ラントマン 走っても走っても飛び跳ねるボールには追いつかず、無駄に息が乱れていくばかりだ。 自慢ではないが小学生のときのかけっこはいつも最後から数えた方が早かったし、現在だって何をするにも鈍くさいし、もともと運動は得意な部類ではなかったし。 ハァハァと息を荒げたまま動きを止めてしまった壇に、テニスボールを縦横無尽に打ち続けていた千石も動きを止める。 今まさに打とうと空に放ったテニスボールはなにをされることもなくそのまま重力に従って落下し、千石の足元をコロコロと緩やかに転がった。 様子を見ていた千石は壇が気付かないように小さく息をつく。 気付かないように、といってもネットを隔てて数メートル離れているし相手は俯いているのでそう簡単には気付かれないのだけれど。 「今日はもう終わりにしようか」 あはは、なんて笑いながら足元のボールやラケットを片付け始める千石に、壇も慌ててボールを拾い始めた。 みっともないし情けないし悔しいし、自分に対する憤りや練習に付き合ってくれている千石に対する申し訳なさが瞳から溢れ出しそうになって、壇はゴシゴシと乱暴に目を擦った。 灼けるような夕日が目に眩しい。 「よし。少しの間練習はおやすみしてみよう」 千石がそう言い放ったのは、既に着替え終わった壇が千石の着替え終わるのを待っているときだった。 ぱちぱちとしきりに目を瞬かせ言葉を捜す壇に、千石は再び微笑みかけて壇の頭に右手を置いた。 「で?」 亜久津は不機嫌だった。 朝から母親に口煩く説教を食らったこともあるが、そんなのはどうでもいい。 亜久津が不機嫌なのは常日頃だ。そのため壇も特に気にすることもなく隣に体育座りをしている。 この後輩は意外と図太いのだ。 壇の話によるとあれから千石との放課後の練習はめっきり減って、今は一人で壁打ちをする毎日だという。 しかしやはり上達などせず、自分の知っている先輩の中で一番強いであろう亜久津に意見を求めに来たのだった。 「ですから、どうすれば先輩みたいに強くなれるのかなぁって」 紡がれる言葉にウンザリしながらも煙草を揉み消す。 なぜこいつは自分に懇意にするのだろうか。 それはわからないしわかろうとも思わなかったが自分が他者より強いのは当然のことであるし、その理由なんて考えたこともない。 壇が羨むその全てが、亜久津には当たり前のことなのだから。 「……才能じゃねぇの」 努力をしたことがない、する必要のない亜久津にはそれしか思いつかなかった。 無論傍らの壇はどこか不満そうにしょぼくれている。 でも、と小さく口にするがすぐに押し黙ってしまった壇を見て、亜久津は先程よりも深々と眉間に皺を寄せる。 余計な情報や話題はうるさくギャンギャンと喚き散らすくせに、自分の意見は言わずにただ口篭る。 他者との衝突を避ける、良く言えば平和的な部分が癪に障った。 じゃあなにか。身長が足りないから強くなれない、壇の持つ知識と技術が噛み合っていない、などと言えば急激にそこが伸びるのだろうか。 仮に伸びるのだとしても、それでは結局他の面と噛み合わなくなってまた袋小路に迷い込むだけだ。 大体壇のテニスには自分というものがない。 プレイスタイルも独自の技もほぼ亜久津の模倣。どんなテニスがしたいかなんて決まっていない。 亜久津の技なんて亜久津の柔軟性や瞬発力だからこそ出来るのであって、それを無理に行おうとしても身体を痛めるだけだ。 千石はそれを見抜き、答えを見つける時間を与えたのであろうに。 「おまえ」 うんざりした感じで呟くように吐かれた言葉に耳を傾ける。 「テニス向いてねぇんじゃねぇの。やめちまえ」 え、と小さく洩らした壇はゆっくりと頭の中で言葉を反復する。 亜久津に憧れて始めたテニスを。 その亜久津に否定されたのだ。 ふわりと頭の中が軽くなり、真っ白になるのを感じた。 「彼はさ、悩んでるんだよ」 部活の終わった後、部誌に鉛筆を走らせている南を待ちながら千石は呟いた。 