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遥かに仰ぎ、麗しの

(U-17合宿所到着直後)

 送迎バスから降りてしばらく歩いたのち、千石清純はゆったりと空を仰いだ。
 少しばかり葉の落ちた木々を染めんばかりに閑散とした青空が広がり、生気の無い乾いた薄茶色い幹も加えて絶妙なコントラストを醸し出している。
 前日の夜中に降ったという雨が少しばかり地面をぬかるませていたが、今はカラリと晴れわたっている。このぶんなら、テニスの試合自体にさしたる影響もないだろう。
 この日のためにただただがむしゃらに練習を続けてきたことを思い出し、背負ったラケットバッグのショルダーを持つ手に知らず力が入る。
 自分の弱点は克服できただろうか。詰めの甘さは。ボールに追いつけなかった走力は――。痕が残るほど強くショルダーを握りしめていることに気付いた千石は小さく息を吐き、柄にもなく緊張している自分自身に少しばかり驚いた。
 今よりも幼い中学一年生のころ、初めてコートに立った時ですら緊張のきの字も無く、始まる練習試合にただただ興奮を押し留めていた。
 一年は基本的に基礎体力作りや球拾いが主な活動内容となり、基礎がしっかりと根を張るまではなかなかコートに立たせてもらえなかった。仲の良い友人たちと毎日のようにコートに立ちたいと話し、念願叶ったときのあの高揚感。
 いざプレイをしてみても緊張などなくのびのびとした試合が出来ていたように思う。元々運動神経は悪くない。ボールに追いつき、打ち返す。その単純にしてとても難解な動作一つ一つに心が痺れたものだ。

 召集されたここには、例えば不動峰の神尾や青学の桃城のようにライバル視している相手、跡部だとか幸村だとか手の届かないような数多の選手が集っている。緩やかなカーブを描く舗装された歩道の奥向こうの敷地に一堂に会している。
 そしてもしかしたら、自分の知っているどの人物よりも強い人物もいるかもしれない。そんなことを考えると不安や期待や焦燥で肩に力が入ってしまう。コートに入ってボールを打つなんてどこでだって変わらないはずなのに、同じテニスをやるだけなのに、こうも緊張の度合いが違うものなのだろうか。
 らしくない。そう自覚し、静かに深く、朝の澄んだ空気を肺いっぱいに取り入れる。気持ちを悟られぬように努めて明るい声を発して、自分の数メートル後ろを気怠そうに歩く亜久津に声を掛けた。
 呼ばれた声に、面倒くさいだとかうざったいだとか、そういう感情を臆面も隠さずに亜久津は千石に目を遣る。普段、千石があからさまなちょっかいを出さない限りは無視していた事実を振り返ると、反応したことは世紀の快挙だ。

