Pretty Poison Pandemic | ナノ





かの有名な荒法師、武蔵坊弁慶には、こんな逸話がある──母親の胎内で三年間もの月日を過ごし、生まれたときには髪が背に届くまで伸びており、既に歯も生え揃っていたという──まあ、古い言い伝えによくある御伽話の類だ。それらの突拍子もない伝記に対してシキミは、時代を変えた偉人の素晴らしさを後世へ語り継ぐために、どうせ当時の人々が意図的に記録へ脚色を加えたんだろうな、とやや冷めた眼差しを向けていた。

そんな眉唾物の物語を──彼女は今、思い出していた。

繭の断裂から、這い這いで外へ出ようとする生まれたばかりの彼女は、とても新生児には見えない。来年には幼稚園に入るんです、と言われたら信じてしまうだろう。顔つきもしっかりしている──白く光る蓮に包まれて安らかに眠っている“母親”と、目元がそっくりだった。

シキミが双眸を瞠って呆然自失に立ち竦んでいる横で、ヒズミが一歩、前に出た。そのまま繭の内側へ入っていく。ぺたぺたと不安定な四つん這いでこちらへ進んでくる、生まれたての“ハルピュイア”の前に立ちはだかる──行く手を塞いで、遮るように。

「……ヒズミさん……?」

怒濤の展開と、ドーピングの反動で満身創痍になっているシキミも、ふらふらとヒズミに続いて繭の中に足を踏み入れた。ぼんやりと淡い輝きを放つ花々の、幻想的な威圧感に呑まれそうになる──意識を繋ぐ糸が切れそうになる。

「あー……、あう?」

少女は自分を見下ろしているヒズミをじっと見つめ返しながら、このひとは誰だろう、といったふうに首を傾げている。どうしてこのひとは、こんなにも悲しそうな顔をしているのだろう──と。

しかし言葉を話すほどの知性は持ち合わせていないようだった。ヒズミとシキミが見ていたあの“夢”とは、その点のみが違っていた。

「ヒズミさん、この子は……」
「……多くの人に危害を加えた怪物だ。放っておけない、外に出すわけにはいかない、……生かしておくわけにはいかないって、協会は判断するんじゃないかな」
「そ──そんな……危害っていったって……たかだか“夢”じゃないですか! それで……こ……殺してしまうんですか? まだ、生まれたばっかりで……赤ちゃんなのに──」
「ドラゴン召喚されたんだろ? それ自体はシキミちゃんを助けるためだったとはいえ──“女の子に意地悪してた”サイタマ先生には、牙を剥いたんじゃねーの? ひょっとしたら、今も戦ってるかも知れない。あの人が易々とやられるとは思えねーけど……自分が敵だと認識したものには、そうやって容赦なく攻撃を加える」
「でもそれは、樹が──この子の“母親”が……」
「さっきの“夢”で、この子が言ってたこと、覚えてる?」

シキミはひゅっと息を吸い込んで、押し黙る。

──今度は私が魔法使いになるの。
──おかあさんの力を、もらうの。

「この“大樹”は、この子のものになる。サイタマ先生の隙を突いて、A級ヒーローのシキミちゃんを拉致できるくらいの、強大すぎる能力がこの子のものになる。言葉も通じなくて、倫理も知らなくて、正常な判断なんてまだとてもできない赤ん坊が、街ひとつ滅亡させられる化け物の指揮者になるんだ。恐ろしい話だと思うけど」
「この子が“成長”したら……知能が芽生えたら、制御できるのでは……」
「それにしたって確証はない。たとえこの子の抑制が可能になるとしても、何年先の話だろうな。それまで待つの? 気長に育てるの? 誰が? 腹が減っただの眠たいだのでしょっちゅう癇癪を起こされたら、ヒーローたちだってひとたまりもねーと思うけど。夜泣きで暴れ出したらどうするの?」
「それは……」
「幻覚作用だってそうだ。あれも“大樹”の異能だろ。たかだか“夢”ってシキミちゃんは言ったけど、人間に強制的に“悪夢”を見せて、精神に悪影響を及ぼす──とんだトラウマ製造機だよ。それだけで脅威だ。そんなものが世間に受け入れてもらえるのかな。サイタマ先生がどうなったか、シキミちゃん、見てたんだろ?」
「……………………」

