Pretty Poison Pandemic | ナノ




そのとき──なにが起きたのか、わからなかった。

どうやら“樹”の幻覚作用によって意識を失っているらしいジェノスのもとへ走って、覚醒を促すべく声をかけた──モーター音さえ沈黙している機械仕掛けの肩を掴んで揺すった。

それがいけなかったのだろうか。
失策だったのだろうか。
それでスイッチを押してしまったのか、ブレーカーを落としてしまったのか、今となってはもうわからない──いや、例え時間が経過したところで誰にも真相を知ることなどできないのだけれど──とにかく、ジェノスはヒズミの接触にこそ劇的に反応した。

容赦のない暴力的なリアクションという形で。

──なにが起きたのか、わからなかった。

後頭部に感じる鈍い痛みと、突き飛ばされて仰向けに倒された体と、そのまま覆い被さってきたジェノスと、そして彼の腕が──指先が、自分の首に巻きついて、渾身の力で絞め上げようとしていることだけは把握できた。

はっきりと、敵意を露わにして。
殺意を剥き出しにして──
自分の息の根を止めようとしていることだけは。
理解できた。

「……ッ、ぐ……っあ……」

万力のように首を圧迫してくるジェノスの手を払い退けようと、絡みついて離れない彼の十指を引き剥がそうと、ヒズミは闇雲に暴れる──が、思うようにいかない。マイナスの感情を刺激して呼び起こす幻覚によって防衛本能を極限まで引き出され、リミッターの外れた高性能サイボーグの膂力には、いかに人外のヒズミといえど勝てないようだった。金属の指が徐々に熱を帯びていく。皮膚を焼いて、髪を焦がし、肉を破って骨まで熔かしてしまわんとするように──生命を脅かすレヴェルの、想像を絶する激痛に、とても自分が出しているとは信じられないような絶叫が迸った。

「──っうぁぁああああああアあああアアっッッ、」

痛々しく空気を劈く悲鳴も、ジェノスの耳には届いていないのだろう。悪夢に囚われて、溺れて喘いでいるのだろう──その証拠に、彼はヒズミが今まで見たことのない表情でこちらを見ている。ヒズミではなく、彼が“殺したいほど憎いと思っている”誰かを睨んでいる。

ぞっとする怨恨に染まった──というよりは。
今にも泣き出しそうな子供のような。
こうする以外にどうしたらいいのかわからなくて、ただ沸き上がる衝動のままに手を上げて、それでも収まらなくて、こんなことをしても失ったものは取り戻せないのに、どうにもならないのに──自分自身の幼稚で愚直な暴走を止められずにいるような。

どこか怯えているふうにさえ見えた。
怖くて怖くてたまらないものを、恐ろしくて恐ろしくて仕方のないものを、早く目の前から消してしまいたいと──足掻いている。

彼がそうまでして戦っている相手。
その心当たりは──ヒズミにもあった。

(……故郷の仇、なんだっけ)

彼の生まれ育った街を、家族たちの生命ごと壊滅させたという、狂サイボーグの話は聞いていた。そいつを亡きものとし、復讐を果たすためだけに、今の彼は生きているのだと。

(冷静に考えてみると──心底、怖いガキだな)

事件に遭ったのは四年前だと言っていた。

十五歳。
十五歳か。
──若いなあ。

凄まじい痛みさえも麻痺しはじめ、急速に薄れていく正気のなか、ヒズミはぼんやりと考える。

たった十五歳で。
すべてを奪われて独りぼっちになって。
仇を討つ決意をして。
生まれ変わる改造手術を受けて。
命を懸けることを誓って。
独りぼっちで、戦ってきた。

守るためでなく。
殺すためだけに。

その冷酷で不合理で非生産的な気概は、とても──ヒーローとは言えないのだろうけれど。

彼は自分を助けてくれた。
生きる理由を与えてくれたのだ。
まさに今“とばっちり”で息絶えさせられそうになってはいるけれど、その事実は変わらない。
絶対に変わらなくて、確実に揺らがない。

──それなのに。

(私は……この子に、なんにもしてあげられなかった……)

