Pretty Poison Pandemic | ナノ





……そこは地平線の果てまで続く、美しい花畑だった。傾斜の緩やかな丘陵がどこまでもどこまでも広がっていて、一面が咲き誇る花の色合いで斑に染められている。水彩絵具で描かれた繊細な絵画のようだった。穏やかに吹く風は心地よい温かさで、高い青空を雲がゆったりと流れていく。

そんな天国のような場所に、彼らは辿り着いていた。



「…………ううん……」
「おや、お目覚めかい。お嬢さん」
「……? あなたは、だあれ?」
「名乗るほどの者じゃないよ」
「それは困るわ」
「どうしてだい?」
「どうやって呼んだらいいか、わからないもの」
「そうだね。でも僕には、もう名乗るべき名前がないんだ」
「名前がないの? 私と一緒ね」
「お揃いだ」
「でも、もうすぐおかあさんが名前をくれるわ」
「……それは楽しみだね」
「ええ、とっても。お兄さんは、どうして名前がないの?」
「僕にもね、前はすごくカッコいい名前があったんだ」
「あら、そうなの?」
「だけどね……僕は、その名前に相応しくない男だったんだ。僕が自分で汚してしまった。だからその名前は、もう僕のものじゃない。誰のものでもなくなってしまった」
「……よくわからないわ」
「そうだろうね。大人は複雑なのさ」
「前にも、そんなことを言ったひとがいたわ。誰だったかしら……」
「思い出せない?」
「なんだか、頭がぼんやりしているの。すごく眠いわ」
「寝ればいいよ。ここは暖かいから、風邪なんて引かないだろうし」
「そんなの嫌」
「嫌?」
「だって私、もっと遊びたいんだもの。もっとたくさん、お兄さんとお話をしたいわ」
「僕の話なんて、どうせ面白くもないぜ」
「そんなことないわ。聞かせて。お兄さんはどういうひとなの?」
「僕は……なんなのかなあ」
「わからないの?」
「ああ。僕は……結局、なんだったんだろう……」
「……そういえば、さっきも、自分のことがわからないっていう女のひとがいたわ……大人は複雑だって言ってたのと、同じひとよ」
「どうやらその人と僕は、似ているみたいだね」
「そうみたいね。でも、自分のことがわからないって言ってたあのひとは、やりたいことがあるって言ってたわ」
「やりたいこと?」
「会いたい人がいるんだって。そう、そのひとを待ってる、王子様がいるの」
「王子様、ねえ……」
「私も会ってみたい。王子様に」
「会えるといいね」
「ひょっとして、あなたがそうなのかしら?」
「違うと思うよ」
「どうして?」
「君みたいに素敵な女の子には、僕みたいな半端者じゃなくて、もっといい男が似合うよ」
「それは私を褒めてくれているの?」
「そうだよ。君はとってもかわいいからね。天使みたいだ」
「……わかったわ。さてはお兄さん、いろんな女の人にそう言っているわね」
「どうでもいいヤツには、言わないよ」
「そうかしら」
「特別な子にだけさ」
「ふうん……お兄さんには、会いたい人はいないの?」
「いいや。いるよ……昔の仲間にね」
「おともだちのこと?」
「そんなところだ。いつも一緒にいた。苦しいときも悲しいときも、支え合って、戦ってきた。……僕たちは正義の味方だったんだ」
「素晴らしいわ! 私も会いたい! ねえ、そのおともだちのところへ、私も連れていって」
「そうだなあ……君がこれから行く場所には、きっと彼らがいる。みんな明るくて、優しくて……気のいいヤツらだったから、君も混ぜて遊んでくれると思うよ」
「お兄さんも、一緒なんでしょう?」
「それはできない」
「えっ?」
「彼らに合わせる顔が、もう僕にはないし──なにより、きっと僕は地獄に堕ちるからね」
「じごく?」
「そう、地獄だ。天国には、僕は行けない」
「お兄さん、悪いことをしたの?」
「ああ。僕は悪党なんだ」
「そんなふうには見えないわ」
「そうかい?」
「お兄さん、とってもいいひとそうだもの。誰かに意地悪したり、泣かせたりしたがるような悪者だとは、思えないわ」
「君は優しい子だね。……そうだなあ、意地悪したかったわけでも、泣かせたかったわけでもなかったんだけど……僕は結果として、たくさんの人を傷つけてしまった」
「悲しいわね」
「そうだね、すごく悲しい……でも、そうなってしまった。すべては僕がやったことだ。その事実は消えないし、変わらない。僕はこれから閻魔様に会って、お仕置きされるのさ」
「お兄さん、かわいそう」
「ありがとう。そう言ってくれる君がいるだけで、救われるよ」
「誰も助けてくれなかったのね」
「そうだね……でも、最後まで僕を見ていてくれた人がいたから」
「見ていただけ? そんなの、ひどい。冷たいわ」
「そうでもないさ。彼女だって、僕に人生を台無しにされた被害者なんだ。普通なら殺されたって文句は言えないくらいの相手だった……それでも彼女はそうしなかった。僕を見守ってくれた……都合のいい解釈かも知れないけれど、敵である僕を信じて、見届けてくれたんだ」
