視界を少し彷徨わせば、捕らえたのは黒い羽毛のコートだった。

「…コラさん」

 その人物は、ローの記憶の中の姿とまるで変わっていない。
 ローは嬉しさが滲み出るのを必死で抑えながら、小走りにコラソンの目の前へと出向いた。

「コラさん。コラさんだよな?俺、ずっと会いたかったんだ」

 近くに寄れば鼻をくすぐる煙草の香りに、懐かしさを覚えた。

「残すもんは案外増えちまったけど、もう何も惜しくねェ。あんたがいるところに、俺も行きたい」

 覚悟を決めた意思に、未練はない。
 その言葉に沿うように、ローの中の思い出が、段々と薄れてゆく。

「なあ、コラさん。俺、あんたに伝えたいことがたくさん、たくさんあるんだ」

 ローよりずっと背の高い姿見を見上げる。その様子は、まるで母親に話を聞いてほしい子供のようだ。

「俺、」
「そんなの」

 遮られた言葉に、ローは若干の戸惑いを見せる。それまで黙っていたコラソンが今、初めて口を開いたのだ。
 一体何を言うのだろうかと伺うように見るが、コラソンの表情はまるで変わらない。

「酒のツマミにしたって、まだまだ足らねェよ」
「コラさ…」

 吐き捨てるように言われた言葉の直後、突然意識が遠くなる感覚に襲われた。
 まだ何も話せていないこの時間が惜しく、そして強い寂しさを感じたローは、閉じてしまう視界から必死に抗い、コラソンを見上げた。
 その様子にコラソンは手を差し伸べるなんてことはせず、じっとローを見つめる。

「…ガキがいつまでも留まってんな。前見ろよ、ロー。ったく…頭いいくせに、いっつもそこらへんは馬鹿なんだよなぁ…お前」

 視界はぼやけていくというのに、懐かしさを感じさせる下手くそな笑顔が、はっきり見える。

「…お前は愛されてる。なら、うんと甘やかされてこい。ばーか」

 優しげに言われた言葉が理解できず、ローは再び名を呼ぼうとする。だがそれは成せず、視界は闇に包まれた。


 飛び上がるような感覚で目を開ければ、空が見えた。同時にキャベンディッシュの顔も見え、体の浮遊感を感じる。瓦礫と金属音、そして叫び声が聞こえた時、脳がようやく覚醒し、現実を認識した。
 事態にまだ決着がついていないところを見ると、眠っていたのはほんの一瞬だったようだ。
 馬鹿みたいな夢想だった、と己を叱咤し、ローは奥歯を噛み締める。

「…待て…!」
「!? 気がついたかトラファルガー!」

 ローは自身を担ぐキャベンディッシュの肩を掴む。身を案じられる言葉を受ける間も無く、喉から絞り出すように声を出す。

「俺を置いて行け…!」
「え!?何を言ってるんだ!」

 キャベンディッシュが驚愕の声を上げる。この場所から逃げようとした彼らの選択とは、真逆の望みだから、当たり前だ。

「麦わら屋が…あいつが勝つのなら、ここで見届けたい…」

 だがどんな状況であれ、ローの意思は変わらない。これは己の何年もかかった復讐でもあり、そして奴に勝てなかったことへの意地だ。

「負けたのなら、俺もここで殺されるべきだ…!」
「トラ男くん、これは…」

 ロビンはローを説得しようと試みる。
 だが

「待って」

 それを遮ったのはヴィダだった。
 彼らはヴィダを見つめる。ローもまた、自身の側へとやってくるヴィダを見た。

「…私からもお願い」

 彼女は真っ直ぐな目をして、彼らを見つめていた。ローもまた、ヴィダが自分のわがままに乗っかるとは思わず、目を見開く。その眼に嘘偽りはない。
 ローはその紅い瞳から目が離せなかった。

