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ラスト・ノート

 ガラガラと引き戸を開け、部活後の後片付けを終えた壇が部室に戻るとそこにいたのは千石一人のみであった。
 机の上に水拭きの跡が残り、ゴミ箱の中も空っぽになっていた。壇も結構遅くまでネットやボールの後片付けをしていたが、どうやら千石は部活後自主的に部室の掃除をし、今しがた終えたところのようであった。
 珍しい、とは口に出さない。ロッカーの上に目を遣ると、丁寧に磨かれた、山吹の努力の証である数々のトロフィーが蛍光灯の光を受けて滑らかに光沢を放っていた。
「どうぞ、壇くん」
 部室に入ってきた壇に気付いた千石は制服への着替えを一時中断し、着替えていた自分の真後ろにある鉄パイプの椅子をひいて座る場所を促す。
 千石は気紛れにこのフェミニスト的な立ち居振る舞いを披露して壇を困惑させる。これが女子であったなら頬でも染めて喜ぶのかもしれないが、壇はれっきとした男子だ。数秒固まった後、断るのも悪いと思い躊躇いがちに椅子に座った。僅かに椅子が軋む。
 壇が椅子に座り部誌を書こうと手元に置いた途端にふわりと温もりが降ってきた。そして、鼻についたバニラの薄い香りに首を傾げる。壇の調査が正しければ千石は香水なんてつけていないはずだ。
 たまたまそんな気がしただけかも、と後ろから抱き締める腕に頭を預けると、怪訝な顔に気付いた千石がくすくすと笑う音が聞こえてきた。
 もうわかっちゃった? と問う声に頷けば、壇の耳元に千石の唇が軽く触れていった。少しだけ胸が高鳴る。
「クラスの女子が試供品もっててね。スイドリームスって言う香水らしいよ」
 囁くような声と甘い香りに頬が熱くなる。それに気付きながらも捉えて離さない千石は意地が悪い。
 耐えられなくなった壇がもぞもぞと身じろぎすると、やっと千石は離してくれる。するりと抜けていった温もりが少し寂しいような気もした。
「千石先輩、香水に詳しいんですか?」
 ドキドキと早鐘を打つ鼓動をひた隠すように問うと千石は肩を竦め、小さく横にかぶりを振った。
「まさか。女の子は好きだけど、身につけてるものに興味はないよ」
 のんびりとした口調を聞きながら部誌にシャープペンを走らせる。月日に曜日に練習セットの内容。誰と誰が試合をしてどっちが勝ったか、等を事細かに記していく。粗方書き終えたとき、不意に髪を手櫛で梳かれた。肉刺ができて少し骨ばった暖かい手に潤いのある黒髪が馴染む。
 それに振り向くと、千石がへらりと優しく笑う。女の子の前でデレデレと崩れた表情を見せなければ今みたいにそれなりに格好いいのに、勿体無いと思う。蒼いカラーコンタクトも、派手なオレンジ色の頭も、人好きのする笑顔も皆似合っているのに。
 でも千石が意外と女の子に人気があるのは知っている。優しいし、話しやすいし、甘え上手だし。老若問わず、千石の光を浴びたいと思う者は本人が思っている以上に多いのだ。
 今以上に人気が出てしまったら、と思うと少し不安になってしまうが、そんな気持ちは悟られないように笑みを返した。

