Pretty Poison Pandemic | ナノ





これは一体どういう現象なのか、辺り一面、花畑だった。

「あれっ?」

大きな目を更に見開いて、シキミは周囲をきょろきょろと見渡した。花々に彩られた、なだらかな丘陵がどこまでもどこまでも続いていて、遥か遠くの地平線が目視できる。まるで抽象絵画の世界──想像上の天国を描いた、美しいパステルカラーの海のようだった。

人間が死後に辿り着くと語り継がれている楽園──
神々の庭に相応しい、現実離れした風景。

つい先刻までサイタマと探索していた、桁外れに巨大な樹洞──おどろおどろしいハルピュイアの内部とは打って変わって、華々しく清々しく神々しい温かさに満ちた空間。

ぬくもりに包まれる──肩から力が抜けていく。
心地よい微温湯の中を揺蕩うような、不思議な安心感。

悪夢に魘されていた彼を文字通り叩き起こして、そして、成す術もなく龍に飲み込まれた。
そこからの記憶は、ない。
導き出される回答はひとつしかなかった。

「…………そっか、あたし、死んじゃったのか」
「私も最初そう思ったんだよなー」

まるっきり独り言のつもりだったシキミの呟きに、あっけらかんとレスポンスが返ってきた。飛び上がりそうなほどびっくりして、背後を振り向く──ヒズミが胡坐をかいていた。

「ヒズミさん!? うえっ!? なんで──」
「うっす。ご無沙汰ちゃん」

すっかり動転しきっているシキミに、ヒズミは飄々と片手を軽く挙げてみせる。この異様な状況下でも、普段と変わらぬ佇まいで、落ち着き払っているように見えた。組んだ足の上に両肘をつき、どっしりと構えている様子の彼女だったが、いつもと違うところがひとつだけあった。

「……ヒズミさん、髪が……」

膝まで届くほど長かった彼女の白い髪が、ばっさりと消失していたのだ。

首元のあたりで、不揃いな散切りにされている。見る限り切り口はかなり乱雑で、毛先も縮れている。とても“気分転換に散髪しました”といったふうではない──無理矢理に引き千切ったか、そうでなければ焼き鏝を当て過ぎたみたいなひどい有様だった。

「な……、なにがあったんですか?」
「……うーん、まあ、いろいろ。気にしないで。どうせ放っとけば伸びてくるんだから」

ジョークめかして肩をすくめ、ヒズミは茶を濁した。彼女は確かハルピュイアに取り込まれたシェルターで、親族の遺体の身元確認をしていたはずだ──そこで予期せぬ攻撃を受けてしまい、強制断髪の刑に処されてしまったのだろうか、とシキミは推察した。

「ここは一体……? あたし全然なにも覚えてないんですけど」
「奇遇だな。実は私もそうなんだよ」
「……ここ、どこですか?」
「わかんねーけど、空気が綺麗でいいな。現代社会の排気ガスにまみれた心と体をリフレッシュするにはちょうどいいんじゃねーか? もう喉がクソ痛くってさ」
「は、はあ……いや、さすがにリフレッシュはできないですけど……あとヒズミさんは煙草が悪影響なのでは……じゃなくて! そんなことより、えっと……、それで、ヒズミさんはこんなところに座り込んでなにをしてるんですか?」
「待ってる」
「……? なにをですか?」
「ここの“女王様”を」

──“女王様”?

とは一体どういう意味なのか──と。
シキミが訊ねる前に、“それ”は姿を現した。

「私は女王様なんかじゃないわ」

まるで最初からそこにいたとでもいうような自然さで、“それ”は──若草色の柔らかい髪を揺らしながら、二人の前に立っていた。花冠を被り、汚れひとつない白いワンピースの裾をひらひらと躍らせて、妖精か天使かといった風体で、その幼女はふわりと春のように微笑んだ。

突然の出来事にまたもや仰天しているシキミに反し、ヒズミは平然としている。既に“これ”を“知っている”──そういう冷静さだった。

「だって私、まだまだ子供なんだもの」
「でも、ここは君の世界なんだろ? だったら君がここのキングで、クイーンってことになるんじゃないのかな」
「……そうね。お姉ちゃんの言うことにも、ええと──こういうとき、なんていうんだったかしら──」
「一理ある?」
「そう! それだわ」

ぱんっ、と大袈裟に手を打って、幼女は屈託のない笑顔をますます明るくした。

「また会えて嬉しいよ」
「本当? 私もよ、お姉ちゃん」
「君が助けてくれたんだろ?」
「そうよ。お姉ちゃんが、悪いひとに乱暴されているって、おかあさんが教えてくれたの。だから私、おかあさんに“お姉ちゃんを守ってあげて”ってお願いしたの」
「ありがとう。お陰で命拾いしたよ」
「うふふ……お礼なんていらないわ。だって私たち、一緒に遊んだおともだちでしょう?」

