Pretty Poison Pandemic | ナノ





『……速報です。X市に突如として発現した大樹“ハルピュイア”の倒壊がヒーロー協会から発表されました。協会側の説明によれば、対策委員会の研究員が対ハルピュイア専用に開発した薬物を投与したことにより急激に弱体化し、集まったヒーローたちの尽力で討伐に成功したとのことです。巨大な空洞になっていたハルピュイアの内部に突入したヒーローが少数名いたとの情報も入っていますが、詳細は不明です。怪我人の数なども公表されていません。追って対策委員会のトップが会見を開くとのことです。現場は立入禁止になっており、倒れたハルピュイアの残骸の回収および調査が終了するまでは厳重に封鎖される見込みです。安全が確認されるまで、近隣の市にお住まいの方は、絶対に近づかないでください。続報が入り次第、お伝えしていきます。………………』




その衝撃的なニュースが世間を駆け巡ったのは、夜十時を回った頃のことだった。ほんの数時間という短い間ではあったものの、ハルピュイアが巷に齎した恐怖と混乱は凄まじかった。各テレビ局が緊急で特番を組み、大勢の専門家たちが生放送で謎の大樹について熱い議論を交わしていたが、ハルピュイアの真実を正確に捉えていた者は、ヒズミの見た限り一人たりともいなかった。

そう──世界中の誰もが。
とある悲しい母娘が存在していたことを知らぬまま、危機は去り、元の平穏な生活に戻ろうとしていた。

「……………………」

スタジオで繰り広げられていた討論会から、画面が切り替わった。上空から崩れて形を失い枝と樹皮の山と化したハルピュイアを映した中継の記録が再生されている。大人数の警察とヒーローたちがその中からシェルターに収容されていた爆発事故の犠牲者の遺体や、行方不明になっていた調査団のメンバーを救出している緊迫した様子が、俯瞰の位置から捉えられている。

唐突に、山の頂上付近が雪崩を起こした。何事かと各々の作業に当たっていた全員が色めき立って──そこから大樹の瓦礫を押し退けて出てきた人物に、揃って絶句した。

そこへカメラがズーム・アップする。撮影者がよほど興奮していたらしく、映像は安定せずかなりぶれていたが、それでもしっかりとフレームに“彼女”の全身を収めていた。

一切の温度を感じさせない無表情で、いっそ戦天使を思わせる神郷的なほどの風格を持って立つ、肩の上あたりで散切りになった白い髪の先をべったりと己の血で汚した──ヒズミの姿を。

「……………………」

乾いた溜め息をひとつ吐いて、ヒズミはテレビを消した。足にローラーのついた事務椅子の背もたれに体重を預けて、蛍光灯の人工的な明かりに照らされた白い天井を仰ぐ。

そこは病室といった趣きの、清潔感に溢れる広い部屋で──宇宙人の襲来によって錯乱状態に陥った自分が収容されていた場所だった。今日の午前中まではここにいて、こんな大事件に巻き込まれるとは露ほども思っていなかったのだとは、にわかに信じられなかった。

彼女の首には包帯が巻かれている。重度の火傷に加え、限界を超えた放電による神経の壊死も見られ、主治医から絶対安静の命を受けていた。服装も血まみれのシャツから、外科手術を受ける患者が身につけるような検査着に変わっている。ゆったりとした袖から覗く枯れ木のような腕が、彼女の疲弊と憔悴を雄弁に物語っていた。

ドアが軽くノックされ、返事を待たずに開いた。小脇にカルテの挟まれたバインダーと、なぜかA4サイズのスケッチブックを抱えた、ヒズミの“主治医”──ベルティーユだった。いつもの女みたいに穏やかな面持ちで、ヒズミを見据えている。

「やあ、お待たせ。退屈させてしまったかな」
「……………………」

ヒズミはゆるゆると首を横に振った。

「君がハルピュイアから自力で“脱出”したあの映像が報道されたことで、協会に取材陣と一般市民からの問い合わせが殺到していてね。あれは例の生存者ではないのか、なぜ彼女があの場にいたのか、と説明を求めてきた……その対応で切々舞いなのさ」
「……………………」
「君が悪いわけじゃあない。そんな顔をしないでくれたまえ。それに、君にとって悪いようには恐らくならないと思う」
「…………?」
「彼らは口を揃えてこう言っているのさ──“ハルピュイアを倒したのは、彼女なのではないのか。あの大事故の、唯一の生き残りである彼女が戦って、脅威を消し去ってくれたのではないのか”と」

