「あー…?」
むくり、と上体を持ち上げ、半目のままエースは辺りを見渡した。
薄暗い広々とした部屋の中は、雑魚寝するここの船員達で溢れかえっている。
大所帯である白ひげ海賊団は、普段からこのような大広とした部屋で夜を明かすのが基本だ。波のさざめきと共に聞こえる盛大ないびきに不服の色はなく、むしろ心地が良いといった眠りの深さを物語っていた。
辺りはまだ薄暗いが、若干の朝日が窓から差し込んでいる。エースの体内時計から推測するに、今回は少々起きるのが早かったかもしれない。
二度寝しようとも思ったが、腹の虫が盛大に騒ぐので、それを許してくれそうになかった。
「とりあえずなんか食うかー…」
エースは未だ夢の中にいる野郎共の体躯の障害を飛び越え、一足早くその場を後にした。
何人かの不寝番を他所にキッチンへと赴けば、やはりまだ早い時刻なのか誰もいない。コックの仕込みさえもまだ始まらない時刻なようだ。
再び腹が鳴る。
誰かしらいてくれたらなにか腹に収まるものをと頼めるのだが、人がいなければそんな期待も淡く消える。
「悪りィけど、ちょっと失礼すんぜー…」
ともなれば、つまみ食いしかなかろうて。
幼少時代からの悪知恵は今でも健在のようだ。まあ、そうでなきゃ賊なんてやっていられない。
誰もいないのを確認し、エースは食料庫へと忍んだ。
少しくらい、いや少しで収まればいいだろうが、ばれなければいいだろう。
軽い気持ちで食料庫のものを拝借しようと、顔を覗かせようとした時だった。
むしゃり。
「ん?」
予想外な音が聞こえ、エースは眉を寄せる。
それは一度きりではなく、何度も繰り返し聞こえてきた。
間違いなく、咀嚼音である。
俺よりも早く先客がいたか、と先手を打たれて少し悔しく思うが、その割になぜか人の気配は感じられない。むしろ、変な感じがする。
疑問に思いつつ顔を覗かせれば、倉庫の扉は開かれており、手前には食べかけのありとあらゆる食料が乱雑に広がっていた。
どこからどう見ても、つまみ食いをした後である。
だがそれに検討するような人物の影が、どこにも見当たらなかった。
「…どうなってんだ?」
今の今まで咀嚼音がしていたというのに。
視線を彷徨わせても、思い当たるような人物がいない。
そして視線を下げた時、散らばった食料の中で、その場に似つかわしくないものを見つけた。
「…刀?」
随分と長い刀だった。手に取り、様々な角度からそれを眺める。
なぜこんなところに刀があるのだろう。もしや今しがたここでつまみ食いをしていた者の忘れ物だろうか。
自身の武器を忘れて失踪するなんて、随分間抜けなものだと思った。
それにしても、
「なーんかどっかで見たことあるなぁこれ…」
頭の中のどこかに引っかかりが生じる。
それをどうにかしようと頭を掻いてみるが、それは無意味な行為だ。
「忘れ物すんなよな…ばれるだろうが」
「誰にばれるんだ?」
背後からの声に、エースは思わず肩を揺らす。その動揺から、手元の刀をその場に落としてしまった。
ゆっくりと声の主の方を振り返れば、そこには腕組みをして壁に寄りかかっているサッチがいた。
エースの中で危険信号が鳴る。
「さ…サッチ…随分はえーんだな…」
「まあな。朝飯の仕込みとかあるからなァ?」
「そ、そっか!大変だな…!」
「そうそう。俺は大変なんだよ。…ところでエース君はこんなところで何をしていたのかなァ〜?」
一番聞かれたくないことを突かれてエースは口ごもる。
サッチは笑顔ではあったが、その中に怒りが込められているのは否めなかった。
それもそのはず。エースの背景には開けられた食料庫とそれを食い散らかした残骸が残ったままだからだった。
状況がどうあれ、完全に冤罪である。
「ちがっ!俺じゃねェよ!!俺はたまたまこの現場を見つけただけで…!犯人の持ち物あるからそいつだって!」
濡れ衣を晴らそうと、エースは再び刀を手に取ろうとするが、
「あれ!?どこにもねェ!」
なぜかその姿はどこにもなかった。
あんな長い刀を見失うはずがない。エースは再び視線を彷徨わせようとするが、それを許してくれる時間はなかった。
「なにごちゃごちゃ言ってんだよ。お前がここにいるってことは、少なくともつまみ食いしようとしたのは確かなんだろーが?」
「ぐっ…そうだけどよ…でも俺は何も…」
「未遂だろうが同罪だぜ。エース」
「だああちくしょう!!」
