Pretty Poison Pandemic | ナノ





これといって特色のない、普通の街だった。

突出して発展しているわけでも、流行が遅れているわけでもなく、なにをとっても平均的な街だった。平均的ということは、つまり、ちょうどいいということだ。十代半ばの少年にしてみればそれはやや退屈な世界ではあったけれど、不自由はなかった。不都合はなかった。腹が減ったときには食べるものがあって、学校にも行けて、日が暮れたら温かい布団で眠ることができた。刺激は少ないが、人生とは得てしてそういうもので、ずっとこうして生きていくのだろうと思っていた。



そんな平々凡々な生まれ故郷が。
──燃えている。
火の海と化している。



自分の背丈より何十倍も高いビルディングが積み木のように崩される轟音と、絶え間なく聞こえてくる誰かの悲鳴と怒号と、けたたましい車のクラクションが重なった、趣味の悪い合奏が炎に包まれた街を飛び交っていた。

地獄のようなその光景の中を、全力で駆けていく。衣服のあちこちが破れて、裂けて、ぼろぼろになっていたが、そんなことはどうでもよかった。それどころではなかった。幾度となくつんのめって転びながら、それでも走った。一刻も早く家族を連れて逃げなければならなかった。突如としてこの街を襲った脅威の、その目の届かぬ遠くへ──

そうして辿り着いた、かつて生家のあった地区は、既に焼け野原の様相だった。炭と灰になった塊が山積みになって黒い煙を上げているばかりで、原形を保っている建造物はひとつもなかった。蹂躙されて、破壊され尽くしていた──建物の中にいた人間たちの生命ごと。

瓦礫の下からはみ出ている、人の腕の肘から先と同じ形状をした、黒焦げのなにかが視界の隅に過ぎった。“それ”の手首のあたりに装着されていたのは、煤けてはいたけれど、見覚えのあるアクセサリーだった。途端にひどい眩暈と嘔吐感に見舞われて、直視することができなかった。弾かれるようにまた走り出した。

走り出して、しかし行く宛てなどなかった。帰る場所もなくなってしまった。限界を超えた疾走で、全身の筋肉と呼吸器官が警鐘を鳴らしている。半開きの口から漏れ出る隙間風のような呼吸が、乾いた唇から更に水分を奪っていく。

そこで記憶が少し途切れて、気がつくと大通りに出ていた。ここら一帯の中では最も車幅の広い幹線道路で、今まさに崩壊しようとしている街から脱出しようとしていた車が蟻の行列のようにぎっしりと並んでいた。夏の帰省シーズンでも見たことのない大渋滞で、前にも後ろにも動く様子がなかった。

それも、まあ、当然だろう。

まともに駆動できる状態の車など一台もなかったし、
乗っている人々も残らず息絶えていたのだから。

中央分離帯に激突してひしゃげた軽自動車、潰れて全長が半分になったトラック、真ん中から切断されて運転席と後部座席が分離したファミリー向けワンボックス──どれもこれもが自然の変化には有り得ない、再起不能のスクラップの鉄屑に落ちぶれていた。

すぐ脇で平べったくなっている乗用車の助手席に、若い女性が座っている。低くなった天井に押し潰されて、首が垂直に折れ曲がっていた。見開かれた双眸からは涙のように血が滴り、瞬きをやめ剥き出しになった眼球の、瞳孔の開ききった黒目がこちらを見つめている──

ただ恐怖に突き動かされて無意識に、意思とはまったく関係のない絶叫が嗄れた喉から迸った。
声帯が掠れて自壊しそうなほどの悲鳴が響いて、しかしそれを聞いている者は誰もいなかった。

誰も──いなかった。
今ここで怯懦に立ち竦み震えている自分以外には。
もう誰も。
いない。
死んでいる。
あの化け物の餌食になった。
言葉さえも通じない残虐の象徴に。
殺されて。
死んでいる。

この街の生命の灯火は、完全に消えていた。

「………………」

真正面、数メートル先に黒い影がゆらめいている。夜闇に爛々と輝く猛獣の目のような光がふたつ、影に穴を空けていて、こちらを向いている。自分を観察しているようだった。泣き叫んでいる──つまり“まだ生きている”自分を、さてどうやって始末しようかと演算している──そうとしか思えなかった。

こいつだ。
こいつが殺したのだ。

自分の生まれ故郷を灰燼と帰した。
目的もなく、ただ狂気のもとに兇器を振るい、壊滅へと陥れた──

──こいつが!

無我夢中で飛びかかって押し倒し、そいつの頭部と胴体を繋ぐ部分を押さえつけた。この成長途中の未熟な体躯の、短い腕が届くほどの至近距離にいるのに、そいつの姿は明瞭としない──判然としない。それでも腹の底から溶岩のように沸き上がる怒りと悔しさと悲しみと畏れから、曖昧模糊とした敵を斃さんとする指先に凄まじい力が篭もる。

呼吸さえ忘れてなにかを喚き散らす自分の声は、別の世界から聞こえる雑音のようだった。己自身が今どういう言葉を吠え立てているのか、それすらもわからない。三半規管が正常に機能していない。頭が痛い。気持ちが悪い。掌が異様に熱かった。胃の中身をすべて吐いてしまいそうになりながら、それでもそいつを許せなかった。このとき、紛れもなく生まれて初めて“殺意”という悍ましい感情を知った。

