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murmur

「亜久津先輩、待ってくださいです!」
 キンキンと耳に響く第二次性徴前の声に亜久津は苛立ちを覚えた。
 振り向かなくともわかるその高い声の持ち主は何かと自分を気に掛ける後輩の壇太一のもので、こうして放課後に壇が亜久津に付き纏うのは毎度お馴染みの光景となっていた。
 周囲の連中が自分達を遠巻きに見遣る好奇の視線が煩わしい。
 壇はまるでそれが自分の使命と言わんばかりに亜久津を部活に連れて行こうとする。六限目が終わって早々に学校というしがらみから抜け出そうとする亜久津を、それこそ日課のように部活に追い立てようとする。
 例え亜久津がどこにいようと、壇は忠犬のように嗅ぎ付けてくる。このチビはストーカーの気質があるんじゃないか、と密かに思われていることを壇は知らない。
 亜久津はスポーツの面に措いて他に劣ることを知らぬ天才肌で、故にどのようなスポーツでも容易にこなすことが出来る。
 それは五年前親に言われてやらされたテニスという球遊びでもなんら変わり無く、満足感も高揚感も得られぬまま天才はテニスを見限った。
 五歳の頃から英才教育を受けてきたという名選手――テニスの品位がどうのこうのと喚いていた彼等がそう言っていた男ですら、取るに足らなかった。
 当時小学生であった自分に負ける名選手など、とんだお笑い草だ。腕を、脚を、顔面を狙って球を打つ亜久津にその男は背を見せて逃げ出し、なんとも無様なものであった。
 そして、何をしても決して得ることのない充足感を暴力で昇華させるに至るまで、それほど時間はかからなかった。
 自分を見ては怯えてコソコソ逃げる周囲の奴らなぞ興味はなかったが、圧倒的な力の差に為す術なく縮こまる姿には愉楽を感じた。その時ばかりは楽しいと言える感情が一撮みほどには生じていた。

 しかし今亜久津は見限った筈のテニスを再開し、なにをトチ狂ったかテニス部にも在籍している。入部届けを出した覚えはないが、大方あの薄ら笑いの爺がなんかしたんだろ、と思っている。
 あの時気紛れにテニスコートを訪れ、似合わぬ懐古心にラケットを手に取り打っていなければ壇に付き纏われうんざりする日々を送ることもなかったのだ。
 暇潰し程度にはなるかと誘いに乗ったあの時の自分を張り倒してやりたくなりながら、下駄箱の前まで来た亜久津は不本意にも足を止める。
 ぱたぱたと軽い足音を立てながら亜久津に追い付いた壇は荒い息をしている。身体の小さな壇は比例して歩幅も小さく、亜久津の歩みに合わせるにはほぼ小走りに近いのだろう。
 品行方正をそのまま形にしたような壇がその真逆である亜久津のどこに惹かれているのか亜久津本人が知る由もないが、まったくご苦労なことだ。
「先輩、部活に……」
「行かねーよ。毎日うるせぇ餓鬼だな」
 呼吸を整えている壇に視線を送ることもせずに渋々答えてやると壇は少し気落ちしたように俯いたが、壇がこれくらいで諦めるようなタマでないことはこれまでで嫌というほどわかっていた。
 亜久津がいくら威嚇しても胸倉を掴み上げても臆さずに後ろを付いてくる図太い神経の持ち主が、壇太一という人物だ。
 小首を傾げて何事かを思案していた壇は大きな瞳で真っ直ぐに亜久津を捉え、見上げる。一点の曇りもない双眸に見据えられてやっと、亜久津は壇を眼中に収めた。
 一見女子と間違うような細い身体に柔らかそうな長めの黒髪。かつては亜久津のものだった緑が映えている。潤った、鏡のような瞳がぱちりと瞬きをする。
「うるさくしなかったら部活に来てくれますですか?」
 それならずっと黙ってます、と意気込む壇に、そういうことを言っているのではないと怒鳴ることも馬鹿らしく、靴を履き換えた亜久津は昇降口を後にして校門の方へと向かった。
 あ、と小さな声が聞こえたがずかずかと突き進む亜久津に今しがたまで傍にあった気配が遠ざかる。が、同じく靴を履き換えたらしい壇の慌ただしい靴音が後を追ってくる。よく飽きないものだ。
 この後にも部活はあるはずなのでこの一年が自分についてくるのは校門を出るまでの後数十メートルだろう。やっと解放されると知らず安堵した亜久津の耳に、小さな悲鳴とともになにかが地を擦るような音が聞こえた。
 振り向かずとも明瞭に想像できるその出来事にざまぁねぇな、と独りごち、亜久津は歩を進める。
 その歩みが幾分か緩やかになっているのを知ってか知らずか、亜久津に追い付き、初めて隣に立つことを許された壇は嬉しそうに亜久津の名を呼んで笑った。



081216


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