腹を見透かされた正論を述べられ、言葉を詰まらせたエースは脱兎の如くその場から退散する。
逃げるが勝ち、というアレである。
「次来たらお前の夕飯抜きだからな!」
走り去るエースの背に言い聞かせ、サッチは嘆息する。
「まったく。お前も大概だぞ。次はこんなことせずちゃんとした時間にご主人様を連れてこいよ」
残骸が散らかる現場の中、サッチは目線を下げ、嗜むように笑みを浮かべた。
***
食料にありつけると思っていた展開が潰された結果、エースは竿を手に取り、その針先をぽちゃん、と海に落とした。
空腹を満たせずにサッチに追い出されたエースは、自分で食料を調達しようという考えに辿り着いたのだ。
だが、待てど待てどいまいち手応えを感じない。食の欲求が表に出すぎて魚が寄り付かないのだろうか。それはどうか許してほしいところだ。
若干の諦観の中、胡座をかいて欠伸をこぼす。
その直後、竿が激しく動いた。
「うおお!!きたぜ大物!ぜってー逃がさねェ!!!」
緩みかけた竿を強く握り返し、エースはその海底に住まう未知の食料に期待を馳せる。
そんなエースの様子に、起き出してきた船員達含め、だんだんと周りにはギャラリーが集まって来た。
たくさんの人の気配がする。別に気にするなんてことはしない。しないはずだったが、その中に違和感のある気配が現れれば話は別だ。
エースの感は突如研ぎ澄まされた。
「誰だ!?」
緊迫した声音でエースは振り返る。その原因がなんなのかを確認しようとした時、
「おいエース!!」
「あ。」
周りの呼びかけに、竿が重力とともに海面へと落ちていくのが見える。
それだけならただの笑い話だったが、自分の視界も一緒に海面に近づいていけば、話は別だ。
「ああああ!?」
ドボン、という音と共に、海は盛大な水しぶきをあげて一人の能力者を迎え入れた。
「エースが落ちたぞー!」
事の重大さの割に、別段焦ることのない船員達の掛け声が響くあたり、これは日常の一つと言える。
「…あいつはなにやってんだよい…」
一部始終を遠くから見つめていたマルコは、エースを救出しに行く船員を見ながら呆れたように呟いた。
しかし、ふと足元の存在に気づくと、その顔は若干緩む。
「…今日はご主人様と一緒じゃねェのかい?」
独り言のような言葉だったが、反応はちゃんとあった。
***
「あーくっそ…なんなんだよちくしょう…」
船上に引き上げられたエースの機嫌は良いとは言えない。
サッチから不遇な扱いを受けたのもあれば、マルコから「迷惑をかけるな」という説教の鉄槌を食らったのもそうだ。
極論、朝からまったくついていないのである。
しかもそれに追い打ちを掛けてくるのが、周りの仲間の反応だった。
人懐っこく、ここの末っ子の立場であるエースは、歩けば大体声を掛けられるのが常である。今回もそれに関しては別段変わったことはないのだが、問題はその後のことだった。
なぜか皆、エースに声をかけた直後可笑しそうに笑うのだ。
それがあまりにも多いものだから理由を聞いてみたが、皆口を揃えて「本人に聞け」と言う。
だからお前に聞いてるんじゃないか、と言えば「そうじゃねェよ」と笑われて去っていくのだ。
理解しがたい行為にエースの機嫌は次第に悪くなる。
しかも。
「……。」
やはり勘違いではない。
朝から感じる気配をずっと側で感じるのだ。
だが振り向いて探そうにも、姿は見えない。それどころか、本当にいるのさえ怪しいと感じる。
それが腹立たしく、また、謎に包まれたままでむず痒い衝動に陥った。
進む。
止まる。
振り向く。
進む。
止まる。
振り向く。
そんな繰り言のような行為は、次第に船内を全速力で駆け抜けるまでになった。
「誰だよ!さっきから気づいてんだよ!喧嘩なら買うぞ!!」
走りながら怒鳴るが、気配の原因は一向に姿を見せない。
「ちっくしょおおお!!!」
色々な感情に身をまかせながら、エースの足は自然にある方向へと進んだ。
その目的の一室が目に入れば、乱雑に扉を開けて中に転がり込む。
電気は付いているが、目的の人物は椅子に腰掛けたまま反応がない。
「ロー!!!!」
それを起こすように、エースは切羽詰まった声で呼びかける。
それに気づいてか、ローは項垂れていた頭部をぴくりと動かした。
「…あァ…?」
普段の低い声音がしゃがれているのを聞く限り、どうやら居眠りをしていたらしい。さらには低血圧なのか、思いっきり睨まれた。