ヒズミの口振りには一切の迷いがない。まるで“自分自身も、悪夢によって狂乱に陥った誰かと遭遇したからわかる”とでも言いたげな──

「そんで多分、あの“夢”にも意味があるんだ」
「意、味……ですか……?」
「あの子が花畑でくるくる踊りながら、言ってたろ──“おかあさんはとても痛がっているけれど、力を吸い込んで、がんばって耐えている”って」

シキミはもう、頷くこともできない。

「これもただの憶測だけど、多分“力を吸い込む”っていうのは“悪夢”のせいで衰弱した人たちの生命力を奪って我が物とするってことなんじゃねーかと思う。“母親”の胎内にいるうちは“大樹”が根っこから吸収した栄養で生きていけたんだろうけど、彼女はもう産まれてしまった。“母親”から離れてしまった。自分自身で糧を得なければならない。そのための“システム”が、あの“悪夢”なんじゃねーかな。もし本当にそうなんだとしたら、この子が大きくなるために──“成長”するために、どれだけの一般市民が犠牲になるんだろう」
「………………………………、」
「そういうことだよ」

ヒズミの並べる弁論は難解で、少女はヒズミとシキミを交互に見比べながら、きょとんとしている。産まれたばかりの自分を生かすとか殺すとか、そんな物騒な話をしているなどとは、まったく理解していないのだろう。

そこでシキミはあるものに気づく──少女の身につけているワンピースのような衣服の、その裾からなにかが生えている。ぶよぶよとした肉感のある、肌色の尻尾に見えた。それが床の上に伸びて、白い蓮たちに溶け込むようにして一体化している“母親”のもとへ続いている。

「あれは、まさか……臍の緒……?」
「みたいなもんかな」
「切り落としたら……どうなるんでしょうか」
「さあ……でも臍の緒って、出産のときに医者が切っちゃうんじゃないっけ? 外に出てきたら、もう必要ないものなんじゃねーのかな。もっとも、産まれたあとも“子供”が一定のレヴェルに成長するまでは“大樹”が臍の緒から養分を送り込むっていう生態なら、致命傷になるんだろうけど」
「……………………」

シキミの目の前で、少女は──ふらふらと立ち上がった。そして左右に揺れながら、しかし倒れて転ぶことなどなく、バランスを取るように両腕を前に突き出した姿勢で歩き出す。さっきまで覚束ない四つん這いで移動していたのに、もう二足歩行を習得して、二人へ近寄ってくる──普通の人間には有り得ない驚異的な速度で、成長していた。

ぞくっ、と言い知れぬ悪寒がシキミを襲う。恐怖に駆られる。反射的に腰に差していたスチェッキンを引き抜いて、すぐ側までやってきた少女の額に照準を合わせた。

引鉄を絞れば、放たれた弾丸が、一瞬で少女の頭を貫通して風穴を空けるだろう。
それだけでハルピュイア災害の拡大を阻止できるだろう。

ずっとずっと外に広がる未知の世界へ期待を抱いていたのに、愛する母親と対面できる瞬間を心待ちにしていたのに、他にはなにもなくて、本当にそれだけだったのに、不幸な事故に巻き込まれてしまったばかりに望まぬ化け物へと変貌し、ただ生きていくだけのことさえ許されない存在へと進化した、罪のない、汚れも知らない、この世の誰より清らかで美しい心を持つ幼い彼女は。

──短すぎる生涯の幕を閉ざすだろう。

「……ううう……っ」

滑稽なほど右手が震える。少女は──あろうことか、無邪気に笑っている。シキミが構えている金属の塊を玩具かなにかだと思っているのか、きゃっきゃっとはしゃぎながら手を伸ばして触れようとしてくる。それで私と遊んでくれるのかしら、とでもいうように、なんの恐れも、なんの疑いもなく、底抜けに嬉しそうだった──

