと理解するまで、もう数十秒の時間がかかった。
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