そいつが暴れて、自分の腹を横一文字に切り裂いた。鮮血が冗談のように噴き出しても、不思議と痛みは感じなかった。しかし生物としての絶対的システムには逆らえない──意識が遠退いて、無数の罅が縦横無尽に走るアスファルトの上に倒れ込んだ。そいつが起き上がって、自分を見下ろしている。凶刃が自分の首を狙っている。

──死にたくない。

死ぬこと自体に恐れはなくとも。
こんなところで死にたくはない。

無力を嘆きながら。
非力を悔いながら。
弱い自分に甘えて易々と不条理を受け入れたくない。
この義憤と悲哀と恐怖とを胸に刻みつけて、
それらを己に潜む醜い怪物の糧とし、
いつか──

復讐のときが来るのを信じよう。

「……てやる」

殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。

血反吐を零す唇が自動的に──そう繰り返す。
もう指一本も動かせないのに、舌の根だけが乾かない。

殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。
殺してやる。

思いつく限り最も冷徹で、醜悪で、残酷な方法で。
いつか必ず。
お前を殺してやる。

身の毛もよだつ怨嗟の言葉を向けられても、そいつは無反応だった。罪の意識に苛まれる仕種も、勝ち誇って歓喜するような素振りもなく、ひたすらに淡々と──



「──ジェノス!!」



唐突に場面が切り替わった。分厚い樹皮の壁、枝同士が絡み合って足場を形成している床、闇に紛れて天井の見えない──樹洞。

視覚情報感知系統に異常が出ているようだ。光度センサーが正しく作動していない。眼窩の部分に埋め込まれたレンズの屈折調整も、網膜フィルタへの映像転移もおかしい。極度の近視状態に似た、ピントの決定的なズレがある。

それだけではない。主脳と各パーツを繋いでいる疑似神経束群も、その機能を失っていた。膝をついて中腰になった姿勢から、立ち上がって歩くどころか、前に倒れ込むことすらできない。まったく動かない。いくら指令を出そうと、途中で電気信号が断絶されてしまう。主要人工器官との接続が途切れてしまっているため、自分が五体満足でいるのかどうかすら把握できない。

そんな中で、聴覚だけでも生きていたのは幸いというべきだろう──大音声で己の名を呼ぶ、敬愛する師の声を認識できたのは。

「……先生?」

声帯も無事のようだった。なにかが喉の奥に引っ掛かっているような、決してスムーズではない発音だったけれど──意思の疎通に支障はない。

「どうした、なにがあった」
「……俺は……」
「なんか下向いてブツブツ言ってたぞ、お前。……“夢”でも見てたのか?」

──“夢”?

いや──違う。
あれは夢じゃない。

夢でも幻でも妄想なく、かつて自分を襲った凄惨な事件だ。

今でも“嘘だったらいいのに”と祈ってしまう過去。
天から授かった体を改造してまで、滅ぼしたいと願う仇敵。

「俺は……、夢……なんかじゃなくて……俺の……」
「言わなくていい、大体わかるから──それより、シキミが落ちた。俺のせいで、アイツ樹の攻撃を避けきれなかったんだ。ジェノス、すぐ動けるか?」

放心しているジェノスの側までサイタマが駆け寄ってくるのが気配でわかった。そちらへ向き直るだけのこともできないのがもどかしかった。なにもかも輪郭がぼやけて、しっかりと掴めないのが歯痒かった。

「……おい、ジェノス、お前」

ふと──サイタマが足を止め、逼迫した口調になった。

「お前……それ、どうしたんだよ、足元」

足元、と、サイタマは言った。

ピントの合わない義眼を凝らして、レプリカの虹彩をぎりぎりまで下げて、ジェノスは視線を落とした──白かった。

跪くジェノスの周りの地面だけが、白いものに薄く覆われていた。そこだけ雪が積もっているようにも見えるが、そんなことは季節柄にも環境的にも有り得ない──では一体、これはなんなのか?

よくよく観察してみれば、それは細く柔らかい糸が集まっているようだった。しかし自然由来の生糸だろうがポリエステルの化学繊維だろうが、こんなにも艶めいてはいないだろう。しなやかに流れるその白い糸は弾力性を持っていて、生気めいた気配を感じさせる──それは、まるで。

“燃え尽きた灰に似た色の髪のような”──

徐々に五感が蘇ってきて、途端に焦げ臭い匂いが鼻腔をついた。さっきより鮮明になった視界が、自分を囲むように散らばる髪の先端が焼け爛れて黒ずんでいるのを捉える。そして──掌からは白煙が立ち上っている。膨大な熱エネルギーが一点に集中した痕跡だった。体内から放出された高温が金属の耐久限界を超過したらしく、両の掌がどろどろに熔けていた。指同士がくっついて固まってしまっている。

「これ、ヒズミの……おい、アイツここにいたのか? ジェノス、お前ヒズミに会ったのか? なんかしたか? 言ったか? なんにも覚えてないのか?」

サイタマの矢継ぎ早の質問にも──
ひとつも答えられない。
わからない。
なにもわからない。

「…………ヒズミ……」

掠れた声で彼女の名を呼んでも、返事はない。
彼女の姿など、どこにも見当たらない。

そこにあるのはただ、物言わぬ蓬髪の死に絶えた残骸だけで──