普段から目つきが悪い分それは凄まじく感じたが、気圧される気はない。
その理由は、慣れているから、で大方片が付く。
「やべェんだよロー!!」
「…またくだらねェことで騒いでんなら追い出すぞテメェ…自然系がいちいち怪我で騒ぐな…」
医者にあるまじきことを言われている気がしたが、生憎今はそれどころではないので無視した。
「今回は怪我じゃねェけど、大真面目だ!!俺、なんか憑りつかれてるかもしれねェ!!」
焦りを含んだ曰く、大真面目な台詞は室内に響いた後、悲しいほどにしん…と静まりかえった。
「…なに言ってんだテメェ」
その沈黙を打ち消すようにローが眉間に皺を寄せてエースを見る。
笑われなかっただけいいとは思うが、その目は呆れを通り越してまるでなにか別のものを見ているような視線であったから、逆に悲しくなった。
「いや、なんかずっとよくわかんねー気配感じて…」
「ついに脳みそまで炭になったか…」
「なってねェよ!!それに今だってずっと、」
その気配を感じる、そう続けようとした時。
「なんだお前。そこにいたのか」
ローの間延びしたような声が遮った。
その言葉に今度はエースが呆気にとられ、ローを怪訝な顔で見る。
椅子に背をまかせるローは、エースと視線を合わせず、瞳を伏せるように床の方へと傾けていた。
エースが数秒前に自分が受けた台詞を返そうとした時だった。
『主』
小さな声がエースの小脇から聞こえたと思ったら、何かが突然、ローの身につけるコートの裾を掴んだ。
その何かのせいで、エースは出かけた言葉もなにもかもが頭から吹っ飛んだ。
代わりに、自分の脳内を漁るが、記憶の中のどんな人物とも合致しないし、見たこともない。
だが目の前にいるのは間違いなく幼子だった。
「そろそろオヤジの検診に行くぞ。遊びは終わりだ」
知らなければこの幼子は敵かと思うが、目の前の目つきの悪い男は、なんの問題もないかのようにその幼子を抱き上げては膝に乗せている。
似つかわしくない。それどころか、あの死の外科医と名高いはずのローが平然と幼子を抱き上げる様は、軽く恐怖すら覚える。
そう言われても文句は言えないだろう。だが実際の光景は、随分と自然に見えたから不思議だ。
平然と事を進めるローに対し、エースはそれに置いて行かれないための言葉を絞り出す。
そして辿りついた。
「ロー!お前ガキいたのかよ!?」
というか、むしろこれしか思い浮かばなかった。
だがどうやらその言葉は失言だったらしい。
エースの視界が一瞬歪んだと思ったら、目の前は青一色で埋め尽くされた。と同時に、背中に鈍い痛みが生じ、それに声を漏らす。
「おわっ!?なんだエースかよ!」
視界の隅、それも頭上から聞こえる声から、目の前の青は空なのだと認識する。
エースはすぐさま上体を起き上がらせ、首の関節を可能なかぎり動かし、辺りを確認する。
あったはずの気配はもうなかった。
「ったく驚かせやがって…どうせまたローを怒らせて飛ばされたんだろ?」
近くにいたサッチが俺を覗き込んで馬鹿にするように笑う。
エースはそれを不服の目で見つめた。
「…なぁサッチ」
「あ?」
「…ここ、変なのいる?」
これで伝わるものかとも思ったが、案の定サッチは全部を理解しているようだ。
この上なくにんまりと笑みを浮かべられてから、「ああ」と頷く。
「とびっきり可愛いおチビさんがいるぜ」
「…わけわッかんねェよ…」
飛ばされる直前、ローの手元に突如出現した長い太刀を思い返しながら、腑に落ちないエースは脱力してその場に倒れこんだ。
「随分と長ェ鬼ごっこしてたみてェだな」
ようやく静かになった部屋の中、ローは幼子に問いかける。嫌味のように聞こえるが、ローの表情は言葉の割に真意ではないらしく、笑みを浮かべていた。
『えーちゅ』
相変わらず舌足らずが治らねェな、と思いつつ幼子が口にする言葉を促す。
『しゅえっこ』
案の定、想像していなかった言葉に、ローは堪えきれないように笑い、なるほど、と納得してみせた。
「気になって追いかけまわすのも程々にな。あんまり突っかかると燃やされるぞ」
ローはその小さな頭を数回撫でた後、部屋を後にして通路を進む。
その抱かれた温かい腕の中で、鬼哭は大きなあくびを一つ漏らした。
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