Pretty Poison Pandemic | ナノ





母親と自分を繋いでいた“臍の緒”が切られても、少女は特に変化を見せなかった。気づいてさえいないのかも知れない。髪と同じ若草色の瞳で、シキミとヒズミと──新たに現れた、赤ずくめの男をじっと見つめている。

「あなたは……!」
「やあ、無事だったんだね。よかった」

驚きに目を瞠っているシキミに、赤色の男は軽く手を挙げてみせた。彼もまたサイタマの暴走によって奈落の底へと突き落とされた立場であるのだが、負傷している様子はない。健在だった。

「シキミちゃん、知り合いなの?」
「ハルピュイアの頭を目指して登っている最中に攻撃を受けて投げ飛ばされたところを、この方に助けていただいたんです。この方がいなかったら、あたし、墜落して……死んでました」
「……そっか」

なぜかヒズミは苦虫を噛み潰したような渋い顔をしている。彼女も赤色の男と顔見知りであるようなのだが、とても再会を喜んでいるふうではない。むしろ敵愾心さえも垣間見える。この二人の事情に明るくないシキミには、それはかなり気がかりな点ではあったのだけれど──そんなことよりも。

臍の緒の断面はすっぱりと滑らかで、極限まで研ぎ澄まされた刃でなければこうはいかないだろう。もしくは──彼が駆使していた、桁外れの強度を持つ、あの特別製の鋼線とか──

「あ、あの、あなた、今……“臍の緒”を……」
「あれが生命線かも知れないんだろ? 話は聞かせてもらってた。だから切った」
「えっ、あ……そんな……」
「あまり効果はなかったみたいだけどね」

飄々と肩をすくめて、赤色の男が繭の中へと足を踏み入れた、その刹那。

かっ──と。
“母親”の目が開いた。

同時に空間を取り囲む白い花々が急激に肥大化していく。体積を増して、不気味に蠢いて、一気に雪崩れのように──膝立ちで呆けていたシキミめがけて殺到した。

「──え、」

突然の出来事に、心臓が大きく跳ね上がる。恐らく“臍の緒”が切断されたのを感知して、さっき拳銃を構えていたシキミこそが排除すべき敵であると“大樹”が判じたのだろう──赤色の男が操る極細のストリングスを認識できなかったらしい。愛する“子供”を守るために、この聖域たる繭から追い出さなければならないと反応したのだ。

「シキミちゃんっ!」

ヒズミが血相を変えて飛び出したが、遅かった──花の濁流に呑まれて、シキミの華奢な痩躯は繭の外へ押し流された。敵を出口の外に転がして、花は繭の中へするすると潮が引くように戻っていく。シキミはすぐさま起き上がろうとしたが、今の突撃によるダメージと、ドーピングの後遺症のせいで体が思うように動かない。枝の床に肘をついて、胸から上を持ち上げるだけで精一杯だった。

彼女は霞む視界の中──繭の断裂が、徐々に閉じていくのを見た。
“子供”に害悪を齎すシキミを排斥して、もう二度と侵入を許さないよう、出口を塞いでいく。

ヒズミと深紅の彼はそのまま閉じ込めてしまって、“子供”の遊び相手にでもさせるつもりなのだろうか。従わないのなら、シキミのように危害を加えるというなら、容赦なく牙を剥くつもりで──

「ま……待って、やだ、待っ……」
「………………」

少しずつ狭くなっていく出口にヒズミが駆け寄って、しかし──外へは出なかった。内側からシキミが生きて自力で動いていることを確認して、足を止めた。

「ヒズミさん、早く脱出を──危険ですっ!」
「……ごめん」
「ヒズミさんっ!!」
「私は行けない」

やらなきゃならないことがあるから。
黒焦げの喉から──絞り出された彼女の決意。

「ごめんね」
「や、やめてください、そんな──」

匍匐前進と呼ぶには少々みっともない這い蹲り方で、シキミは諦めずに繭へ戻ろうとする──が、繭の再生の方がそれよりも早かった。シキミの目の前で、ヒズミを内包したまま、出口はゆっくりと閉ざされていく。

「もし私が帰らなかったら、先生によろしく言っといて」
「や──やめっ……」
「あと教授にも。お世話になりましたって」
「そんなの──嫌ですっ!」
「本当に、ごめん」

ヒズミの心は揺らぎそうもなかった。
固く引き締まった表情が──それを物語っている。
それでも認めたくなくて、受け入れたくなくて、シキミは声の限り叫ぶ。

「勝手なこと言わないでください!! あたしもっ、先生もっ、教授も……ジェノスさんだって──ジェノスさんだって!! ヒズミさんを待ってるんじゃないんですか!!」
「……そうだといいな」
「ヒズミさん、」
「あの子にも、伝えておいてほしい」
「ヒズミさ──」
「今までずっとごめんね、って」

──いやだ。
──やめて。
聞きたいのはそんな言葉じゃない。
もう会うことのないみたいな別れの台詞じゃない。

どうして──
なんでこんなことに──

録画映像を巻き戻すように、音もなく断裂は亀裂になり、亀裂は壁になった。

「……やだ、やだぁあ、いや……」

衣服を汚しながら繭まで這って追い縋り、シキミは出口を抉じ開けようと試みる。ホルスターからヴェノムを引き抜こうとして、指先は空を切った。どうやら放り出されたときに零れ落ちてしまったようだ──繭の中に。

分厚い樹皮の向こう側にいるヒズミの名前を叫びながら、壁を繰り返し渾身の力で叩く。皮膚が擦り切れて皮が捲れた。削り落とそうとして引っ掻く。爪が割れて血が滲んだ。痛かった──体も、心も。