 千石も亜久津も南も東方もどういうわけだか、高校日本代表候補の選手達が集うという合宿に参加することとなった。勿論山吹中学校だけでなく他校の生徒も多数選出されているらしいが詳しい人数まではわからない。(だがおそらく青学、氷帝、立海は確実だと予想している)
 八月の全国大会までで自分達のテニスは終わり、意志は後輩達が受け継いでくれるだろうと思っていた。少しばかり頼りなく危なげな部分もあるが、残った彼等が立派に山吹中テニス部を担ってくれるだろう、と。
 肩の荷が降りたような、でもやはりどこか寂しいような不思議な空虚感を抱えていたが、ラッキーなことに自分達の役目はまだ終わっていなかったようなのだ。
 もしかしたらただの頭数揃えかもしれない、と思わないこともなかった。だが仮にそうだとしても、再び広大なテニスコートに皆で足を踏み入れることができるのはなんと幸いなことか。期待で胸が震えるとはまさにこのことだ、と心中で密かにガッツポーズを決めた。
「……おい」
 呼んだまま黙りこくった千石に痺れを切らせた亜久津が不愉快そうに低い声を出すが、亜久津は常に不愉快そうなので気にすることはない。
「ああ、メンゴ。亜久津がまたテニスするなんて、どんな心境の変化かなあなんて」
 呼んだことに意味なんてなかった。
 緊張なんて感じさせない余裕の笑みを作り、ちょっとした嫌味を放つ。
「帰ったっていいんだぜ」
 へらりと締まりのない笑みを浮かべる千石に亜久津はピシャリと言い放ち、それを聞いた千石は内心苦笑する。そんな生半可な気持ちで再びラケットを手にしたのではないとわかっている。ここに来ないという選択肢だってあったはずなのだ。
 けれど亜久津はそれを選ばなかった。
 亜久津は努力というものをやけに馬鹿にして嫌っているらしいので口にしないが、約二ヶ月間、亜久津がどこに行ってなにをしていたのか知っている。そして自分達と同じように招待状を受け取ったであろう彼は召集されるがまま日本に帰ってきて定刻通り学校に来て、部員の見送りも無視してバスに乗ってつまらなさそうに窓の外を眺めながら揺られていた。会話を発することもなかった。朝は殊更不機嫌そうな亜久津に、千石達から話かけることもなかった。
 あんなにも馬鹿にしていたテニスの世界に、再び自分から足を踏み入れたのだ。テニスはもうやらないなんて粋がりながらも爪先数ミリ分抜けだせずにいたのは知っていたが、またコートに立つことを選ぶなんて予想外だった。
 自分の意地を覆すことに彼がどれくらいの葛藤を要したかなんて知るすべもないがとにかく、今更やっぱりやめた、なんてカッコ悪いことを亜久津が行うとは思えない。
 それなのにしれっと帰るなんて言うのだ。それがさも自分の本意であるかのように亜久津は口にするのだ。
 ――そんなこと、出来ないくせに。
「敵前逃亡なんて亜久津らしくないなぁ」
「……テメェ」
 逃亡なんていかにも亜久津の嫌いそうな言葉を、聞こえるように発する。亜久津に喧嘩を売るという行為がどのような結末を迎えるかなんてわかりきっていることなのに、なぜか言わずにはいられなかった。少なくとも数発は殴られることを覚悟で呟いたが意外にも亜久津が殴りかかってくることはなく、少し拍子抜けする。決して殴られたかったわけではないが。
 それは時折光に反射する監視カメラのおかげかもしれないし、もしかしたら亜久津も忍耐という言葉を覚えたのかもしれない。そのどっちも、ということもある。
 これが青学の越前との試合前の亜久津だったならなににもお構いなしに殴られていたことだろう。骨の一本や二本折られていてもおかしくない。
 あの当時の亜久津はまさに全身が鋭いナイフのようであった。今じゃすっかり……というわけでもないが、随分と丸くなった。指摘したところで本人は認めないだろうが、これは確実だ。
 カツアゲの噂も程々になったし他校の不良にちょっかいを出されても大抵の事は無視するほうが多くなった。亜久津はやはり隠しているようだが、たまに後輩の面倒を見てやったりもしているようである。(亜久津本人は隠したがっているようだが、後輩が自ら嬉しそうに話して回っているのだからちょっといたたまれない)
 だからと言って他人が容易に近付けるようになったというわけではないのだろうけれど。

「なぁ、亜久津。」
 お前がまたテニスをしてくれて嬉しいよ。そう告げると亜久津は不可解そうに千石を一瞥する。
 それもそのはずで、亜久津がテニスをしたところで千石に益はない。後輩の壇のように亜久津や、亜久津自身の獰猛なテニスに憧れ惚れこんでいるわけでもない。むしろライバルが増えるぶん、それもギリギリ勝てそうにない相手なので、百害あって一利なしといったところだろうか。それでも、亜久津が再びラケットを握ることは素直に嬉しいことなのだ。理由は簡単。テニスが好きだから、だ。
「亜久津がいきなり負けたら、笑ってやるよ」
「テメェこそ、自称ラッキーがいつまで続くか見物だな」

 いっそ小気味いいくらい見下した台詞に、滅多にない亜久津の軽口。その態度に少しは認められていると思うのは自惚れかもしれない。
 幸先は良好。今ならボールが大量に降ってきても軽く受け止めることができると、そんな気すらする。



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