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カサブランカ

 一点の穢れもない白とは斯くも冷たいものだっただろうか。通い慣れた病院の細い廊下は長く長く続いている。
 患者の名字の書かれたネームプレートと部屋番号を確認し、ゆっくりと二回のノック音を響かせる。
 数秒経ってから「どうぞ」と聞こえるか細い声にこれまたゆっくりとドアノブを回して、革靴の踵を床に擦って鳴らしながら病室に踏み入るのも、もう何度目になるだろう。
 王者とまで謳われた立海大附属中テニス部の部長である幸村は、昨年の冬から病床に就いていた。
 全国三連覇を狙う矢先での予想し得ない忌々しき事態に、部内は騒然とした。苦悶の表情を浮かべる柳に、騒ぎ立てる切原や丸井、唖然とし顔を見合わせる仁王と柳生、ジャッカル。
 それを皆に伝えに来た真田は相変わらず威風堂々といった熟語をそのまま表したかのような態度であったけれど、どこか自責の念さえも背負っているように見えた。
 部活は中止にしよう、と言い出したのは誰だったか、もう覚えてはいない。
 普段ならそれに即答で否決を下すであろうあの真田でさえもしばしの沈黙を要し、「今回だけだ」と急遽部活を中止して駆け付けた白い病室に、幸村はいた。
 エタノールのどこかむずむずするような匂いに包まれた幸村は、自分もなにがなんだか、といった風情で苦笑していた。
 常時続く手足の痺れや痛みにさすがに違和感を感じ受診したはいいものの、ろくすっぽ説明も受けずにそのまま入院になってしまったのだから仕方ない。
 そのときは当事者の幸村ですら、深刻に考えてなどいなかったのだ。

 すぐに戻れるさ、と笑った幸村の言葉は未だ達成されていない。
 あの時と同じように、幸村は窓の外を見下ろしていた。初めて病室を訪れた時と違うのは流れゆく季節に、訪れている人数。
 いつもいつも部活を中止にするわけにもいかないので誰が幸村を訪れるかはローテーション制で決めていて、今日は丸井の番であった。
 ゆるやかにウェーブのかかった紺青の髪を静かに揺らし、幸村は窓から視線を外して丸井を見据えた。
 長い入院生活に、味気の無い制限された少ない食事。動かすことのなくなった筋肉は痩せ衰え、光を受け取らない肌は青白くなり、幸村の身体はすっかり生気を失ってしまっていた。
 それでも眼だけは遠くを見詰め続けている。うっすらと影を宿しながらも立海の勝利を願い、信じて止まない。
 眼下に広がる街並みや空を通り越し立海を、テニス部を、テニスコートを、掴み取るであろう栄光を盲目的に見詰め続けている。そこにはないものを追い続けている。
 幸村は強く、弱かった。丸井とこうして向かい合っている今も、この白い建物はじわじわと幸村の正常な精神を削り取っているのだ。復帰を急く気持ちが幸村を追い立てる。
 この白さが幸村の強靭でなめらかな意思を濁し腐蝕していくのだ。四方を囲む壁に天井にベッドシーツに蛍光灯に、果ては花瓶で悠々と咲き誇る花達まで白い。
 四角い白い箱の中で色を失わずにいるのはここの住人ではない丸井だけのように思えた。
 夕陽を背に穏やかに微笑む幸村を見て、目頭が熱くなる。幸村くん、と声を出すことさえもままならない。未だ手術に踏み出せないでいる幸村はなにに希望を委ねて笑うのか。
 手術はきっと成功する。しかし、それを終えた後はひたすらリハビリに励む日々だ。再びラケットを振るったとき、果たして幸村は心からテニスを楽しむことが出来るのだろうか。
 白がひたひたと丸井まで浸食していく。絞り出した言葉も吸い込まれてしまって届かない。白なんて嫌いだ。なんの救いもないのだ。差しのべた手が届くとは限らないのだ。
 幸村は微笑んでいる。辛うじて輪郭を保ちながら微笑んでいる。一点の穢れもない白とは斯くも冷たいものだっただろうか。



090108

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