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ケルベロスは伏す

 先輩が好きです。消え入りそうに囁かれたその言葉を、亜久津の耳はしっかりと拾ってしまっていた。
 なんとはなしに目に映していた誰もいないテニスコートから、一回の瞬きの後に視線を外して振り返る。亜久津の怪訝な視線とまともにかち合った壇は、目を逸らしてうっすらと赤い顔を伏せた。
 いかにもな恋してます、という乙女のようなその動作が、亜久津の脳内に小さく浮かんでいたなんらかの罰ゲームという可能性をくっきりと否定してしまっていた。罰ゲームだったのなら、そこらに潜んでいるであろう首謀者を引きずり出して数発殴ってしまえば済む話だったのに。まあ、亜久津にそんな無謀なことを仕掛ける人物は脳内も髪色もお天気なあの男しかいないわけだが。
 壇の突然の告白に幾分かげんなりとしながらも、その実、壇が自分を好きだとかそんなことはとっくの前から知っていた。亜久津は鈍感ではない。先輩後輩という関係やそれ以上に大きな同性という高いハードルすら飛び越えて、恋愛感情で自分を好きなのだと気付いていた。手放しで亜久津のすべてを褒め讃えて慕う中に、単に尊敬や憧憬だけでは言い表せられない恋情を孕んでいることに気付いていた。むしろ、あれだけ全身で示されて気付かないほうがおかしかった。
 気付いていながら尚のこと壇を傍に置いていたのには、先輩先輩と無邪気に慕われることの心地良さがあった。本来なら他人を寄せ付けるなどしないし誰も寄って来ない亜久津だが、河村と壇だけは例外だった。隣に立つことを許したのはこの二人くらいだろうか。ベクトルは違えどこの二人は、少なからず似ていると思っている。
 加えて、壇の存在も口で言うほど邪魔には感じていなかったのだ。いや、確かに知り合って間もない頃は付き纏われて行動を抑制され、非常に邪魔に感じていたのが事実だ。胸ぐらを掴んで脅したこともある。それなのに一向に飽きず諦めず、何度追い払っても尻尾を振って付いてくる姿や、ひょろひょろと小さく弱そうな外見とは裏腹に意志の強さを秘めた瞳だとか度胸だとかに絆されていたのだった。
 それになにより、まさか告白してくるとは思っていなかった。亜久津は先輩後輩以上の関係になることを望んでも考えてもいなかったし、壇もまた、その関係を崩すようなことはしないだろうと思っていたのだ。
「……そうかよ」
 好きです、と亜久津の予想を裏切って一歩踏みこんできた壇に亜久津が放ったのはその一言だけだった。
 気持ち悪いと一蹴してしまえばそれでその話題は二度と出ないまま二人の関係は何も変わらず終わっただろう。 しかし亜久津自身も驚いたことに、一瞬言葉に詰まった後どうにか返せたものは許容でも拒絶でもなく、保留だった。通常なら取り付く島もなく切り捨てることだろうに何故かそれが躊躇われた。
 少しの間、ヒタリと時間が止まったような錯覚を覚えた。二人共微動だにしない。先に動いたのは亜久津だった。馬鹿らしい、と亜久津は帰るためにそのまま階段を下り使われていない下駄箱を通り過ぎ、分かれ道までやって来て、そこまで終始無言だった。壇も、その日はあれ以上何も言わずに、いつものように並びながら、一言も発さずに帰った。夕陽がいやに眩しかった。いつでも誰に対しても傍若無人な態度であった亜久津が他人と共有する空気を気まずいと感じたのは、今のところ今日だけであった。