ただ彼の優しさに甘えただけだ。
彼の真っすぐな気持ちに依存していただけだ。
いいように──利用していただけだ。

なんて情けないのだろう。

誰かに手を差し伸べてもらうべきは──闇の底から救済されるべきは、自分ではなく彼の方だったというのに。

──今のお前なら、戦うこともできる。
──お前の強さは俺がよく知っている。
──俺も手を貸そう。だから……。

いつか夜明けのベランダで交わした会話を思い出す。あれは──あれは彼のSOSだったのかも知れない。孤軍奮闘に身を窶していた彼の、救援信号だったのかも知れない。敵は違えど、同じ“復讐”という目的のもとに、共に修羅の道を歩んでくれる他人を求めていたのかも知れない。

そんなものは寂寥に蓋をしたいがための利己的な同調意識に過ぎない、と切り捨ててしまえばそれはそうなのだけれど──人間というのは、得てしてそういうイキモノだろう。

誰だって、たったひとりは淋しいだろう。

それを拒絶したのは自分で。
答えを先延ばしにしてきたのも自分で。
中途半端なまま、ずるずると彼の隣で勝手に居心地よくなって、彼の言葉を鵜呑みにして舞い上がっていたのも自分で。
彼は自分とは違う、折れない鉄の心を秘めた強い男なのだと決めつけて、彼がどれだけ苦しんでいたのか考えもしなかったのも自分で。

彼を支えてやれたはずなのに。
そうしなかったのも自分だった。

(…………ごめんね)

謝りたいのに、喉が灼けて声が出ない。
全部が終わって片付いたら、伝えようと秘めていた想いも。

もう、彼に届くことはない。

なにもかもが遅すぎた。
臆病な自分が招いたタイム・オーバー。
敗因──自業自得。
一本勝負はこれにて終了です。
敗者復活戦は、ございません。

(…………………………)

ご愛読ありがとうございました。
次回作に──

(……ジェノスくんがいないなら、次なんていらないなあ)

願わくば、この物語が──
彼が幸せになれる結末を迎えられますように。

そう──祈る。
都合のいい贖罪のつもりで願う。

ゆっくり目を閉じた。
そして二度と開くことはないんだろうな──と他人事のように、しかし名残惜しく思いながら、ヒズミは必死に手繰り寄せていた意識を、そっと手離した。



しかし──結果として。
ヒズミはどうにか生き永らえることになる──正しく“首の皮ぎりぎり一枚が繋がって”生き延びることになる。それが誰の意思によるものなのか、偶然なのか必然なのか、すべては夢のように曖昧で、とても第三者が納得できるように説明することなど不可能だったのだけれど──彼女の数奇な人生が無慈悲にも打ち切り終了、という尻切れ蜻蛉にはならなかった。



そんな彼女は今、地上のシェルターの内部にいた。

天井には大きな穴が空いていて、遺体が安置されていたアスファルトの床は、現在びっしりと枝に覆われている。緩やかに盛り上がって、安らかに眠る人々を守るように棺の蓋を形成している。その上に立って、不格好な髪型へとイメージ・チェンジを遂げたヒズミは紫煙をくゆらせている──来たるべき、その瞬間を“待っている”。

彼女の中で、この謎の大樹の正体を解明するためのピースは既に揃っていた。それも夢のように不確定で不完全な形ではあったけれど、これは彼女の“兄弟”たる存在である──もっとも近しい怪物である。どこか通じ合えるところがあるのだった──まあ、それも言語化しようのない、至ってシンパシー的な直観の賜物だったのだけれど。

どこまでも──夢のように。
ふわふわと不安定で、地に足のつかない、先の見えない感覚だったのだけれど。

そんなものは夢も現も一緒だろう。

ヒズミの足元に転がっていたシキミがもぞもぞと身動ぎした。ドラゴンに誘拐され、シェルターの強固な天井を突き破ってここまで連れてこられたシキミが、ようやく目を覚ましたのだ。むくりと上体を起こし、現実へ帰ってきた彼女の目に真っ先に飛び込んできたのは、どこか悲しげな眼差しでとある一点を見据えているヒズミと──

その視線の先。

不自然に膨らんだ、分厚い樹皮の繭だった。