そう。
嬉しそうだった。

それもそうだろう。
なにせ──
あれだけ楽しみにしていたのだから。

外に出られるのを、
“おかあさん”に会えるのを、
いろいろな人と仲良くなれるのを、
未来への希望に満ち溢れて、
あれだけ──
強く待ち望んでいたのだから。

その無垢な祈りを断ち切って終わらせることでしか危機は回避できないのだと、世界を守るためにはそうするしかないのだと、頭で重々わかってはいても。

──撃てるわけがなかった。

「うあ、あぁあ、ああああああっ……!」

スチェッキンがシキミの手から滑り落ちて、地面に落ちた。がしゃん、と重たい音が響く。少女は突如として顔を両手で覆って泣き崩れたシキミに、不安そうな表情を浮かべている。心配しているようだった。どこか痛いの? 悲しいことがあったの? と、つぶらな瞳で訴えかけている。

ヒズミがシキミの肩に右手を置いて励ますように軽く叩き、拳銃を拾った。他者を殺傷するために造られた武器の重みが、ずしりとヒズミの細腕に圧し掛かる。

「シキミちゃんが悪いんじゃない」

グリップの感触を確かめて、しっかりと握り締める。

「こんな業をシキミちゃんが背負う必要なんてないんだ」
「…………、ヒズミ、さん……」
「これ、ちょっと借りるよ」

使い方は、教授に匿ってもらっていた頃に教わっていた。
実際に生きているモノを撃つのは、初めてだったけれど。

「やめてください、ヒズミさん、だめ……」
「大丈夫」
「お願いです、やめて、だめです……」
「大丈夫だから」

ぼろぼろと涙を流しているシキミを宥めて、ヒズミは頬を綻ばせた。そこで初めて、シキミは彼女の現状を見た──縮れた白髪の襟足に隠れていた首元の、焼け爛れて真っ黒に焦げた惨状を真正面から知った。

「ヒズミさん、それ、首……なんで」
「ああ、これ? 因果応報だよ」
「え……」
「罪には罰ってこと」

さっきからヒズミの声色がおかしかったのは、これが原因だったのだ。声帯まで火傷が及んでいるのだろう。因果応報、とは、一体どういう意味なのか。

ヒズミはそれきり薄い唇を真一文字に結んで、なにも言わなかった。この距離ならば、いくら素人の彼女でも標的を外すことはない。持ち慣れない手中の兵器をゆっくりと動かして、銃口をぴたりと、少女の左胸へ──トリガーに人差し指をかけて──



割り込んできたのは、風を切る音だった。



ひゅっ、と空気が細く鳴いて、次の瞬間には、少女と母親を繋いでいた“臍の緒”が真ん中で切断されていた。不可視の斬撃を食らった、赤黒い肉の断面が晒される。ヒズミとシキミは同時に背後を振り返った。

繭の外、断裂の向こう側に立っていたのは──

赤いフルフェイス・ヘルメット。
赤いジャケット。
赤いボトムスに──赤いブーツ。

両手に装着している革手袋だけが黒い。
燃え滾る炎に似た正義感に、一粒の闇。

彼のその姿を、ヒズミはこのとき初めて見たのだが──脳裏に焼きついて剥がれない忌まわしい記憶が瞬時にその正体を、正解を導き出していた。

戦隊モノのリーダーのように──
脳天から爪先まで赤ずくめのそいつは。
かつて平和のために悪と戦い、志半ばで仲間を失い、無責任で無関心な民衆に復讐を誓った、悲しい赤。
それは炎の色でありながら。
血の色でもある。

「……“ジャスティス・レッド”……」

掠れた声で、その名を呼ぶヒズミ。
その蒼い虹彩が揺れて、前髪から火花がひとつ飛んだ。