 好きですと再び言われたのは三日後のことだ。三日とは長すぎることも短すぎることもない、都合のいい期間ではないだろうか。それ以前だと急かしているように取られてしまうかもしれないし、それ以後だとなあなあに流されてしまうかもしれない。壇の判断は実に聡明だった。実際亜久津は答えを返さずに流すことを薄く思考し始めていた。この三日、壇に会わなかったわけではない。ないが、どちらもあの話題に触れることはなかっただけだ。
 告白された翌日は学校で気まずい空気になるのかと危ぶんだものだが、壇はいつものように元気におはようございますと笑顔を見せた。それに亜久津もいつものように小さくあぁ、と返した。あの告白でなにかが微弱に揺れ動いた気はしたが、表面的に二人の関係が変わるということはなかった。
 好きです。普段通り旧校舎の屋上からコートを見下ろしているとまた、そう声を掛けられた。亜久津とて人間だ。それは本当に幼い頃の淡い感情であったが、恋の一つや二つ、知らないわけでもない。よもやそれを男に向けられるとは思わなかったが。
 恋愛なんて面倒くさい。それに、元々他人に興味の沸かない亜久津は自分が恋愛事に向いていないことも重々承知している。恋人という存在に行動を制限され指図される自分の姿など、絵空事だ。誰であろうとも、自分の往く道を阻む者は受け入れ難い。
「亜久津先輩、」
「うるせぇ。聞こえてる」
 何度目かの好きを言われる前に亜久津は呆れたように声を発した。反応しなければ延々と好きですを繰り返したのかもしれない。よくわからないところで発揮される壇の執念は、付け回される日々の中で亜久津もなんとなく理解していた。普段は道徳に反しないことなら素直に従うが、壇は変な所で強情なのだ。
 壇に目を向ける。三日前とは違って、真っ直ぐに亜久津を見つめていることに気付いた。滑るような瞳に銀色が映っている。爬虫類のようなぎょろりとした鋭い瞳を以てしても、壇は目を逸らさない。今日、返答しなければならないのだろうと亜久津は察する。返答。男からの告白に。
 馬鹿らしい、と亜久津は内心で舌打ちをした。そんなもの、答えは決まっている。これがはい、いいえの簡単な選択問題ならせせら笑っていいえを選ぶに決まっている。
 決まっているはずなのだが、それを口にしようとすると変な焦燥が胸にくすぶる。どこから来ているのかわからない焦燥が気持ち悪い。
「テメーは」
 ひどく戸惑っているとわかる声色が自分の口から出て、亜久津は元々刻まれていた眉間の皺を更に濃くする。らしくない。いつ如何なる時でも堂々としているのが自分だったはずだ。他人からの言葉一つに惑わされるなんてらしくない。
「テメーはどうしてぇんだ」
「……ボクは」
 のろのろとつたなく口を開き、壇の大粒の瞳が銀色を映したまま微かに揺れた。
「ずっと、亜久津先輩の隣にいたいです」
 ひどく幼く子供らしい告白に亜久津は再び戸惑いを感じた。幼いゆえになんの取り繕いもないそれが、そのぶんダイレクトに感情を訴えてくるのだ。ひたと見つめてくる純粋な瞳も今はまるで凶器のように鋭利に亜久津のどこか奥底を抉ってくる。
 自分は、どうしたらいい。亜久津は苦々しく嘆息する。この場合の隣にいたいは付き合うということで、イコール恋人ということだ。壇の中ではどう捉えられているのか知らないが、亜久津の中ではそういった行為に転ずる、つまり性的な位置付けを以て恋人と言う至って普通の解釈で捉えられている。壇の言う隣にいたい、は文字通りの意味でしかないのではないだろうか。だとして、もし恋仲として付き合うのであれば、どのように接すればいいのか。壇に欲情などするのだろうか。したとしたら、どうすれば?
 壇が望むのなら勝手に傍にいればいいとは思っている。だがそれは恋愛的な意味合いのものではないし、どちらかというなら兄から弟へ対するような肉親への情に近しいものだった。
「やめとけ」
 ぽん、と諭すように黒髪に手を置く。
 壇はその言葉を脳内でしばらく反芻する。意味を捉えた途端にぼろぼろと涙が溢れ出してきたのには壇自身も、その姿を見た亜久津自身も驚かざるを得なかった。
 まさか泣かれるとは思っていなかった。いつもみたいにふにゃっと笑って、変なこと言ってごめんなさいです、なんて言ってくればいいと思っていた。男が泣いても気持ち悪いだけだが相手は壇だ。少しだけ焦りを感じて、今度ははっきりと舌打ちをした。もちろん、壇にも聞こえたことだろう。
「泣くな、鬱陶しい」
 どこか引け目を感じてしまうのは何故なのか。強く言うことは出来なかった。
 胸部に弱い衝撃を受けたのは、壇が抱きついてきたからだ。滅多なことでは泣かないと思っていた壇がぐしゅぐしゅと頬を濡らしているのはいささか見るに耐えない。しかもそれが自分のせいだとなると尚更だ。以前テニスを辞めると言った時も辞めないで欲しいと泣かれたが、あの時とは勝手が違いすぎる。振り払うことも怒鳴ることも出来ず、亜久津はしばらくそのまま泣かせていた。自分の意識の及ばないところで、つややかに震える黒髪をゆっくりと撫でてやっていた。