 髪を梳いていた手を頬に降ろし、千石は壇を見つめる。
 少し癖のある黒髪も、健康的な、それでも自分より幾分か白い珠のような肌も、桜の花弁のような可愛らしい唇も、全て食らい尽くしてしまいたいほど愛しい。これには勿論美化が多少含まれてはいるが。格好悪いとこは見せたくないと口元を引き締めてみても知らず弛んできてしまうのだから不思議だ。
 出来ることなら校内放送でもして壇のかわいらしさや自分達が恋仲であることを言い触らしたいが、それをすると壇に嫌われるだろうし周りからはドン引きされるだろうから、ぐっと我慢する。
 女の子は好きだしかわいい男の子も好きだし、男が男を好きになることに大して抵抗も嫌悪も抱かないが、世間一般はそうでないのだから仕方ない。
 大きな二つの双眸に千石の姿が映っている。ずっと見つめていると、困ったように視線を泳がせた。
 壇は容姿のコンプレックスも相俟って他人に見つめられることをあまり良しとしない。部活のときも他の部員の影に紛れて貧相な体躯を隠すようにこそこそと着替えている。それが逆に視線を集めることになっているのだが、壇のコンプレックスを皆知っているので敢えて知らないふりをする。山吹の美しい友情だ、などとぼんやりと思う。
 頬を撫でている手に壇の手がそっと重ねられた。壇の小さな手にも似つかわしくない肉刺が出来ている。肉刺は個人の努力の証だ。トロフィーは部員皆の努力の証だ。白魚のような手であればいいのにと思うけれど、努力する後輩への誇らしさもある。頑張れ期待の星、と心中でこそりと応援しておいた。

 ふと、唇が目に入る。薄桃色で小さくて、少し厚みのある子供のような幼い唇。おいしそうだ、とも思う。
 一緒に帰るようになった。手も繋いでくれるようになった。人目のないところでならこうして触れることも許された。でも、キスはまだしていない。
 女の子とデート紛いのことだってしたことはあるし遊んでそうに見られていることも知っているけど実はファーストキスはまだだったりする。
 千石は健康な男子中学生で枯れてなんていないから当然好きな相手には触れたいしキスしたい。あわよくばもっと先も、なんて思っている。相手も自分も未成年だからまだまだ当分先になってしまいそうだけれど。
 今はまだキスと自分の右手だけで我慢できそうだ。それこそ乙女のように壇の唇の柔らかさとか味とか色々考えてしまった夜が思い出されて苦笑しそうになる。
「ねぇ、キスしようか」
 まるでそれが当たり前であるかのようにさらりと言っておいて、後から羞恥が込み上げてきた。感情を顔に出さないで笑っているのは得意なのでそんな様子これっぽっちもないだろうけど。
 壇の白い貌が苺のように真っ赤に染まっていくのを見るのは面白い。そして、壇は押しに弱い。確認するように「ね?」と微笑むとしどろもどろになりながら泣きそうになって頷いた。
 ちょっと無理矢理すぎたかも、と可哀想になるが折角手にしたチャンスは逃がさない。テニスだってそうだ。絶好のチャンスボールが来たら迷わずスマッシュを打つだろう。同じだ。
 自分を奮い立たせるように結論付けて、顔を壇に近付ける。ぎゅ、と瞳を閉じた壇の目元に唇を寄せ、頬に滑らせる。本当なら額にもしたかったのだがヘアバンドがあるため省略だ。
 このヘアバンドを見るたびに細身の銀色を思い出し妬けてしまうが、壇の宝物に等しいらしいので外すようには言わない。
 壇くん、と呼ぶとビクッと大きく震えた。可愛らしい反応に嬉しくなる。吸い寄せられるように唇と唇を合わせると、より一層壇の体が固くなった。

 数秒経ってからゆっくりと唇を離す。本当にただくっつけただけであったし噂に聞くほどふわふわと甘いものではなかったけれど、それでも幸福感や愛しさが体中から溢れてくる。きっと今の自分の顔はニヤニヤとだらしなく崩れているだろう。
 壇は相変わらず真っ赤になって固まっていて、千石と目が合うと素早く視線を逸らした。両頬を固定するように両手で挟み強引に自分のほうを向かせると、耳まで真っ赤な顔で弱く睨まれた。
 本人は一生懸命睨んでいるつもりなのだがそれが全く逆効果に千石を煽って、壇を強く抱き締める。少し抵抗しかけたが離れる意思はないと抱きしめる腕の強さで示すと、諦めたように大人しくなった。
 幸せだとか好きだとか全て言葉にして伝えたいのにうまく言葉に出来ずもどかしい。そのもどかしさすらも心地良いもので、千石は静かに瞳を閉じる。壇も同じ気持ちだったら嬉しい。とくとくと脈打つ鼓動が小さく聞こえる。
 つけた始めはあんなに強く香っていた甘い甘いバニラの匂いは、いつの間にか消えてしまっていた。



081126


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