「でも…」
「お願い……ッ!」

 船長命令であるからか、はたまた私情によるものなのかは、この際聞いている時間はなかった。
 その沈黙を破るように、キャベンディッシュは嘆息した。

「説得できそうにないな…」

 キャベンディッシュはその場に腰を下ろし、ローを寝かせた。

「敵わないな、まったく」
「キャベツさん…ありがとう…」

 ヴィダはその決定に心からの言葉を伝える。
 キャベンディッシュは肩を竦めてから、横たわるローを一瞥した。

「だがトラファルガー・ロー。キミが死ぬとしたら僕の次だ…だから自殺志願はするんじゃない」

 そしてキャベンディッシュはローに向けていた視線を、わざとらしく教えるように、愛する少女へと移した。

「…それに、最愛の人の亡骸を見て死ぬのは、嫌だろう?」
「!…」
「少なくとも彼女にその意思があることは、もう言わずとも分かるはずだ」

 傍でロビンに心配されるヴィダの姿を見る。少し取り乱すロビンは、なんとかヴィダを共に連れ出そうと必死なのだろう。しかし、それを安心させるように笑顔でヴィダは首を横に振る。
 ローもヴィダに先を行かせるよう言葉を放とうとしたが、突然キャベンディッシュが深く嘆息した。

「…彼女も、よくこんな面倒な男を好きになったね。僕には到底分からないよ」
「あ!?」

 嫌みたらしくいう姿は腹が立つことこの上なく、文句を言いそうになったが、彼は「でも」と続けた。

「…それを羨ましいと思ってしまう自分がいるのは確かだ。彼女は、自分の意思で君の側にいるんだからね」

 発言の意味に理解が回らず、呆然とする。

「…トラファルガー、君は愛されてることを、もっと自覚すべきだ」

 その言葉に、ローは不意に自分を待つクルーの姿を思い出した。
 置いてきた。先に行かせた。遠ざけた。
 そんな言葉が己を包むくせに、思い浮かべるのは彼らの笑顔と笑い声ばかりだった。

「ロー」

 視界に影が落ち、その方向を見やる。ローの側に腰を下ろして、心配そうに見つめる少女と目があった。

「ちゃんと全部終わらせよう…みんなローが大好きだから、きっと貴方を待ってる」

『お前は愛されている』

 はっきりと覚えていた言葉は、意外にも皮肉だと思うものかもしれない。
 だがこんなに愛しく、満たされてしまうのは、目先の野望で見えなかったその奥に、忘れかけていたものを思い出したからだ。


「さっきの人、不思議でした」

 頑なに動かなかったヴィダ達を仕方なく置いていったロビンは、自身の手の中でぼそりと呟くマンシェリーを見た。

「私の力の他に、明らかに強い回復力が見受けられたのれす」

 マンシェリーがロビンを見上げる。話の内容から、ローのことを言っているのは確かだった。

「あんなの初めて見たのれす。あの人はそういう能力を持っているのれすか?」

 首を傾げる小人に、ロビンは思わず微笑む。そして「いいえ」と、首を横に振りながら言った。

「…彼女もまた、彼を愛しているからよ」

 ヴィダがローの頬に触れる。彼女が触れた部分の傷が、温かみを持って少しずつ和らいでいった。

***

「…ヴィダ」
「!」

 ルフィとドフラミンゴの戦闘が街道へと移った時、ローは呟くような声音で側に寄り添うヴィダを呼んだ。
 ローに耳を傾ければ、彼は続ける。

「麦わら屋のところに行く」
「!…そんな身体でどうするの?」

 キャベンディッシュに聞かれると面倒だと思ったのか、小声で話すローに対して、ヴィダもまた同じ声の大きさで返した。

「体力が少し戻った…あいつらのサポートに向かう」

 本人の言う通り、確かにローはマンシェリーの力あってか、先ほどより幾分怪我が落ち着いたように見える。だがそれは悪魔で比べただけの話だ。命に関わるかで言えば、もちろん別の話になる。
 ヴィダは眉を寄せた。
 もちろん、ローの望みを叶えてやりたい。だがそこに、自分の意思も伝えたら、彼は怒るだろうか。