そう言って、ベルティーユは持っていたスケッチブックとマジックをヒズミに差し出した。声は出なくとも文字は書けるだろう、ということか。ヒズミはそれを受け取ってページをめくり、迷いなくさらさらと白紙にペンを走らせ、引っ繰り返してベルティーユに見せた。

“あれを終わらせたのは、私ではありません”

その返答には予め予測がついていたのか、ベルティーユは表情を変えなかった。ベッド脇に片されていたスツールをひとつ引っ張り出して、ヒズミの正面に腰掛ける。

「では、一体、誰なんだい? あの怪物による危機を払い、我々の世界を守ってくれた英雄は」

その問いに、再びヒズミはペンを動かす。

“ジャスティス・レッド”

──と、たった一言で簡潔に解を示した。

「……やはりな」

ベルティーユが額に手を当てて項垂れたのを見て、ヒズミはさして驚いたふうでもなく“わかってたんですね”と記した。ベルティーユは小さく頷いて、自嘲気味に口元を歪めた。

「目撃情報があったからね。私は現場にいながら奴を見落として、取り逃がしてしまったわけだが……それが結果としては幸いだったようだ。なんというか、因果なものだな……。彼はどうなった? まだX市のどこかに隠れているのか? それとも我々の目を掻い潜って、包囲網を抜けて、逃げたのか?」
“彼は死にました”

至極あっさりと。
ヒズミは真実を伝えた。

“この目で見ていましたから、間違いありません”
「……そうか」
“彼は彼なりに責任を果たしたんです”

立て続けに、ヒズミは言葉をスケッチブックに紡いでいく。

“彼はシキミちゃんを危険から救って、”
“ハルピュイアに引導を渡して、”
“閉じ込められて殺されかけた私のことも助けてくれました”
“彼は、”
“あのとき、”
“紛れもなくヒーローでした”

ベルティーユは額を押さえたまま、細い声で呟く。

「……それでも、ジャスティス・レッドは──テオドールは、許されざる黒幕だ」
“ええ。それは仰る通りです”
「しかし私たちは彼を捕らえられなかった。彼に負けたんだ……敗北を喫した。そういうことだ」
“ええ。清々しいくらい勝ち逃げされてしまいました”
「彼は……なんだったんだろうな。唾棄すべき悪党だったのか、それとも……孤高のヒーローだったのか」
“それを決めるのは私たちではありません”
「……そうだな。そうだ。我々に、結論を出せることではない……」

ベルティーユは面を上げて、眼鏡のブリッジに中指で触れて、話の向きを変えた。

「今回のハルピュイア災害について、対策委員会は君と話をしたいと言っている。さっき今すぐにでも面会させろと要求されたが、私が断った。声帯を損傷したため会話による意思の疎通が不可能な上、怪我の程度が深く衰弱が激しいから、主治医としてそんな無茶をさせるわけにはいかないと拒否させてもらった」
“お気遣い痛み入ります”
「礼はいらない。むしろ私は君に謝らなければならない……私の我儘は“今日のところは無理だ”という、それくらいしか通らなかった。明日にでも君は協会のトップ連中の会議に召喚されて、洗い浚いすべて吐かされる。それどころか、協会にとって不都合な情報を漏らさないよう強制される可能性も大いにある。君が全幅の信頼を寄せる値しないと判断された場合、なにをされるか、わかったものではない」
“それは恐ろしい話ですね”
「……そう思っているようには見えないが」
“そうですか?”
“ビビりまくってますよ、実際”

その台詞とは裏腹に、ヒズミの筆跡には震えも怯えも見られない。確固として揺らがない、強く通った芯があるようだった。

“ところで”
「? なんだい」
“私からも聞きたいことが、いくつか”
「私に答えられることならば、答えよう」
“シキミちゃんは無事ですか?”
「ああ。深海王と交戦したときと同じドーピングの痕跡が体に残っていて、まだ意識は戻っていないようだが、命に別状はない。この本部の医療室で安静にしてもらっているよ。サイタマ氏が付き添ってくれている。シキミより彼の方がよほど心配になるくらい、思い詰めた顔をしていたね。潜入作戦中ずっと行動を共にしていたそうだから、守りきれなかったことに負い目を感じているのかも知れない。……彼ほどの男でも、無力に打ちひしがれる瞬間というのは、あるものなんだね」
“二人とも生きているなら、それでいいです”
「ああ。命があること以上に喜ばしいことなどない……質問はそれだけかい?」

ベルティーユがヒズミの青い瞳の奥を射抜くように覗き込んだ。

「まだ、もうひとつ、あるんじゃないのかい?」

ほんの一瞬だけ硬直して──ヒズミは右手に握ったペンを、スケッチブックに滑らせる。

“ジェノスくんは”
“彼は、どうなりましたか?”