Pretty Poison Pandemic | ナノ





轟音を引き連れて、大樹が崩れ出した。

夢から覚めたと思ったらすぐさま再び気絶してしまったジェノスを担いだサイタマが、シェルターの屋根らしき部分に空いた大穴を見つけた、まさにその瞬間だった。あんなにも超然と、絶対的な頑丈さでもって聳えていた大樹が、いきなり倒壊しようとしている──幾層にも重なっていた頭上の足場が落ちてくる。

「うっ、お、マジかよマジかよマジかよ」

落ちものパズルゲームのピースのように降り注ぐ、自身の背丈より何倍も大きいハルピュイアの一部たちを躱しながら、サイタマはシェルターの中に飛び込んだ。床はびっしりと枝に覆われている。警察と協会が保管していたはずの遺体は確認できなかった。しかし──樹皮の膨れ上がった、奇妙な瘤の前に倒れているシキミの姿だけは、しっかりと発見した。

「──シキミ!!」

最悪の事態がサイタマの脳裏を過ぎったが、シキミは生きていた。意識が混濁しているのか、虚ろな目で、譫言のようになにごとかを繰り返し呟いている。朦朧としながらもサイタマに意思を伝えようとしているらしかったが、その声は小さく掠れていて、ハルピュイアの悲鳴のような崩壊音に掻き消されてしまって聞き取れなかった。

「今から外に出るから、俺が連れてくから、頑張れ、しっかりしろ、すぐ病院に運んでやるから」
「……んせ……に……さん……が……」
「もういい喋るな。俺が助けるから」
「め……だめ……は……いと……けないと……」

シキミが必死に自分を制止しようとしているのは把握できたが、悠長に構っていられる状況ではなかった。この様子では、数分と経たないうちにハルピュイアは倒れるだろう。ぼやぼやしていては三人もろとも下敷きになってしまう。それだけは御免だった。

「うぅ、あ、うあああああ……っ」

なにを差し置いても、シキミだけは守りたかった。
それをシキミが望まなくとも。
褒められたものではない、ただの我儘だとしても。

「……悪いな」

泣きじゃくりながら弱々しく足掻いているシキミを無理矢理に右腕一本で抱き上げて、サイタマは脱出すべく一目散に走り出した。ヒーローらしからぬ利己的さで、迷いのなさで、自分にとってかけがえのない者たちを救うためだけに、危機から遠ざかっていく──



大樹がその命を終えようとしている気配は、繭の内側に閉じ込められているヒズミとテオドールにも伝わっていた。震動そのものは少なく、重たい塊が叩きつけられるような音も微かに遠く聞こえてくる程度だったけれど、すべてが収束しつつあるということを、二人とも悟っていた。

「……………………」

ハルピュイアの核ともいうべき“子供”の息の根を止めたことで──テオドールが細切れにしたことで、母体だった“大樹”は成長の目的を失った。存在の理由が消えた。しかし繭が瓦解せず頑丈な要塞としての体を保ったままなのは、“母親”の意地なのだろうか──執念なのだろうか。

子供がいなければ生きていけない、子供を殺した者たちを道連れにして、私も死ぬ──とでも。
いうのだろうか。
まあ。
それも仕方のないことではある。
誰だって愛する者との別れは度し難い。

ましてや他人に奪われたというのなら尚更のこと。
怨嗟と禍根と悔恨とに苛まれ──
いっそ気が狂ってしまいそうになるだろう。

それを誰より深く知っていたのは。
悲しみを胸に刻んでいたのは。

ここに立つテオドール、その人であったはずなのに──

「……………………」

彼は足元に転がる“子供”だったものの破片に彼は数秒だけ黙祷を捧げて、ヒズミに目を移した。ヒズミは座り込んだまま微動だにしない。疲れ果てて憔悴しきった様子で、白い睫毛を伏せている。首筋から漏れ出た血液で、シャツが濡れて張りついていた。

「これにて終演だ」
「…………………………」
「カーテン・コールはないから、足元に気をつけて帰ってくれ」

テオドールの軽佻な台詞にも、ヒズミは反応しなかった。発声による意思表示が不可能な状態なので、会話が成立しないのは自明の理ではあるのだけれど──彼女はぐったりと背中を丸めて、組んだ脚の上に肘をついている。

「こんなところで死にたくないだろ」
「………………」

やっとヒズミが見せたリアクションは、些細なものだった。ほんの少し顔を上げて、上目遣いにテオドールを睨んだ。その眼差しが問うている──あなただってそうでしょう、と。
テオドールは含みありげに頬を歪めた。

