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Miracles come to you.


「……はは、は。ラッキー」
 心臓が耳元で暴れ回っているように鼓動がうるさいなか、コートに崩れるようにへたり込みながら安堵の息を洩らす。ネットを挟んで対峙している桃城は汗だくで悔しそうにぽりぽりと頭を掻きながらも、力を出し切った満足感が溢れていた。
 ゲームセットを告げる審判の声が遠くに聞こえ、ぼんやりと今の自分の姿を確かめる。桃城と同じように汗だくでべとべとの身体に、丹念に掛けたセットのすっかり乱れた髪に、かっこ悪くぜぇぜぇと上下する肩。後から後から汗が頬や顎を伝ってコート上に水玉模様を描く。額に張り付いた前髪がこの上なく鬱陶しい。
 こんな姿女の子に見せられないな、と思いながら、自分と同じように苦しそうに酸素を取り入れている桃城を瞳に映した。

 迫真の試合だった。
 桃城の打ったボールは予想したのと反対の軌道を示し千石の意表をついた。
 慌てて身を翻していなかったらきっとこちらが点を取られていて、またデュースに戻っていたはずだ。うげ、と苦々しく顔を歪めるまえに咄嗟に反応した自分の身体を労わってやりたい。
 やっとの思いで飛び付いて捉えたボールはなんとか相手側のコートへと飛んでいくが、しかし千石に体勢を立て直す余裕はなかった。
 右足をしたたかに擦りつけながら、これは打たれたかな、と頭の片隅で思った千石の目にしたものは、ネットに触れてからコロコロと地を這う小さな黄色い球体であった。
 フレームで弾いてしまったボールはうまくネットに当たってコードボールと化し、それに一瞬反応の遅れた桃城から勝利を奪ったのだ。
 いつもと違い狙って打ったのではないそれを、幸運と呼ばずになんと呼ぶものか。口から零れ出た言葉はごく自然なものであった。そして、冒頭の台詞に至る。
 勝利の判決を耳にして、それぞれ試合を終えて固唾を呑んで見守っていた部員達のワァ、と高ぶる燃えるような士気を全身にあまねく受けながら、千石はぺろりと自分の唇を舐める。
 都大会、関東大会と負け続けてからどれほどの時間と情熱をテニスに費やしてきただろうか。
 それこそ勉強も習慣だったナンパもそっちのけで、来る日も来る日もテニステニステニス。時折目の保養にかわいい女の子を探したりはしたけれど、思い直してはテニスに勤しむ。その繰り返しだった。変わったな、とよく言われた。笑いながら流していたけれど、変わらなくちゃ勝てないからね、といつも心中で自分を戒めた。必死だった。
 自らのキャパシティを超えて酷使された身体は授業中の睡眠で束の間の休息を取り、教師に起こされては恥をかいたっけか。いくら山吹がエスカレーター校と言えど勉学を疎かにするわけにいかないのもわかっていて、寝ない努力もした。した、が、いつの間にか瞼は落ちていて、気が付くと時限休みになっていたりしたのだ。注意されても治らない悪癖に教師達が苦笑で済ましてくれたのは、ひとえにテニス部のエースという肩書と伴田の力添えだろう。
 仲の良い女子や違うクラスの南や東方にノートを借りることも多くなってしまった。無茶すんなよ、なんて快くノートを貸してくれている彼等にはとても感謝している。彼等の優しさに応えるのはこのテニスに措いて他ならない。
 今では居眠りしてちょっとお小言を言われるくらいは慣れっこだけれど、そんな汗と涙に包まれた努力がいまやっと芽吹いたのだ。そう、開花には至らない。まだ芽吹きの状態だ。
 己の成長の起爆剤となったのは桃城や神尾といったタフネスに満ちた二年生で、自分の限界を引き出してくれた彼等にもこっそりと感謝しつつ目を瞑った。
 これは練習試合で全国大会へ向けての肩慣らしに過ぎないけれど、一度負けてしまった相手に勝利するというのはなんとも清々しく心地良い気分だ。
 普段ならうっとおしいことこの上ない、熱い水滴が肌を伝う感覚。じりじりと照り付け体力を奪っていく太陽。鼓膜を大きく震わせる耳障りな蝉の声。それら全てが、今この瞬間は限りなく尊いものにさえ思うことが出来た。
 良かった。勝てたのだ。あのとき屈した彼に、今回ばかりは勝つことが出来たのだ。
 だからといって天狗になっていては容易に足元を掬われてしまうだろうことは想像に易かった。部内にはシングルスで千石に勝てる者はおらず、その事実に胡坐をかいていたものが拱いたのが、あの敗北なのだから。これからも精進しなければならない。

 ようやく心音が穏やかになってきた頃に千石はそっと目を開け、空気を掴んで立ち上がる。人工的な青に染められた瞳がゆらりと揺れ、桃城を映したまま示し合わせたかのように互いにネット際まで進んでいく、その一歩一歩を嬉笑しながら強く踏み締めた。
「お疲れさん、オモシロくん」
 ひらり。意気揚々と手を振ると桃城がわざとらしく溜息を吐いたが、その瞳には尽きない闘志が宿っていた。彼は敗北に悔しさを感じても、それにへこたれることはないに違いない。
 この瞳と戦うことはもうないかもしれない、と思うと感慨深く、少しばかり寂しさを感じてしまうことが事実だ。越前や壇は勿論のこと、桃城や室町、彼等二年生には“来年”があるのだ。
 三年生は引退間近だ。全国大会が終わってしまったら千石達三年生陣にはもう他校生と試合を行う機会は与えられないかもしれないけれど、彼等にはそれがあるのだ。
 羨ましいな、と素直にそう思う。夏はなんと短く、こんなにも鮮明に影を刻んでいくのだろう。
 しかし今はそんなセンチメンタルな気分に浸っている場合ではない。浸るにはまだ早い。この先には全国大会が控えているのだから、練習試合でこんな気持ちになっていてはいけない。
 ふ、と短く二酸化炭素を吐き出し、桃城の瞳を真っ直ぐに捉える。力強さを感じる、とてもいい瞳だ。
「今回は負けちゃいましたけど、次やるときは負けないっすよ」
「はは、どうかな。お手柔らかにお願いするよ」
 千石は勝利者の余裕を以てへらりと笑みを返し、手を差し伸べた。
 手汗にまみれた男の手なんて普通なら握りたくはないけれど、試合後の握手は別物だ。互いの健闘を称える神聖な握手であるのだ。
 桃城の差し出した手をぎゅっと握りしめる。どうか再び相見えんことを願って。



100825.


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