「ねぇロー…私も一緒に、」

 目を伏せつつ、視線を逸らしながら言った時だった。

「来てくれ」

 はっきりとした言葉に、ヴィダは耳を疑った。

「一緒に、来てくれ」

 驚いてローを見れば、彼は真っ直ぐこちらを射抜くように見ていた。
 ローは己の手で辿るようにしてヴィダの手に触れる。それは軽く触れただけだと思った。しかしローはヴィダの指を自身のと絡め、しっかりと離さないようにきつく互いの手を繋いだ。

「俺の、側に、いてくれ」

 それは言葉と共に、強く握られる。
 互いの血で塗られた感触に、不快感などはなかった。それどころか、離れて1日も経ってないのに、懐かしく感じてしまう温もりに、心地よさを感じた。

「…はい」

 ヴィダは涙を流すのを堪え、くしゃりとした笑顔で答える。

「わたしも、そばに、いたいよ」

 ローは優しく口角を上げた。
 それを合図に、彼らはその場から姿を消し、街道へと移った。
 ヴィダは倒れそうになるローの身体を支える。そして目の前で、項垂れつつ運ばれるルフィを見つけた。

「一刻を争う勝負だ…あとは、俺が預かる」

***

 上空では高々と挙げられたルフィの拳が、国の様々な思いを語る。
 それを見たローも、かつてコラソンが言っていた言葉を思い出した。

「…ローは言ってたね」

 側で自身を支える少女が、上空から視線を逸らさないまま言う。

「…ある土地ではDの一族を神の天敵という…って。正直、よく分からなかったけど…」

 同じようなことを考えていたことに驚いた。その中でせめてもの相違を挙げるなら、それを伝えてくれた人物くらいだろう。

「…今、分かったかもしれない」
「…ああ」

 目の前の宿敵へ振り落とした時、時が止まったような感覚に襲われる。
 落下してくるルフィを見つけ、残ったわずかの力を振り絞って、彼を安全な場所へと移動させた。それを確認した時、ローの膝が、がくりと崩れ落ちる。

「ッ…」
「ロー!」

 ヴィダは慌ててローを支える。既に限界を超えて肩で息をする様子を見て、目を逸らしたくなる思いだったが、なんとか堪えた。
 その時、周りから戸惑うような声が聞こえた。目を向け、辺りを見回せば、人々は空を指差している。ヴィダも同じように見上げれば、何本にも連なった糸が、空に溶け込むように消えていくのが見えた。
 身体の奥底から喜びが湧き上がる。
 それは、勝利を意味していたのだ。

「ロー…やった…やったよ…終わったよ…っ!!」

 ヴィダは喜びを表現する仕方が分からず、安直な言葉しか出せなかったが、構いはしなかった。その分、周りから沸き起こる歓声の中で、ローを抱き締める。

「よがったぁあ…!!」
「ヴィダ…」

 ヴィダは糸が切れたように涙を流す。
 こんな風に泣くのは、ローが彼女を迎え入れた日以来だろう。
 耳元で泣きじゃくる姿はまるで子供のようで、ローは少し困ったような笑みを浮かべた。今すぐ彼女を安心させたいのは山々だが、限界を迎えた身体は言うことを聞かない。
 抱きしめ返せない己の腕が、実に恨めしいと感じた。

「なあヴィダ…」

 だがその分を補うように、ヴィダはローを抱きしめる。

「…お前がいたから…俺は道を見失わずにすんだ…」

 コラソンの言葉が蘇り、同時に耳元で感謝の言葉を囁けば、返事の代わりにヴィダは嬉しそうに、笑った。
 それに愛しさを覚えれば、どうやら身体は安心しきってしまったらしい。
 ローは再び、意識を失った。

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