Pretty Poison Pandemic | ナノ





「な……なに、これ……?」

不可思議な“夢”から現実に戻ってきて、開口一番シキミは呆然とそう呟いた。

ここは一体どこなのか、なぜ自分が今ここにいるのか、ハルピュイアはどうなったのか、気を失っていた間になにがあったのか──とにもかくにもどうにもこうにもわからないことだらけだったが、目の前に圧倒的な存在感でもって鎮座するその“繭”に、まずシキミは驚愕していた。

樹皮が膨れ上がって、瘤のような形になっている。自分が置いてもらっている廃墟地帯のワンルーム・マンションの部屋より、占めている面積は大きいだろう。表面を注視してみれば、樹皮と同じ色と質感をした細い管がびっしりと無数に浮き上がって犇めいていた。それらは生物の血管のように──蠢いている。一定の拍動で脈打っている。

「おはよう。気分はどう?」

安置された遺体の群を覆い隠すように伸びて絡み合う枝の上にへたりこんだまま唖然としていたシキミに、ヒズミの声が降ってきた。なぜかひどく掠れている。鑢で削ったみたいな嗄れ方だった。口の端に煙草を挟んだまま、器用に喋っているらしい。こちらを向いてはいないので、表情は見えなかった。

「あ、えっと……だい、じょぶ、です」
「いい夢見れた?」
「…………“夢”──」

ヒズミの言葉に、はっ、とシキミは我に返る。
ふたり揃って唐突に飛ばされてしまった、あの天国を体現したような花畑と──
そこにいた、謎だらけの幼い少女。

「あの……あの女の子は、一体……? ヒズミさん、覚えてるでしょう? なにか知ってるんですか? この“樹”がなんなのか、ヒズミさんには、もうわかっているんですか?」

図らずも必死な口調になってしまう。実際かなり切羽詰まっているので、致し方のないことなのだけれど──ヒズミの方はというと、焦った様子も慌てる気配もなく、淡々としている。

「今から話すことは全部まるっと私の勘だから、真に受けないで聞いてほしいんだけど」
「……はい」
「あの子は──多分、私と一緒だ」
「ヒズミさんと……?」

その発言の真に意図するところがわからず、シキミは眉をひそめる。

「それは、どういう……」
「──“X市地下研究所爆発事故の生存者”だよ」

ヒズミの台詞は、シキミの理解の範疇を軽々と超えた。

「そんな──そんなことがあるわけ……」
「どうして言い切れる?」
「だ、だって……もうX市の現場調査っていうか、事故に巻き込まれた人たちの捜索は終わって、見つかった遺体は回収されたんじゃないんですか? 生き残った人はヒズミさん以外にいなかったんじゃないんですか? そ、それに、本当に生存者がいたとして、あの子がそうだったとして……どこにいるんですか? 顔とか名前とか調べられて、公表されて、もっと大騒ぎになるんじゃないんですか?」
「ならないんだよなあ、それが」

短くなった煙草を踵で踏みつけながら、ヒズミはすかさず二本目に着火する。白い煙が立ち上って、ゆらゆらと漂って、あっという間に空気中に溶けていく。

「あの子、まだ戸籍とか身分証明とか、そういうのないだろうから。きっと名前も……いや、それはあったのかな。今となっては誰にもわかんねーことだけど」
「………………?」
「誰の目にも見えないところで生きていたんだ」
「……目に見えないところ……?」
「人間が生まれてくる前、どこにいるのか、保健体育で習わなかった?」

そこでシキミは、やっと──
ヒズミの出した結論の全貌を悟った。
察してしまった。
そして脳裏に過ぎらせる──あの“夢”の中で出会った少女が口にしていた言葉の数々を。

もうすぐ外に出られるの。

いろいろな人に会えるわ。

おかあさんにも初めて会えるのよ。

楽しみだわ!



「──……母親の、お腹の中……」



まさか。
そんなことが。
そんな馬鹿げたことがあるはずがない──と否定したいのに、くらくらと眩暈がして、それができない。

「そんで、この“樹”は“母体”だ」
「母体……」
「研究所が爆発したときに流出した、人工的に化け物を造り出すための薬だか毒だかの成分が、その辺に生えてた雑草に少しずつ影響を齎していったたんだろ。こんな大樹になれるくらいの、凄まじい生命力みたいのを与えてしまった。植物だろうがなんだろうが、生きてるものなら、生存本能がある。もっと育って大きくなりたい、っていう欲求がある──人間と同じだ。それが恐らく、近くで爆発を受けたごくごく普通の妊婦と“同調”した」
「……同調……ですか?」
「同化と言ってもいいかも知れない。遺体の回収には……警察だか自衛隊だかが事故現場を完璧に洗い浚いにできるまでには、結構な時間が掛かったんだろ? だったら“死にかけまで衰弱しながら、それでもかろうじて何日かは生きてた人”がいたって変じゃない──“瓦礫の下敷きになって動けなくなって、極限状態で、目についたもの食って繋いでた妊婦”がいたって、おかしくはない。研究所の薬剤を浴びた土とか、雨とか、草の根っことか──それらを食って取り入れて、徐々に血肉を汚染されて、化け物になってしまった。私みたいに」
「ヒズミさんは化け物なんかじゃないです」

シキミがきっぱりと口にした宣言に、ありがとう、とヒズミは振り返らずに息だけ洩らして、そして続ける。

「トリガーは、なんだったんだろうな──“子供”の“この世に生を享けたい”っていう願望だったのか、“母親”の“愛する我が子を産んであげたい”っていう執念だったのか、“大樹”の“更なる成長のために人間を利用しよう”っていう進化だったのか……そこまではわからないけど、とにかく全員の利害が一致した。足並みが揃った。生きたい──こんなところで死にたくない、っていう目的のもとに」