「僕かい? 勿論、ここに残るよ」
「………………………」
「君自身が言っていたことじゃあないか。あなたは死ぬつもりでここに来たんだろう、って」

テオドールの宣言に──
ヒズミは大きく息を吸って。
細く震わせて、吐いた。

「この悪夢みたいな惨劇は、僕が考えて、僕が始めて、僕が成したことだから、きっちり終わらせなければならない──これも君が言ったことだ」
「……………………」
「逃げるのか、とでも言いたげな顔だね」

ヒズミは答えない。
答えることが、できない。

「そうさ。僕は逃げるんだ。ヒーローに守られて当然だと思ってる平和ボケした連中の作った法律に裁かれるなんて御免だ。反吐が出るよ。そんな醜態を晒すくらいなら、ここで死んだ方がマシだ。僕は──悪党だからね」
「……………………」
「でも僕は悪党である前に、大人の男でもある」
「……………………」
「責任は取るよ」
「……………………」

ざわざわと、淡い白光を放つ花が蠢きだした──最後の力を振り絞って、増殖している。水面に泡が立つように次々と浮かび、体積を増し、床に散らばる“子供”の残骸と、テオドールを飲み込もうとする。

「軽蔑するがいい。侮蔑するがいい。このテオドール・ファン・ヴァレンタインを。歴史に残る大悪として、永劫ずっとヒーロー協会の忌むべき汚点として語り継ぐがいい。恨め。怨め。憾め。お前たちの怠惰が穢した、慢心が貶めた、傲岸が陥れた、正義の鉄槌“ジャスティス・レッド”を──僕の名を、忘れるな」

高らかに響き渡る──口上。
そして彼は、ばっ、と両手を広げた。革手袋から伸びた鋼線が、空中に不規則な模様を描いて、繭を切り裂いた──花に覆い隠されていた樹皮の壁は切断されて無数のブロック片と化し、ばらばらになって、ヒズミの背後にシェルターの広い空間が開けた。

「…………………」

ヒズミの口が僅かに動いた。そこから隙間風のような、声ですらない音が漏れた。しかしテオドールには、読唇術の心得もある──彼女の発した言葉を読み取ることができた。

たった一言。

──忘れませんよ。

それは彼を絶対に許さないという決別でありながら。
同時に、その悲愴を受容するという恩赦でもあった。

繭を破壊されても、花々は際限なく殖え続けていた。テオドールの腰から下を既に取り込んでいる。花弁の透き通った輝きは、まるで後光のようですらあった。

「……“彼”に伝えておいてくれ」
「……………………」
「僕はもう、君が憧れたヒーローじゃない。ジャスティス・レッドは七年前に死んだ。それでも──それでも君が、まだ正義の味方になりたいと、正義の味方でいたいと思えるなら、決して僕のようにはなるな」
「……………………」
「幼稚な正義感に酔い痴れて、己の弱さに直面して打ちのめされて道を踏み外した、僕のようなくだらない男には、絶対にならないでくれ」

テオドールが伊達眼鏡を外して、ヒズミに放り投げた。ヒズミはそれを片手で受け取って──伝言と共に託された彼の“形見”を預かって、しっかりと握る。

彼の肩が光に埋まる。
柔らかく──包まれていく。

「……………………」
「あと──君にも」
「……………………」
「本当に、すまなかった」
「……………………………………、」
「ありがとう」

己が野望のために都市ひとつ滅ぼし、多くの生命を奪った、巨悪テオドール・ファン・ヴァレンタイン──“ジャスティス・レッド”が最期に遺したのは、ごくごくありふれた、すっかり使い古されてしまって面白味のない、そんな凡庸なフレーズだった。

彼の輪郭は白く塗り潰されて、
鼓膜に痛い静寂が三秒、



ぐしゃっ──と。



白い花が密集した塊の内側から、なにか弾力のあるモノが圧迫されて押し潰されるような不気味な音が、一度だけ空気を震わした。

他にはもう──なにもなかった。
なにも残っていなかった。
舞台は終わった。
けれど拍手も歓声もない。

しかし──たったひとりの“観客”は。
その“傍観者”は。
確かにエンディングを見届けた。
とある哀れな男の、袋小路の物語を、正真正銘ラストまで。

「……おやすみ。ハルピュイア」

彼女が爛れた喉で囁いた、その見送りの言葉は。

「おつかれさん。──ジャスティス・レッド」

果たして。
消えゆく彼らにも聞こえていただろうか。