壇の練習に身が入っていないのは南も勿論気付いていたし、その理由もそれとなくわかっていた。 亜久津が壇に放った言葉を千石や南は知る由もないが、壇の前に今立ちはだかっている壁は随分と前に自分達も悩み、試行錯誤し、乗り越えた壁なのだ。 自分にとってのテニス。目指すべきテニス。 模倣だけなら、多少の技術は必要だが簡単なこと。 壇の目指しているものは亜久津のような我流のテニスなのではなく、亜久津そのものなのだ。 憧れてその技を取り入れようとするのと、憧れの対象そのものを目指すのはまったく違う。 これがなかなか当の本人にはわからないものなのである。 特に壇のような妄信的な人物には。 「で、どうするんだ」 南が部誌をパタンと閉じたのを皮切りに、二人は立ち上がる。 うーん、とわざとらしく悩むふりをしながら、その実答えは既に決まっている千石がくすりと笑った。 かわいい後輩が悩んでいるのならすぐにでも助けてやりたいのが本音だ。 だが、今ここで助けてしまっては壇のためにならない。 「勿論、俺は傍観者でいるよ。ちょっとした手助けはするけどね」 やれやれと肩を竦める南に笑みを返しテニスバッグを肩に掛け、ああ、俺もまだ甘いな、なんて楽しそうに千石は笑った。 テニスはつまらないか? と、不意にかけられた声に、壇は飛び上がるほどに驚いて後ろに振り向き、言葉に詰まりながら今までを振り返る。 部員になった最初こそなにもかもが新鮮で毎日部活を楽しみにしていたけれど、今ではどうだろう。 他の人の何倍も練習し努力をしても実らない理不尽さ、歯痒さ。 尊敬する亜久津からの侮蔑。 今までのテニス生活を総合して現在を見ると、やはり努力に結果が追いついてこないのだ。 それでも目の前の彼――南の投げかけた問いに、素直に頷く気持ちにはなれなかった。 今ここで頷いてしまったら、本当にここまでの苦労がそれこそ水の泡にでもなってしまいそうな気がした。 表情を曇らせたまま黙ってしまった壇の目の前まで近づき、今しがた壇が壁打ちに使っていた薄汚れた白い壁を見ながら南は続ける。 「おまえは焦ってるんだよな。確かに他の一年よりも入部はずっと後だし、まぁ、その、体格のこともあるし。でもな、まずはなんでテニスをしようと思ったのかを思い出すんだ。そうすれば色々見えてくるさ」 南にテニスボールを手渡され、ハッと現実に引き戻される。 見失っていたもの。目指していた場所。 ただでさえ同級生のテニス部員より遅れているのに、くよくよと悩んでいる暇なんてなかったはずだ。 手渡されたボールは茶色く汚れていたのに、何故か真新しいもののように見えた。 「南部長! ありがとうございましたです!」 深々と礼儀正しくお辞儀をしてからテニスバッグに道具一式を詰め込んで壇は弾かれたように走り出し、姿が見えなくなると陰からこっそりと様子を見ていた千石が南にグッジョブ! とでも言うかのように親指を立ててみせた。 こういう役割は千石がやるべきだ、と壇の元に行く手前までぶつぶつと愚痴を言っていたが終わってみると実に呆気ない。 しかし未だに不服そうな南に「俺じゃダメだったんだよ」と言いながら好物のコロッケを差し出し、南が一瞬迷った後に貸しも借りもキレイになくなった。 翌日の放課後。 相変わらず亜久津はトイレや屋上で煙草を吹かしている。 千石は女子と談笑し、南は東方と今後の自主トレーニングについて話し合っている。 それぞれが別々の場所にいる中、それぞれが向けた視線の先には壇がいた。 壇は懸命に他の部員とラリーを続けていて、昨日までの沈んだ姿など嘘のようで、山吹の期待の星の姿に安堵する。 ゆっくりと歩んでいけばいい、という思いと共に、ふと誰ともなく緩く笑みが浮かんだ。 ――なぁ太一、テニスは楽しいだろう? 自分に向けられた視線に気付いた壇は、朗らかに笑った。 080615 |