「……誰か、……誰か……」

それは。
曲りなりにもヒーローであるシキミが口に出すことは、到底許されはしない言葉だったけれど、孤軍奮闘で打開できる戦況ではとても有り得なかったし──

そもそも。
聞いている者など誰もいなかった。

「誰か──助けて……」



無論、ヒズミにも“ジャスティス・レッド”にもシキミの悲痛な懇願は届いていなかった。二人はお互いに視線を釘付けにしたまま、膠着している。

「やっと会えたね。嬉しいよ」
「子供の前で、そんな口説き文句を吐きますか」
「僕は情熱的な男なんだ」
「はあ。さいで」
「ところで、その首、どうしたんだい」
「ちょっと首絞めプレイが行き過ぎました」
「……それこそ、子供の前で言う台詞じゃあないな」

苦笑して、深紅に身を染めた男は被っていたヘルメットを脱いだ。
乱れた茶髪を掻き上げて、その貌を露わにさせる。

「相変わらずの男前で。──テオドールさん」
「褒めたって、なにも出ないよ」
「それは残念ですね」
「立ち話もなんだから、そこに座ってくれ」
「そんな自分の家みたいな」
「家みたいなものだ。ここは僕の“基地”があった場所だし」
「それは“地下研究所”のことですか?」
「ああ──あれは、僕のすべてだった」

もう失くなってしまったがね──と、テオドールは大して感慨深くもなさげに言って、ライダース・ジャケットの内ポケットから黒縁の眼鏡を取り出して掛けた。そしてその場に腰を下ろす。ヒズミもそれに倣って、尻を落ち着けた。ぎりぎり普通の声量で会話ができるくらいの距離を保って対峙する。

少女は先程から、花と戯れるのに夢中になっていた。花粉のように舞い上がる光の粒子を眺めたり、自分の背丈より大きな花弁に抱きついてもふもふするのに忙しく、ヒズミのこともテオドールのことも眼中にないようだった。

「大体の事情は聞きました」
「そうかい」
「お悔み申し上げます」
「ありがとう。……そんなふうに言ってくれたのは、君だけだ」
「どいつもこいつも薄情ですね」
「当時は、怪人による災害が明るみに出始めたばかりで、民衆は不安と恐怖に震えていた……ヒーローなんて肩書きはまだ浸透してなかったから、僕たちに対する風当たりも強かった。それでも死ぬ気で戦っていたよ。世界を守りたかったからね」

気障ったらしく、格好をつけてテオドールは笑う。
対して、ヒズミはずっと無表情のままだ。

「誰も彼もが自分のことばかりだ。自分が傷つかないようにするのに必死で、他人を思いやれない。悲しいな、人間というイキモノは」
「それは、あなたにも言えることなのでは?」
「……そうだな」
「あなたは、あなたの誇りとプライドに懸けて、仲間の復讐を決めた。自分の腹の虫を収めるためだけに、多くの人々を殺そうとした。そして──不本意の事故とはいえ、あなたの撒いた種が起こした爆発によって、多くの人が亡くなった」
「そうだな」
「あなたが殺したんだ」
「そうだ。君の家族も隣人も友人も恋人も、僕が奪った。街ごと壊した」

テオドールの悍ましい語りにも、ヒズミは顔色を変えない。ただ火傷が痛むのか、しきりに首元を撫でている。

「残念ですけど、私、友達も彼氏もいなかったんで」
「そうかい。紹介しようか?」
「遠慮しておきます。間に合ってますから」
「それは重畳だ」

テオドールは戯けて口角を吊り上げた。

「それで──君はどうするんだ」
「…………………………」
「僕をここで殺して、故郷の仇を討つのか?」

テオドールは柔和な笑みを浮かべていたが、その目に冗句の色はなかった。ひたすらに怜悧で、無機質で、感情の揺れが見えない。そんな彼に、ヒズミは間髪も入れず、

「……そんなことはしませんよ」

きっぱりと告げる。

「私がどうこうしなくたって、結果は変わらない……あなたはどのみち死ぬつもりでここに来た。違いますか」
「どうして、そう思う?」
「あなたに負けて、自首しようとしていた私と同じ目をしてる」

テオドール一派の闇討ちに遭い、ジェノス共々いいように弄ばれ、白旗を振って協会へと“出頭”すべく電車に乗った自分と──なにもかも諦めて命を捨てて、早く地獄を終わらせてしまいたいと望んでいた自分と。
心を鏡で映したように。
似通っている。

「それでどうする? 僕を止めるか?」
「いいえ」

問うたテオドール本人が面喰らうほど即答だった。

「どうせ放っといたって死刑になるでしょうからね」
「……ひどい女だな」
「優しい心の麻痺した現代っ子ですので」
「ゆとり世代ってヤツか……やれやれ」

ゆるゆると首を振って、テオドールは眼鏡のリムに触れた。

「それに、私が果たすべき責務は、別のところにあると思ってます」
「別のところ?」
「あなたの下した決断の、その最期を見届ける」

それこそが、唯一生き残った自分に課せられた使命であると。
ヒズミはテオドールから目を逸らさず、そう言い切った。

「ここから先、私はただの傍観者です。そして証人です。あなたが犯した罪を償うのを、ただ見守るだけです。口も手も出しません。好きにしてください」
「……ひどい女だ。本当に」

俯いて、テオドールは黙り込んだ。美しい蓮に囲まれた密室に、重苦しい沈黙が漂う。しばらくの間そうして下を向いていた彼だったが──やがて顔を上げた。その視線はヒズミではなく、一人遊びに没頭している少女に注がれている。

この物語も──そろそろ。
エンド・ロールが流れ出すときが、近いようだ。