「おい」
 十分ほど経っただろうか。亜久津が苛ついた声を掛けてやっと、壇は泣き止んだ。見上げてきた赤い目が痛々しい。
「……ご、ごめんなさいです」
 ようやっと気付いたように、壇は申し訳なさそうに言ってからゆるやかに拘束を解く。離れる熱を感覚的に追ってしまったのは無意識だったが、それの指すところは既に理解し始めていた。人に触れられ、抱擁を受けるということを考えたことなどなかったが、実際にされたところのそのぬくもりは嫌いではなかった。じわじわと体内にまで侵蝕するようなそのぬくもりに少しだけ安らぎというものすら感じた。だがそれはきっと、壇だったからだ。
 例えば河村だったとしたら。数少ない友人ではあるものの河村が抱擁してくるなど考えられたものではないが、してきたとしても暑苦しいんだよテメーは、とその腕を振り払っただろう。安らぐとか心地良いとかそういう感覚は得なかったはずだ。
 この十分ほど、亜久津もただつっ立っていたわけではない。先程感じた感情の出所を探っていた。くすぶっていた焦燥に似た気持ちがなんなのか、うっすらとだが掴めてきたような気がしていた。つまるところ、亜久津も。
 しゅんとしている壇の顔を見ていると苛々としてくる。辛気臭いのは嫌いだとかそういう類の苛々でないこともわかっている。単純に、壇のそういう顔を見たくないだけなのだ。その理由なんて今更どうでもいい。壇へ向けていた感情が変化しつつあることにも気付いてしまっていた。
 俯いている後頭部を掴んで乱暴に下に引っ張り顔を上げさせ、そのまましばらくの間無遠慮に顔を見る。壇は何事かと面食らっているが、それでも抵抗する様子はない。
「……いさせてやっても、いい」
 亜久津が苦しげに搾り出した言葉に、見上げている双眸がぱちぱちと瞬いた。困惑した表情を浮かべている壇の姿が少しだけ小気味良かった。先程までも今も、亜久津は散々困惑を味合わせられたのだ。少しくらい返してやらなければ気が済まない。
 壇がなにか言葉を探していることが空気から伝わり、それが音として鼓膜を震わせる前に亜久津は後頭部を引き寄せながら自らも背を屈める。押し付けただけのそれは気持ちいいものでもなんともなかったが、温度と弾力がやけに後を引いた。
 どうかしている。硬直している壇の顔を、今度は先程よりも少しやわらかく、もう一度引き寄せた。壇に対する気持ちはまだはっきりしないが、恐らくきっと、そうなのだろう。他人にこんな形で触れたいと思ったのは初めてだった。
 帰るぞ。身体を離し重苦しい錆びの広がる鉄の扉を開けながら声を掛けると、壇は赤い顔でこくこくと頷いて後を付いてくる。自分の顔も微かに熱を帯びているのを感じていた。運動した時とは違うこの熱さは随分と懐かしくむず痒い。
 二人分の足音をぺたぺたと響かせながら十二段ある階段をいくつも降りていく。ちらりと横目で見た視界の端で揺れる黒髪は、泣きじゃくっていたのが嘘のように喜色を見せている。二人共まったくの無言だったが、気まずさを感じることはなかった。



101022.

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