暗闇の中でうっすらと天井が見えた。上体をゆっくりと持ち上げ、慣れた目で辺りを見渡せば、何人かが床で眠っているのが見えた。深い眠りに落ちる彼らを横目に、窓際から差す月明かりを見れば、夜はまだ深いと感じた。
ローは自身の身体を見やる。外傷の傷には丁寧な手当てがされており、新しい包帯が巻かれていた。ちぎれた腕も軽く動かせば、十分な感覚が伝わる。
その傍らに目を向ければ、ヴィダがローに寄り添うようにして眠っていた。
彼女もまた、同じように肌に包帯を巻いている。その姿に痛ましいと思うと同時に、彼女に出会った頃を思い出した。
ローは眉を寄せ、慣れた手つきで彼女の傷に触れる。規則正しい寝息の中で、温かい体温が伝わってきた。
それは生きている証だった。
「…スキャン」
起こさないように小さく呟く。
端から見れば問題はないとは思うが、念のために見ておきたいと思った。ローは頭部から足の先まで流すようにヴィダの身体を観察する。
その時だった。
「?…」
ローは、違和感を覚え、眉を寄せた。
そしてもう一度、同じ順路を辿ってヴィダの身体を見ていく。ある場所まで来た時、その違和感が正確な形になって現れた。
「…!」
それが確信に変わった時、ローは大きく目を見開く。
それは小さな、小さな気づきだった。
「あ!久しぶりだね!」
ヴィダが元気良く挨拶を交わす。だが目の前の男は、ボロボロと涙を流すだけで何も返さない。
ヴィダは首を傾げた。
「どうしたの?いつもは笑ってるのに、そんなに泣いて」
何の気もなく聞いたヴィダだったが、男はその言葉に対して身体全体を大袈裟に動かしながら、怒りの感情を表現して見せた。だがなぜそんな態度をとられるのかが、どうしても分からず、ヴィダは尚も首を傾げた。
結局男はヴィダの様子を見て諦めたのか、大袈裟な落胆を見せたあと、下手くそな笑顔を浮かべながら、彼女の頭を乱雑に撫でた。
「わっ、もう!やめてってば!」
随分と大きい手からようやく抜け出した時、既に男の身体は消えるように透けていた。
「あっ、もう行っちゃうの?いっつもすぐ帰っちゃうんだから…いい加減名前を教えてほしいな」
ヴィダは寂しそうな顔をして男を見るが、彼はいつものように笑うだけで、なにも返さない。
またはぐらかされた、とヴィダは肩をすくめる。だがそれは慣れた事であったため、あまり気にしなかった。仕方ないので大人しく見送ろう、そう思った時だった。
あと少しで消えてしまうという時に、彼は突然思い出したように慌てだした。
「なに?どうしたの?」
その慌てぶりに思わず尋ねた瞬間、男は自分で自分の足を引っ掛け、その場で盛大にこけた。
驚いたヴィダはすぐ男に駆け寄る。
「だ、大丈夫!?…私もよくこけるけど、貴方はもっとすごいね。ローが見たらきっと呆れちゃうよ…」
こけた男を見てくすくすと笑えば、男は困ったように頭を掻いた。一応自分の失態は自覚しているらしい。
「…はい」
ヴィダは男を起き上がらせようと、手を差し出す。男は驚いた顔をした後、自重混じりに笑った。
そして腕を伸ばし、差し出された手に触れる…と思いきや、男はヴィダの手を取らなかった。
「え?」
代わりに男は人差し指を軽く持ち上げ、彼女に指を差した。それは敵意を表すものではなく、相手に何かを示し教えるような、優しげなものだった。
「…私に、何かあるの?」
指先を見つめ、問いかける。
だが男はなにも答えず、優しい笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと消えていってしまった。
不思議とその笑顔は、今までで1番優しく見えた気がした。
ゆっくりとまぶたを開ければ、部屋はまだ暗い。
ヴィダは自分の体に落ちている濃い影を見つけ、その方向を見上げた。
「…ろぉ?」
「…ヴィダ…」
寝ぼけている声で問いかければ、ローは反応し、腕を引いた。その動きから、彼の腕が自分にかざされていたことが分かる。
ヴィダは体を起こし、ローに向き直るように座った。
「…ひょっとして診てくれてたの?大丈夫だよ!見た目は酷いかもだけど、もうなにも…」
元気良く且つ、周りを起こさないように小声で話すが、言いかけた言葉が自然に途切れた。
ヴィダの中で、先ほど指を差された情景が蘇った。そしてそれに引っ張られるようにして、自身に起こった不可解な出来事を思い出す。
「…そういえばね。突然、猫になれなくなったんだ…何度も試したんだけど…ごめん」
黙っている理由もないと思えば、自然と口が動いた。
「でもきっと、またできるように…」
その時だった。
突然、ローがヴィダの身体を強く抱きしめた。