予め用意されていた台本を読み上げるかのように、ヒズミの論説には澱みがない。ただの勘だと前置きしていたが、彼女の内にはもう確信があるのだろう──根拠はなくとも。

「“母体”たる樹がこの場所に──シェルターの上に生えてきたっていうことを鑑みるに、つまり“母親”は遺体としてここに運ばれていたんだろう。しかし“子供”はその腹の中で、まだ生きていた。たぶん“母親”は自分の一部となった“大樹”の力を借りて吸収した栄養分を、すべて“子供”に与えたんだ。ちゃんと生まれてこられる分だけの備蓄をしてから息絶えた。そんで、彼女の残留思念は自分の中に寄生する“大樹”を完全に取り込んでいた。成長のベクトルを支配した。思考を持たない、ただの植物である“大樹”は“母親”の遺志──“子供”を無事に産み落とさねばならない、っていう妄執に取り憑かれたんじゃねーかな。そうして“大樹”の生命力は“子供”を守ることのみに注がれた。“子供”が、この世に生まれ落ちる準備が整うまで」
「……いきなり、爆発的に樹が大きくなったのは……」
「その準備が整ったからだろ。これから生まれてくる無力で無知で無防備な“子供”を守るために、“大樹”そのものが要塞になろうとしたんじゃねーのかな」

ぴしり、と。
──繭に亀裂が入った。

内包していたものが外に出ようとするかのように──卵の殻が破られるときのように、ぴしり、ぴしり、と罅が増えていく。樹皮の欠片がぱらぱらと落ちる。無意識のうちに、シキミは緊張から喉を鳴らしていた。

「ところでさ、シキミちゃん」
「……なんですか?」
「警察とかヒーロー協会は、もう当然この樹に気づいてるよね?」
「え? あ、えっと、はい。ニュースでも報道されてます」
「そっか。名前とか、ついてるのかな」
「協会の方は、便宜上“ハルピュイア”と呼んでいましたが……」
「ハルピュイア? ……聞いたことあるな……神話に出てくる、女の貌した鳥の怪物だっけ?」
「そうです。外から見ると、この樹、翼の生えた女性みたいな形をしてるんです。こう、体の前で手を組んで、佇んでるみたいな……女神像みたいでした」
「……なるほろ。聖母ってわけだ──それにしちゃ、ハルピュイアってのは随分なネーミングだと思うけどな。あれって醜い老婆なんじゃなかったっけ? 読んだの何年も前だから、あんまり覚えてねーけど……ともあれ、たくさんの大人が頭を振り絞って考えてくれた名前なわけだ。ありがたく頂戴してやってほしいところだな」

ヒズミの軽口を聞きながら、シキミはひとつ、とある事実に思い至る──自分が目覚めて、堂々とシェルターを陣取っているこの塊を初めて見たとき、なぜ直観的に“繭”という単語を連想したのか。

繭とはそもそも、活動の鈍った動物を包み込んで保護するためのものである。昆虫や魚類の中には、分泌物や砂利などの外的物質を固めたもので卵を覆って補強するという種もある──とどのつまり“命を守る殻としての役割”こそが、繭の本質といえる。

決まったリズムで拍動を繰り返す無数の脈。
それは心臓の鼓動に似ている。
──生の象徴。
まるで“臨月を迎えた妊婦の腹を模したように”丸々とした樹皮の瘤から、その内側で羽化のときを待つ新たな命の気配を、シキミは本能的に感じ取ったのだろう。

その“命を守る殻”が──
まさに今、役目を終えようとしている。

亀裂は断裂に変わり、断裂は“出口”になった。
大きく開けた“出口”から覗けたのは、淡い光を放つ白い花に包まれた幻想的な空間だった。あえて例えるとするならば、蓮がもっとも近いだろうか。それが前後左右上下、正真正銘ぐるっと三百六十度、余すところなく、処狭しと咲き乱れている。

そして、その薄っすら輝く白い蓮の中に──若い女性が埋もれていた。

俯き気味に頭を傾けて、眠っているかのように目を閉じている。そっと両掌を重ねて置いている、大きく膨らんだ下腹部には根が張っている。纏っている薄いブルーのマタニティ・ワンピースを突き破って、茶色い筋が何本も集まっていた。その先端が一体どうなっているのかは、シキミにもヒズミにもわからなかった。足元は花に覆われてしまっているので、果たして彼女が立っているのか坐しているのか判別できない。

「このひと……樹と、同じ格好……」

シキミが呆然と漏らした、蚊の鳴くような細い呟きは、花弁のざわめきに掻き消えた。女性を包んでいる花々がひとりでに動いて、揺れて、その陰から、ずるりと──

柔らかくウェーブした若草色の長い髪を、枝で組み上げられた床の上に引き摺りながら、拙い四つん這いで、よちよちと出てきたのは──



紛れもなく、シキミがさっき“夢”の中で出逢った、あの少女だった。



「──あ……あああ……っ」

シキミが悲鳴のように呻いた。
声にならない。
なにも言葉にできない。

遂に訪れた決定的瞬間は、あまりにも静かすぎた。
あまりにも静寂で──静謐だった。
その神聖な空気に一滴、ぽつりとヒズミが言葉を落とした。電波の悪いラジオに混じったノイズのように歪んだその声が、穢れなく白く清んだ世界に波紋を穿って広げる。

それは己の“兄弟”へと贈る──
心からの祝福だった。



「お誕生日、おめでとう。──ハルピュイア」