「……そのひとのことを、恨んでいるの?」
「いいや。むしろ感謝してるよ。とても強くて、気高くて、綺麗で……素敵な女性だった」
「愛していたの?」
「随分ませたことを言うんだね、君は。照れちゃうな。でも、そういうんじゃないよ。あの人は、僕を憎んでいたと思うけれど……でも、とどめを刺さないでくれたのは、僕に後始末をすべて任せてくれたのは、彼女の愛だったのかなって思うよ」
「そんなの、愛っていうのかしら」
「愛っていうのは、なにも恋愛だけじゃないのさ。許せないものを許す……苦しみを飲み込んで、悔しさを押し殺して、償いを受け入れる……それもひとつの、人間が持ち得る愛の形だ」
「よくわからないわ」
「今はそれでいい。いずれ、わかるときが来るよ」
「そうね。私もいつか、大人になったら……わかるんだと、思うわ……」
「……? どうかしたのかい?」
「なんだか、私、とっても眠いの」
「我慢しなくていい。ゆっくりおやすみ」
「お兄さんと、もっとお話したいのに」
「いくらでも付き合ってあげるよ」
「それじゃ、だめなの」
「どうしてだい」
「ここで眠ってしまったら、お兄さんとはもう二度と会えない気がするの」
「……そうかも知れないね」
「そんなの嫌だわ。私、お兄さんとおともだちになりたい」
「やめておいた方がいい。僕なんかと仲良くなったら、おかあさんに怒られるよ」
「そんなことないわ。もしおかあさんが怒っても、私はお兄さんがどれだけ優しいひとなのか、ちゃんと説明するもの。そしたら、おかあさんもわかってくれるわ」
「それは心強いね」
「これも愛っていうのかしら?」
「君がそう思ってくれるなら、そうなんじゃないかな」
「私、もうひとりぼっちは嫌なの」
「……これから君が行くところには、さっき話した僕の仲間がいるから、安心するといい。彼らは正義の味方で、ヒーローだからね──君みたいな子供にも、よくしてくれるよ」
「そうね。だって、お兄さんのおともだちなんだもの、いいひとたちに決まっているわ」
「……ありがとう」
「? どうしてお礼を言うの?」
「嬉しかったからさ。彼らに会ったら、よろしく伝えておいてくれ」
「わかったわ。ちゃんと伝える。お兄さんのこと。だから、もっともっと聞かせて。お兄さんのことも、そのおともだちのことも」
「君は眠いんだろ? 静かにしておくよ」
「ベッドに入った子供には、大人がお話を聞かせてあげるものだって、おかあさんは言っていたわ」
「僕の話は、童話の絵本みたいな、いい物語じゃないよ」
「それでもいいわ。聞かせてほしいの、お兄さんのお話。それで、お兄さんはお話しながら、私の頭も撫でなきゃいけないのよ」
「いけないのかい?」
「大人はそうするものだって、おかあさんが言ってたわ」
「僕の手は汚れてる。天使みたいな君に触れるなんて、とんでもないよ」
「そんなことない。お兄さんの手、大きくって強そうで、素敵よ。正義の味方だったんでしょう? お兄さんは悪いことをしたのかも知れないけど、でも、それとおんなじその手でたくさんのひとたちを守って、助けたこともあるんでしょう? 私、かっこいいと思うわ」
「……そうかな」
「そうよ」
「僕は……正義の味方、だったんだろうか……」
「私にはわからないけど、きっとそうだったに違いないわ」
「……………………」
「お兄さん? どこか痛いの?」
「え?」
「泣いているわ」
「……違うよ。違うんだ。……僕は……僕は……ごめん。ごめんね……」
「泣かないで。私も悲しくなってしまうわ」
「ごめんね……」
「お兄さんは、優しいのね」
「……………………」
「楽しいことを考えましょう。たとえ悪いことをして、地獄に堕ちたって、楽しいことはあるはずよ。楽しいことをすれば、きっと笑えるわ。ねえ、そう思わない?」
「そうかな……楽しいことなんて、……あるかな」
「大きな声で笑って、はしゃいで遊ぶの。そうしたら、きっと楽しいわ」
「……じゃあ、僕は……地獄でパレードでも起こそうかな。一人で、寂しいかも知れないけど……それでも歌って踊って、大行進するよ」
「それは素晴らしいわ。大騒ぎしてちょうだい。私のところまで、届くくらい。きっと……お兄さんのおともだちにも、聞こえると思うわ。そしたら、私たちも一緒に歌ってあげる」
「ありがとう」
「お礼はいらないわ。私も、楽しいことは大好きだもの。ねえ、約束よ。絶対だからね、お兄さん……」



……それが夢だったのか現だったのか、知る者は誰もいない。この会話が誰と誰の間に繋がっていたものなのか、どこで交わされていたものなのか、定かになることはない──しかし約束は結ばれた。指切りはなかったけれど、それでも──確かに、そこに誓いは立てられた。

果てしなく続く楽園で。
春の訪れを告げるような微風に吹かれながら。

彼らは──それぞれの終わりを、迎えた。