「…? ロー…?」
問いかけてもローは何も答えを返さない。
その不自然な様に、ヴィダはローが怒っているのか、という不安に駆られるが、触れてくる力は案じるようにとても優しい。
ローの真意が汲み取れず、理解ができずにいた時だった。
ヴィダは自身の肩に顔を埋めるローに問う。
「……泣いてるの?」
顔は見えず、分からない。だが耳元から聞こえてくるものは、それしか思いつかなかった。
「…うるせェ」
ようやく返ってきた言葉は、随分掠れた声だった。
「…黙ってろ…」
しかしそこに否定する言葉はない。
なぜこうなったのかヴィダには分からなかったが、彼からされる抱擁に悪い気など起こらない。
ヴィダは言葉通り、何も言わずに彼を受け入れることにした。
***
海軍から逃れるためにドレスローザを出る間際、ローは国を訪れたセンゴクに出会い、ローとセンゴク、一対一で互いの話に一区切りつけた時だった。
「…ヴィダ。いるんだろう?」
「!」
呼ばれた本人でもないローが、思わず反応した。
ローは観念したように、自身の背後にある瓦礫を振り返る。するとそこから、ヴィダがひょっこりと顔だけだして、こちらを見てきた。
「ばれちゃった?」
「はは…気づいてないふりをした方が良かったか?」
「…んな茶番、される方がキツイ」
ローの方を見れば、呆れたように嘆息している。ヴィダは小走りにその傍らに寄り添った。
「ごめんね、ロー。見つかっちゃった」
「…元々本人の目の前に隠れた時点で、期待しちゃいねェよ」
「だってローが隠れろって言ったんだよ」
「俺は場所を考えろって言ったんだ」
「そっかーぁ」
彼らの会話の一部始終を聞いたセンゴクは、突然噴き出すように笑った。
その様子に、ローとヴィダは互いの顔を見合わせる。
「ああ、いや…」
センゴクは申し訳なさそうにその場を持ち直す。彼らを見つめ返せば、ヴィダの肩にはローの手が添えられていた。
センゴクは自然と、目を細める。
「…幸せか?」
センゴクがヴィダを見つめて言った。
少し声が小さくなったのは、その言葉に若干の不安を抱いたからだ。
「ヴィダ、お前は今、幸せか?」
美しく輝く白い髪と、透き通るような白い肌。そこに僅かな境界線を作る白い包帯。
宝石のような紅い瞳は、少女の人生を物語る。
「うん。すごく幸せ!」
嗚呼、良かった。
その姿から魅せられた愛らしい笑顔と言葉。
今この瞬間、どれほど心を深い安堵に満たしたか、きっと少女は気づかないだろう。
「それに」
その時、ヴィダの白い手がゆっくりと動く。
「これからも、ずっと…」
触れようとした先に、センゴクの目が大きく開かれた。
「ヴィダ」
「わっ」
しかし、ローがヴィダを抱き上げため、その手の行方にはっきりとしたことは分からなかった。
ローは青いサークルを張る。この国を去るのだろう。
センゴクは見開かれた目をゆっくりと閉じ、わざとらしく明後日の方向を向いた。
「…これはしがないジジイの一個人としての独り言だが…」
ローの動きが一瞬だけ止まる。センゴクは視線を変えず、口角を上げた。
「心からお前に、感謝する」
言葉の後、気配が消えた。
センゴクが視線を元に戻せば、彼らの姿はもうない。
「…どうかよろしくな」
誰もいなくなった場所で、センゴクは本当の独り言を呟いた。
「ロー、コラさんの話聞けてよかったね」
「…ああ」
素っ気なく返事をするローだが、その見た目からは、どこかわだかまりが取れたように見える。その様子にヴィダはくすくすと笑った。
「…ところでなんだけど、私、自分で走れるよ」
ローの腕に抱かれたままのヴィダが言う。風景が幾度も変わるこの移動は、ローの体力を削るためヴィダはあまり快く思わない。
だがローは足を止めようとはしなかった。
「時間がねェんだ。こっちのがはえぇよ」
「確かにそうは思うけど、こうなったのはローのせいだよ」
「ありゃどう見てもお互い様だろうが」
その言葉に少女は不本意そうに、唇を尖らせる。子供のような拗ね方を見て、ローは軽く嘆息した。
「…じゃあ言ってやる」
そして優しげに、彼女の腹部に触れる。
「お前達が、愛おしいんだ」
ある男に出会い、少女は人を愛することを知り、愛される喜びを知った。
「…私もだよ」
これは欲を生む化物の物語。
「貴方の側にいるから、愛しさや幸せをもらえたの」
これは永久に愛を注ぐ男の物語。
「…ロー」
これは少女の幸福を描いた物語。
「ありがとう」
少女の幸福論。
fin.
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