会話の流れについていけず、所在なさげにあたふたしているシキミに、幼女がとてとてと歩み寄る。相変わらず無垢に頬を綻ばせたまま、

「あなたのことも、おかあさんにお願いしたのよ」
「えっ? ……あたし……?」
「男の人に殴られていたでしょう? それで怪我をしていたわ。あたし、女の子に意地悪するひとって嫌いよ。おかあさんも、そういうひとは嫌いなの。だから助けてあげたの。おかあさんは魔法使いだから、とーっても強いドラゴンを呼べるのよ」

──ドラゴン。

シキミの背中を、ぞくりと悪寒が走る。

「最初の一匹はやっつけられちゃったけれど、でも二匹目の子が、あなたを悪い男の人の前から連れていってくれたでしょう?」
「あ……あのドラゴンは、君が……?」
「私じゃなくて、おかあさんよ」
「……シキミちゃん」

ヒズミが鋭く目を細めて、シキミにこっそり耳打ちする。

「シキミちゃんを殴った悪い男の人って、ひょっとしてサイタマ先生?」
「! ど──どうして、それを」
「なんとなく。それで、先生どうなった?」
「その……悪い夢っていうか、幻覚を見ていたみたいだったので……力尽くで目を覚ましてもらいました。それで正気に戻ったので、探索を再開しようとしたところで……」
「あの子の言う“ドラゴン”とやらに襲われたってわけか」
「……そうです。樹の枝が固まって、龍みたいな形をしていました。それにあたしは飲み込まれて……」
「なるほどな──そうか」

なにやら一人で深く思索を巡らせ、筋道を立てて納得しつつあるらしいヒズミに説明を求めようとシキミが口を開きかけたが、それを幼女が弾んだ声で遮った。

「ねえ、みんなで遊びましょう。おともだちが増えて、私、とっても嬉しいわ。お外に出る前から、こんなにいっぱいおともだちができるなんて、本当に夢みたい」
「さっき、もうすぐ外に出られる、って言ってたね」

ヒズミの問いに、幼女は大きく頷いた。
その目に牧歌的な穏やかさはなく、むしろ刺々しい、ひどく真剣で剣呑な光が宿っていることに、幼女は気がついていないようだった。

「そうよ。もうすぐなの」
「もうすぐ外に出て、君はいろいろな人に会える」
「ええ」
「おかあさんにも初めて会えるんだね」
「ええ。楽しみだわ」
「おかあさんは元気なのかな」
「……実はね、ほんの少し元気がないの」
「それはどうして?」
「おかあさんに意地悪をするひとが、たくさんいるの。外にも、中にも、たくさん。おかあさんはすごく痛がっているわ。でも、力を吸い込んで、がんばって耐えているのよ」
「力を吸い込む? どうやって?」
「わからないわ。でも、おかあさんにはそれができるの。魔法使いだから。私が外に出たら、今度は私が魔法使いになるの。おかあさんの力をもらうの。そういう決まりなのよ」
「君が、おかあさんの力を受け継ぐんだね」
「そうやって生き物の命は続いていくんだって、おかあさんは言っていたわ」
「そうだね──そうだ。そうやって、君たちが生きていくためのシステムは続いていくんだ……」

溜め息混じりにそう言って、ヒズミは項垂れた。

「……ヒズミさん?」
「なんで、こんなことになっちまったんだろうなあ……」

呻くように零して──ヒズミは頭を押さえた。
髪を掻き毟るように、指先に力を込める。

「お姉ちゃん、どこか痛いの?」
「……いや、大丈夫だよ。大丈夫だけど、そろそろ行かなきゃいけない」
「どこへ行くの?」
「王子様が待ってるんだ」
「私も会いたいわ」
「どうだろう。多分がっかりするかもなあ。今頃あの子、泣いてるかも知れないし」
「泣いてる? 王子様なのに? ちっともかっこよくないわ」
「かっこいいだけで惚れたんじゃないからね」
「うーん、よくわからないわ。そういうものなの?」
「ああ。複雑なんだ、大人ってのはな」
「私にも、いつか、わかるときが来るかしら?」

純粋で、純真で、一片の穢れもない、未来への希望に満ちた世界を知らぬ蕾のような幼女の、その瑕疵ひとつない無敵の好奇心に。
人生の先輩たる“大人”であるヒズミは──適当にはぐらかすようなことはせず、面と向かって、ありとあらゆる責任を背負う覚悟をしっかりと持って答えた。

「──残念だけど、来ないと思うよ」